質、天津狐:起

──────忘れもしない、忘れてはならない。


 一人佇たたずむその人物が、誰に向けたわけでもないその言葉を音にした。冷たい不穏な風が一陣駆け抜けたが、それに違和感を覚えた者は、果たしていたのだろうか。その者の目の前にあるのは、一つの大きな石。特に細工されたものでもなく、自然にできた石がその場に鎮座している。その石の前に、大きさの控えめな紫苑しおんの花束を置いて、その流れで石をそっと撫でた。その手つきはとても慈愛に満ちたものだったが、手の主の表情は、慈愛とはかけ離れたものだった。およそそれは、己に向けた断罪の意識。






 この領域には珍しいどんよりとした天気に、見上げた銀龍はもうそんな時期か、と零した。丁度隣にいた龍神は首を傾げるも、こちらの話だと濁されて仕方なく空を見上げなおした。雨が降りそうで降らない曇り空は、まるで誰かが泣きたいのを耐えているかのように思えてならなかった。何でもないと言った癖にため息をつく銀龍のことが気がかりだったが、こういう時にいくら話しかけても全て流されることを知っていた龍神は、なすすべもなく隣で座っているより仕方がなかった。はじめの頃はそんなものかと思っていたが、やはり気になるものはなるし、何かがつっかえて気分がよろしくない。とは言え、どうにか聞き出そうと試みたことは何回もあったが、これまでかなうことはなかった。


 彼女は、この天候が毎年繰り返されていることに気が付いていた。それと同時に、この時期にはいつも自分に良くしてくれる天狐に会うことが無いということも。しかし、それとこれがどのような関係があるのかまでは結び付けられない。悶々としたまま、毎年この時期は過ぎていき、いつの間にか平穏な日常が戻ってきているのだ。このことを、他の四人の神は知っているようだったが、必ず話をそらされた。あの嘘をつくのが下手な鴉天狗でさえも流されてくれることはなかった。それがどうしようも無く嫌だったが、それならば本人に聞けと言われて、素直には聞きに行くことは出来ないでいた。






 この時期、この領域は毎年悪天候に見舞われる。晴れの日は穏やかな陽光に包まれ、曇りもどこか明るく、雨天の時でさえもしっとりと慈愛に満ちた恵みの雨が降る、そんなここであるにも関わらず、である。どんよりと厚い雲が空を隠し、どこか背筋の凍るような冷たい風が吹く。


 彼岸花邸では、この時期は全ての訪問を断り、締め切られた空間となっている。紅緋と濃藍は自由に出入りをしているが、この屋敷の主である天狐は一切表に出てくることはない。それどころか自室に引きこもり、廊下にすら出てこないのだ。それを二人は毎年心配したのだが、天狐の大丈夫という言葉と有無を言わせぬ表情にいつも負けて、天狐の自室に近寄らない約束を守っていた。こうして籠るのは大体二日程度で、その後に出てきた彼女は少しやつれているため、何か力になれないものかといつも考えていた二人だが、言い通せたことは一度もない。






 天狐は、その間何をしているのだろうか。






 草木も眠る真夜中、彼女の自室はというと、もぬけの殻だった。外出しているらしいが、そのことに紅緋と濃藍は気づいていない。とうに寝静まっていたからだ。少し経つと、庭を横切る足音が響く。その音は揃わず、ひどく覚束おぼつかないようだ。


歩いてきたのは、やはり天狐だった。外へ出る用の着物ではなく、眠るための薄い寝巻に一枚羽織っただけの格好でどこからか戻ってきた。ふらふらとした足取りで、庭に浮いた行燈あんどんでわずかに見える顔は、これ以上ないほどに白い。いつものような黒々とした髪や尾は輝きを失い、ぱさついても見える。その中で紫色の瞳だけが爛々らんらんと異様な輝きを放っていた。縁側までたどり着くと、体力の限界だったのか一度そこへ座った。少し休憩して落ち着くと、彼女は立ち上がって歩き出した。寝所はもう目の前である。


「、~~っ!」


天狐は思わず自身の体を抱きしめ、動くこともままならずその場に座り込む。手を後ろに回しており、どうやら背が痛むらしい。今は月が天辺に昇る丑三つ時、眷属の二人はとっくに眠りについている。大きな音を立ててはいけない、とあまりの激痛に朦朧とした意識で考えながら這いずるように進んだ。その着物の背は白いままで何か外傷があるようには見えないが、酷い痛みの様だ。時折低い唸り声を抑え込みながら、どうにか部屋の前へたどり着く。しかしここが難関で、入るには障子を開けねばならない。しかし痛むのが背中とくれば、開ける動作をすれば力は多少なり込めなければならない。それが耐えがたい痛みを伴うようで、まなじりはうっすらと涙で濡れていた。しかしなんとかして障子を通れるくらいの隙間まで開き、体を引きずりながら這いずり込んでそのままに、布団へ入った。


「…っふ、ぐ…」


痛みに喘ぎながら、天狐は着ていた着物から帯をそのままに腕を引き抜いた。背を丸めて痛みを紛らせるように二の腕を強くつかんで息を繰り返すその様は、あまりに痛々しい。そして、ぶち、ぶちりと嫌な音とともにその白い背中には何かが生えた。黒い見てくれをしたそれの先からは、何かに濡れて汚れた白い棒状のものが覗いているのが見て取れる。ぼたりと液状の何かが布団を汚すが、それに構っていられるわけがない。歯をくいしばって耐える彼女の背のそれは、よく見れば引きちぎられて骨が露出した血濡れの翼…だったものである。






