肆、水蓮

 四つ連なった山々の最後、東の山。この山は全体で水源が豊かで、あちこちに小川が走っている。場所によっては小さいながら滝もあり、清廉な空気に包まれている。その山の頂上付近、まるで山肌をえぐったような形の場所には大きな泉がある。泉には一面に白い水蓮が咲き誇り、その浮かんだ葉には時折小さな生物や妖怪が休んでいることもある。木々が生い茂り、更には低木や背の高い草で囲まれているため、気を付けなければうっかり泉に落ちてしまいそうな形であるが、その真ん中を真っ直ぐ、美しい橋が渡されている。そこを渡った先にある、泉の中に建てられた厳かな屋敷が、水蓮邸だ。






 ここの朝は東側のため、他の山に比べてほんのわずかだが日の当たりがよく、夜のうちに広がった霧が徐々に薄れて水蓮の花弁に朝露をつくる。そのころにここの住人のうち二人が起きてくる。体の比較的大きな少年が外へと出てきて、大きく伸びをすると小鳥が飛んできて彼の肩にとまった。小さな瞳が見上げてくるのにふっと笑い、その頭を指の腹でそっと撫でてやると、嬉しそうに目を細めた。彼は屋敷の近くに生っている朝露のついた柘榴をいくつかもいで、中へと入っていった。一方でもう一人はというと、こちらは厨房で朝食の下準備をしていた。少女がするすると大根の皮を剥いている隣で、帰ってきた少年が持ってきた柘榴を桶にいれて軽く洗う。大根を千切りにし終わり、少女が今度は梅干を取り出した。種を抜いて少量の砂糖と共にすりつぶし、大根にあえればあっという間に一品目の完成だ。その段階で、隣で味噌汁を作っていた少年に主を起こして来いと言われた彼女は、一度その場を離れた。


 屋敷の最奥の部屋、少女がそっと障子を開けると、その部屋の中央ではまだ布団に人影があった。静かに寝息をたてる主にそっと近づく。眠っている人物の頭部には、大きな一対と小さな一対の角が生えている。これで良く寝られるものだと誰もが思うのだが、寝相が良いらしいこの者には大した問題ではないのだろう。少女がそっと胸辺りに手を当てて朝であることを呼び掛けると、すぐに反応があった。ゆるく開かれた瞼が眩しそうにきゅうと閉じられる。上体を起こして伸びをしたところで、少女は次の準備をするべく布団から離れた。


 起きてからの支度を終えて、未だ眠いらしい主の手を引きながら少女は離れへと向かった。歩いていることで目が覚めたらしく、途中から主はしゃんと背筋を伸ばす。二人が離れへ着くと、すでに先ほどの少年が座って待っていた。挨拶を交し、主が座る。その腰元から出て揺れる尾は黒い鱗に覆われ、先端には彼女の髪と同じ色の毛がふさふさとしている。彼女は龍神であった。彼女の前に立った二人は、少年は神楽用の剣、少女は神楽鈴を持って一礼した。音はないまま、ふわりと柔らかな動きで舞い始める。この離れは障子や壁はなく、外の音がそのまま入ってくる。大自然に囲まれて舞う二人を、龍神は夢見心地で見守った。神楽鈴が規則正しく鳴り、剣の空を切る音が低く唸る様は実に神秘的で、言葉の交わせない獣たちや低級の妖怪たちがそろって観にやってくるほどだった。


 ぱん、と乾いた音が鳴る。それにより現実に引き戻された二人は礼儀正しく頭を下げ、その場に座った。少し息の乱れはあるものの、そこまで大きな負担は無いようだった。


「よくできている。纏う雰囲気も美しくなった」

「ありがとうございます」

「ああ、では食事にしよう。いつものお参りが終わった後に稽古だ」


 はい、とよく通る返事をした二人が離れを出るのを見届け、龍神は立ち上がった。この屋敷は泉の上に建てられているため、一部は地についている場所もあるが、ほとんどは水に囲まれている。離れから見える、水面に広がる水蓮たちを見るために、龍神はふわりと宙に浮いた。着ているものが濡れないように注意しながら、一輪ずつ注意深く選定し、摘み取っていった。






 朝食が終わった後、龍神はもとの姿をとって二人を乗せ、中央の山にある社へ来た。日が遮られて薄暗い中、台に置かれた八つの花瓶を人型に戻った龍神が撫でる。中に満たされた水がすべて真新しいものにかわり、心なしか生けられた植物たちが生き生きとよみがえったようにも見える。既に新しい花が生けられた花瓶には今朝方摘んできた水蓮を挿し、まだ前の花が生けられたままの花瓶の前にそれらの分を置く。薄めの紫とややくすんだ緑の花瓶から花を抜き取り、新しい花を生ける。


「…うむ。良いだろう」


そう呟いた龍神は抜きとった花を二人に持たせた。顔が緩んだ二人を見て満足そうに頷き、再び龍の姿をとると背に乗るよう促した。






 さて、ここ水蓮邸の住人はこの三人のみである。龍神は『響季ひびき』と呼ばれており、今までの三人の神々に比べるとその見た目はやや若いようだった。勿論神の生きた年は見た目に反映されるとは限らないため、彼女が生きてきた年数を推測する根拠にはなりえない。他の三人が見た目が同い年くらいなだけであり、彼女はそこから少し外れていたというだけであろう。


 そして他の二人はやはり龍神の眷属として住んでいる。少女は『竜胆りんどう』という名で、見た目は十五ほどの落ち着いた印象を受ける娘である。その実は表情が乏しいだけなのだが、時折見せる笑った顔などは年相応に可愛らしいものである。龍神の身の回りの世話を主に引き受け、おっとりとしながらもよく働き、龍神の世話を焼いている。一方少年は『やなぎ』といって、その体格の良さから竜胆よりも少しばかり年が上な印象を受ける。屋敷を管理するのが彼の役目で、料理が好きな柳は最近竜胆にも教えて台所に二人で立っている。


 見た目も相まって、三人は仲のいい同い年の友人の様にも見えなくはない。またこの領域に住む眷属の中で唯一の少女がいることもあってか、他の屋敷よりも随分と落ち着いた雰囲気があった。少しばかり独特な雰囲気の屋敷は、他の屋敷の者たちからは大切に思われているようだった。






 屋敷に戻ってきた三人は一度着替え、例の離れに集まった。動きやすい服装と舞の時に持っていた小道具に似たものを持っていることから、龍神の言っていた稽古が始まるらしい。ちなみに龍神が持っているのは、背丈以上もある長い木の棒だ。体をほぐすための準備運動や柔軟を終えて、竜胆と柳は離れの真ん中に立った。龍神の打つ柏手に合わせ、くるくると流れるように舞う。時折龍神から注意の言葉が飛んだ。


「腕の伸びが甘いぞ柳。竜胆は力みすぎだ、もっと軽く」


返事をする余裕もなく、終了の合図が出される頃には二人とも汗だくになっていた。ぺたりと床につくばって休憩していると、いつの間にか龍神が盆を持って立っていた。二人が寄るとその場に適当に座る。盆の上に乗っているのは、よく冷えた水とつるりとした水ようかん。


「よく頑張っているから、おやつだ」


感情の乗らない声がそう告げると、二人が目を輝かせて皿をとった。こう言いながら、龍神は稽古のたびに何かしらの菓子を二人に与えてくれる。甘いものに目がない竜胆は勿論、柳も龍神の作る優しい味の菓子が好きなため、毎回こうして喜んで食べている。大事に食べる二人にそんな大層なものではないのだから、と言う龍神も、そうして食べてくれるのがとても大事な時間だった。

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