捌、天津狐:承
全員分の布団が敷かれ、そこまで広くはない部屋はかなりの面積が埋まった。二人ずつが横に並び、顔を突き合わせるような形でしかれた布団の上で各自思い思いに座っていた。それぞれの顔つきは真剣そのもので、これから話し手となる天狐は少し可笑しくなって口元を緩ませた。天井付近に浮かべた行燈の火が柔らかく姿を浮かび上がらせる。
「本当に、聞くのですね」
しつこいくらいの確認に、紅緋、濃藍、そして龍神は頷いた。いいでしょう、と小さくつぶやいた天狐は、少しの間をおいて口を開いた。
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浮世では誰も知らない、昔のこと。この土地には人間が集落をつくって生活していた。周辺すぐ近くには他の集落はなく、領地争いも起こらないような温和な場所で、この集落の誰もが穏やかに過ごしていた。周囲は適度に開けた土地と清水の流れる川、山菜や果実なども豊富にある控えめな山や森林に囲まれ、実に恵まれた土地といえた。狩猟をするにも問題ない。非の打ち所のないような、まさに楽園での生活はおごらず慎ましやかで、人すらもできたものだった。
この土地では、昔から二頭の龍神が神として信じられ、崇められていた。人々の間で話されている神話は省略するが、各々への信仰心はとても篤く、彼らの存在はすでに確固たるものとなっていたに等しかった。信仰を集めるのは難しく、運任せな面が大きい。運がよかったこの二人は他に比べて存在が揺らがず、気ままにのんびりと暮らしていた頃だった。
彼らの守護する領域には力のある妖怪たちも住んでいた。その中に二人と特別仲の良いものがいた。その正体は九尾の狐で、珍しい黒い毛並みをしていたことから、あまり目立つのを嫌って群れたりはせず一人で暮らしていた。黒い狐は本来北斗七星の化身とされ、おめでたいものだったが、中々いない黒の毛並みは群れではよく目立つ。また生まれてこの方、そもそも仲間が近くにいなかった狐はいつの間にか妖力を増し、尾が九本に分かれていた。妖怪の中では最高峰の力を持つ九尾となったことで一層孤独となり、それでもその頃にはとうに独り身に慣れて、むしろ気楽だと思いながら住んでいたのだ。そこを例の二人の龍神に見つけられ、神特有のさっぱりとした性格が心地よかった九尾は、彼らと共にこの土地を守る約束をしたのだった。口約束ではあったが、それでも九尾は浮世に馴染めない龍神たちに代わってよく守っていた。
そんな中、ある時に九尾は一人の少女を見つけた。その少女は九尾が元の姿に戻っても怖がらず、それどころか友達になろうとまで彼女に言ったのだ。それがとても新鮮で、今まで人間と直接触れ合ったことのなかった九尾は喜んでその少女の遊び相手となった。艶やかな髪と涼しい表情、少女らしからぬ強い口調に益々興味を引かれた九尾は、ほぼ毎日森へ遊びに来る少女の相手をしていた。遊びと言っても裕福なわけではない故、玩具はなく、あらゆる植物を使ったり、川に入ったりと言った自然遊びをたくさんした。二人にはそれで満足だった。
妖や神にとって、人間の時間はあまりに短い。あっという間に少女は年頃の娘になり、娘らしい体格や仕草も備わって来ていた。それでも芯が変わることはなく、幼いころの遊びはしないものの、簡単な籠や花冠を編みながら話をすることは減らなかった。九尾はいつしか娘を大事な存在として捉え、また娘の方も実の姉の様に九尾に接していた。誰が見ても微笑ましく美しい友情と言えただろう。
しかし、終止符は突然打たれることとなる。
娘が年頃となる頃、この地域の天候は不安定になって来ていた。特に日照りが厳しく、いつかのような一面の実りは見られずにどの作物もやせ細っていた。水源は確かにあったのだが、如何せん雨の量が少なくて、地下水も当てにならないようになっていく。飢餓は集落全体に広がり、不穏な空気が集落を包んでいった。