 数日経ち、ようやく空に晴れ間が見えてこの領域に活気が戻ってきた。いつも通り振る舞う天狐の様子にやはり引っ掛かりがあるものの、紅緋と濃藍は気にしないように日常へ戻っていた。ここで問い詰めても優しい彼女を困らせるだけだ、と二人は自分に言い聞かせて、少しだけやつれた天狐をいつも以上に気遣いながらもいつも通りの態度を心掛けた。


 天狐の籠る期間が終わると、毎度真っ先に彼女のもとを訪れる神がいる。今回も今日来る、と前もって報せを受けていた濃藍は天狐にその旨を伝えた。一日もたてば見た目に関しては元通りの彼女は、その報せに一等優しく微笑みながら相分かったと頷くのだ。毎度手紙の主は泊まって行くため、紅緋と共に客間を含めて迎える支度を整えていく。そろそろだという頃に表へ出ると、空にこちらへものすごい勢いでやってくる黒い龍の姿がみえる。それはあっという間に目の前に降り立ち、彼女の特徴ともいえる浅葱の大きな羽織りを翻しながら、駆け足で天狐に飛び込んできた。最早いらっしゃいの一言も言えず、紅緋と濃藍はその様子を両隣から見ているしかない。今回は彼女の眷属である柳と竜胆はいないらしい。


「菖蒲様!またやつれたろう!」

「ふふ、元気でなによりですよ響季。そんなに急がなくても逃げませんよ」

「私は怒っているんだ、どうしてやつれるんだ、食事を取っていないんだろうそうだろう全くもう!」

「おやおやまあまあ、今回はいつにもまして攻撃の鋭い」


ほれ行きますよ、と簡単にあしらわれて中へ入るよう促される龍神は、不服そうでありながらも会えたことが嬉しいのか素直に従って入っていく。それを見届けた二人はこの後することもなく夕餉ゆうげの支度まで暇なため、釣りへ行くかと道具を揃えて出かけて行った。



 夕餉も片付けも終えて、四人は一堂に会してとりとめのないことを駄弁っていた。夕餉に出てきた魚は全て自分たちが釣り上げてきたのだと力説する紅緋に響季が素晴らしいなと褒め、その様子を天狐と濃藍は思い思いに眺めていた。日はとっくに沈み、夜特有の澄んだ少し涼しい風が屋敷を通り抜けていく。夕餉の後は風呂も入り終えて、四人は縁側に並んで座っていた。そろそろ寝ようかという雰囲気になった頃、響季が意を決したように言葉を紡いだ。


「菖蒲様。…どうして、貴方は閉じこもる期間があるんだ」


その言葉に、天狐は口をつぐみ、表情を曇らせた。後の二人はまさかそれを、この状況で龍神が訪ねるとは思ってもみず、ただ体を固くした。このことについては不可侵領域だと思ってやまなかったことに、龍神が踏み入れたことに心底驚いたのだ。気まずい沈黙が訪れる。しかしこの沈黙を破る勇気は、紅緋と濃藍にはなかった。


「…それを知っても、貴方のためにはなりませんよ」


ようやく開かれた天狐の口からは、はっきりとした否定の言葉。それに傷ついたのか、龍神は普段あまり動かない表情が崩れ、泣きそうな顔をした。それに気づいたのは丁度真横に寛いでいた濃藍だった。天狐は外を眺めたまま、動かない。とうとう項垂れた龍神を見てしまった彼は、ついに心を決めた。


「…菖蒲様…俺ごときがこのことに口を挟むのは出過ぎた真似かもしれない…けれど俺も知りたいです。いつも心配しているんです、理由くらいは知りたい…」


普段から非常に口数の少ない濃藍のこの発言には皆が驚いたようで、三人の視線が濃藍に集まった。特に天狐は衝撃だったようで、涼やかな目が今は真ん丸と言っても過言ではないほどに見開かれている。再び沈黙。しかしそれを、今度は紅緋がやぶった。


「菖蒲様!このことに関しては、俺も濃藍と響季様に同意見です。確かに俺たちが聞いたところで何もできないかもしれないし、為にもならないかもしれません。しかし、俺たちは俺たちの意志でそれを聞きたいと望んでおります」

「…ですが…」

「菖蒲様。俺たちは信用に当たらないのでしょうか。同僚の響季様は俺たち以上に貴方と共にあったはずですよね?それに遠く及ばないとしても、俺たちだって貴方を数十年見てきた。今更貴方の汚れていると思ってるやも知らぬ面にひるむはずがないのです、断言いたしましょう」


天狐の反論に被せて言葉を言いきり、そうだろう?と言いたげに紅緋が濃藍と龍神を見やれば、こくこくと大きく頷いた。その光景に、今度は天狐が泣きそうな表情を浮かべる番だった。ため息を一つ吐くと、腹を決めたようで、そのまなざしは凛と強いものとなった。それは普段のどこまでも優しく、掴み所のない彼女には見られない、新しいとも言える一面だった。


「では、お話ししましょう。長いですから、途中で寝てしまってもいいように、布団を全員分敷きましょう。それと響季、貴方には特につらい思いをさせるかもしれません。それでも聞きたいというのならば、みんな支度をしていらっしゃい」

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