参、藤
北の山は他の三つに比べて最も高い標高を誇る。それもあってか他とは少しかけ離れた雰囲気があり、遠目にも威圧感があるように感じられる。朝には霧がかかり、薄暗い鬱蒼とした山中が特徴だが、頂上は一気に開ける。そこは広場の様に背の低い草が茂り、中央には下から見れば空を覆ってしまう程の非常に大きな木が立っている。その木自体は滅多にない巨木である以外は普通の木だが、これを更に異様に見せているのは、枝という枝を伝って狂い咲く藤の花だった。紫から青にかけての色合いがとても美しいが、まるで巨木を閉じ込めんとするかのように咲くそれは見る者に一種の恐怖を与えもするだろう。
ここの主は非常に早起きである。ほんの少しだけ空が白み始めたかという頃に、巨木の一等太い枝に乗せられるように造られた質素な家からそのまま飛び降りる。怪我をしないのかと思うだろうか。その心配は彼女の背にある大きな黒い翼を見ればすぐにいらないと分かるだろう。ここの主は鴉天狗だった。こんな早朝だというのにはっきりと目を開いた主はそのまま歩いて周囲の木々に近づき、ぴい、と指笛を一つ鳴らした。その音に反応して出てきたのは普通に立っても人の腰ほどはあるだろう大烏たちだ。そんな大きさであるから、翼を広げればもっと大きい。大烏は妖怪の一種で、どうやらここの主によく馴れているようで行儀よく彼女の前にやって来て翼を畳んだ。おはようと声を掛けながら餌であるらしい何かの果実を端から与えていく。
空の端にようやく太陽が顔を見せた頃、彼女の背後で衣擦れと草を踏む音が鳴る。振り返ると、いたのは明るい茶の髪をした少年と濡れたような黒髪の少年だった。一人はまだ眠いようで瞼をこすっている。
「おはようございます葵様」
「おはよう。支度は大丈夫かい」
こくりと頷いた二人に声を掛けると、近くにいた大烏二羽を呼び寄せて二人を乗せた。しっかり捕まるように忠告し、彼女は己の翼をはばたかせた。
一行がやってきたのは中央の山を越した例の小さな社。いつの間にか摘んでいたらしい今朝の藤をもって台へ歩み寄る。彼女らが一番乗りのようで、まだ誰かが今日のうちに来た形跡はない。並べられた八つの花瓶のうち、強い黄色と濃い水色の花瓶に生けられた花たちを抜き取り、後ろに立っていた二人に持たせると彼女の持っていた藤の花を生けた。他の花瓶の前にも新しい花を置いて、一仕事終えたと頷いた。
「よし、花を落とさないようにね」
「流石に落としませんよー」
「落としたら神様から罰が当たりそうだな」
「はは、その神がここにいるんだがなあ」
二人が、それでも大事そうに花を持ちなおしたのを見て、鴉天狗は豪快にその頭をかきまぜた。抗議の声が上がったが、どこ吹く風と言った調子で空へ舞い上がる。そのまま置いていくぞと言わんばかりに上昇していく彼女を見て、慌てたように残った二人は大烏の背に乗った。
藤の狂い咲く巨木へと戻り、二人の少年は巨木の根元に構えられたこれまた質素な家に一度入り、その手に背丈以上ある錫杖を持って出てきた。広く開けた中央に並んで立つと、巨木を見据える。その枝には鴉天狗が腰かけて二人を見下ろしている。並び立つ二人はすっと膝をついて礼をすると、その場で舞い始めた。単純に舞というよりは、歌舞伎の如く力強い足取りと手さばきを繰り返す。操る錫杖がじゃらりと音を立ててその動きに彩りを添え、舞は進んでいく。そのうち、見ていた鴉天狗が懐から篠笛を取り出した。それは黒地に紫と青の模様が施された華奢なもので、この地の主にふさわしい代物である。流れるように構えて唇を当てると、たった一音だけを長々と吹いた。その拍子に舞っていた二人が止まる。その音は、出している主がいなくなっても暫く余韻が響いた。
「今日はここまでだ。朝餉の準備をするから手伝ってくれ」
「はい」
「ああ、置いてきてからでいいよ」
二人が家へと戻るのを見送り、鴉天狗は二つ三つ小さく吹いてから篠笛をしまって歩き出した。
ここには屋敷という程大きな建物はないが、便宜上『藤邸』と呼ばれている。ここに住んでいるのは三人で、鴉天狗は『
山吹は明るい茶髪の少年で、おどおどと少し臆病者な面がある。だが手先が器用で、着物を繕うことや蔦でかごを作るのは彼の役割となっている。基本質素な生活を心掛ける鴉天狗にはありがたい能力だった。もう一人の縹は青みがかった髪と薄い青の瞳で、かなり目鼻立ちの良い少年だ。この瞳は事故から色が抜け落ちた後天的なもので、光に弱く日中は必ず日よけをしている。しかし夜目はきくので、これまた本性が鴉であり夜目がきかない鴉天狗にとってはすばらしい眷属だった。
やっと日が昇りきった頃、鴉天狗は周囲の散策へ行こうかと眷属二人を誘い出した。年頃の子供らしくはしゃいだ二人を見守りながら、二人に気づかれない程度に目を光らせて周囲を見渡す。この山は他の山に比べて妖怪の住み付く数が多く、かわいい悪戯ならまだ良いものの、洒落にならないものまでしでかすものもいる。勿論山吹と縹もそのことは承知で、出来るだけ一人にならないように心掛けている。こうして散策という名の
「葵様!縹が…」
「何があった?」
あれ、と彼が指さす方向を見ると、何やらもそもそと動く物体がいる。近づいてみるとそれは毛玉のようなもので、こんもりとしている中心に縹がいるらしい。くぐもった声があわあわと言っているのに少し頬が緩み、毛玉たちをかき分けてやった。
「…っはあ!!息が詰まるかと思ったぜ…」
「縹!大丈夫か?怪我は…」
「ははは!安心しな、これらは低級だし、何か危害を加えるようなものじゃないよ。しかしここまで集まるのは中々壮観だ…一二くらいだと可愛らしいくらいなんだけど」
追い払った後からもまだまだ縹の体を登ろうとする毛玉たちを、危害はないと聞いて安心した二人が観察し始める。縹は以前から妖怪の類を引き寄せやすい体質らしく、こうして妖怪たちが寄ってくることが多い。そのこと自体に気づいたのはかなり初期の頃だが、鴉天狗が思う以上に引き寄せてくるため彼女はかなり驚いていた。毛玉たちは鴉天狗に叱られ、大人しく大きな葉の裏へと戻っていく。興味本位だろう、山吹がその葉をめくった。
「おわあ…びっしりいるとあんまり可愛くない」
「こいつらは大概群れでいるからね、ここが丁度住処だったか」
「…かわいいなこいつ」
縹がぼそりと呟く。彼の肩には二匹毛玉が乗ったままで、大人しいことからお気に召したようだ。乗っている毛玉たちも居心地が良いらしく、鎮座して動かないのを見て、山吹もそっと触った。持って帰ると烏たちに喰われるからやめておけと鴉天狗が言うと、彼は口を尖らせたが大人しく二匹を葉のもとに戻した。よろしい、と二人の頭を撫でて、三人はまた光が細切れに射す薄暗い中を歩き出した。
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