ある日を境に、娘が九尾のもとを訪れるのがぱったりと止まった。九尾は、嫁にでも行ったのだろうかと考え、それほど気にはしていなかった。妖怪である彼女にとって一年二年会えないのは特に気にも留めるようなほどではなく、急な別れもしばしばあったが、たいてい何時かに会えたのだ。恋しくなれば、こちらからこっそり会いに行けば良いと考えながら、そのままでいた。
そんなことがあってから数日たったある時、森と集落の丁度境目辺りがやけにうるさかった。それは人間のものではなく妖怪たちのもので、そうとくればこの地域を守っている九尾の出番だった。妖怪には人間を食事にするようなものも一定数存在する。彼らの食料事情をまるきり否定することはしないが、あまり騒ぎ立てたり食い散らかしがひどい時には九尾が注意しに行くのだ、その時に勢い余って妖怪を殺してしまうこともあったがそれはそれ。それぞれの秩序を守るには致し方ないことと割り切って、一応手を合わせはしていた。
さてその様子を見に駆けつけてみると、下等妖怪たちが何かに群がっているのが見えた。しかし触れてはいないようで、なんなのだろうかと思いながら近づいた。その中央には、簡易的だがしっかりとした祭壇がつくられていた。しめ縄で囲われていて、穢れをもった妖怪たちは簡単に触れることは出来ない。それに何だったら触れられるのか、そう、神である。となれば、その祭壇に乗せられているのは神に向けた生贄で間違いないだろう。その通りで、清潔な白い死に装束を着せられたそれが横たわっている。これを知った暁には、彼らのことだ、相当怒るだろうなどと考えて、はたと気が付いた。その乗せられた人間は年頃の娘だったのだが、その髪には妙に見覚えがあった。濡羽色の美しい真っ直ぐな髪が、台から流れ落ちている。装束から覗いている白い肌にも見覚えがあった。しかしそれは記憶とは異なり、青白いとすら言える。末端に至っては土気色に変わりつつあった。恐る恐る顔を覗き込んだ。
それは、数日前まで笑いあった、娘の顔だった。
口の端から流れる赤。
おそらく、毒を飲んだのだろう。
閉じきっていない瞼から覗く瞳は、以前はガラス玉のように煌めいたのに、今はもう濁って何も映さない。
その体をあの娘と認識してから、数秒。
周囲に集まっていた低級妖怪たちが、一瞬にして溶け落ちた。
九尾の周りを、黒く重たいものが取り巻く。それに触れた植物たちはあっという間に枯れ果て、瑞々しさを失う。衝動のままに、九尾は駆けだした。方向は娘が住んでいた、二人の龍神が愛してやまない、かつて何もかもに恵まれていた、平和だった集落。
騒ぎを聞きつけて来た二人の龍神が見たものは、地獄絵図とも言えるような悲惨なものだった。この時代にしては良く整えられていた集落は跡形もなく、火が上がっていたり激しく倒壊している家々が目に飛び込んできた。見渡せば、炎が燃え移ったのか熱さに悶え叫びを上げている者や、不自然に体の一部が欠落して絶命している者、あまりの恐ろしさに動けなくなり、その場にうずくまったままの者、等々。そして、集落の一角の上空には黒い靄の塊が激しく暴れていた。銀の龍神がそれに気を込めた水を打ち当てると、あっという間に靄が払われた。その中心部にあったものが落下してくる。それを受け止めれば、それは変わり果てた九尾だった。九尾に触れた腕がじゅうと音を立てたため、慌てて地面に下して腕を見れば、焼けただれて真っ赤な肉が覗いていた。酸に触れたように煙を上げる患部をどうにか修復して、後ろに控えていた青い龍神に目をやる。心得たとばかりに頷いた彼は天に昇り、辺りが水浸しになるほどの雨を降らせた。それは浄化の意味を持つ。上がっていた炎や煙はすぐに消えて、溶け落ちた箇所は普通の損傷のような見た目へと変貌した。しかし来るのが遅かったようで、集落の八割方はなんらかの損傷を受けて機能しない状態にまでなり、人々もかなりの人数が亡くなり癒えない深い傷を負った者も多かった。後は彼らの意思に任せるしかないと判断し、龍神たちは未だ眠る九尾を連れて飛び去った。この周囲で綺麗なままだったのは、あの祭壇と、それに乗せられた一つの体だけだった。
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