壱、彼岸花

 この領域は初代の二人が最も気に入った場所で構成されている。四つの山が連なり、南側に出っ張った山は浮世と繋がっている社がある、この領域の玄関口である。その山を囲むように三つの山があり、現在はそれぞれの山を一人の神が管理する形となっている。各山は簡単に西の山、北の山、中央の山、東の山と呼ばれており、最近では現世に居辛いづらくなった妖怪なども住むようになってひさしい。今回はその中で、浮世と繋がる玄関口を管理する中央の山のお話。






 この領域では季節を無視して様々な花や植物がみられる。中央の山の頂は広く地面が平らとなっており、生い茂る木々に隠されるように彼岸花が一面乱れ咲いている。その中心に、黒を基調とした大きな屋敷が建てられている。彼岸花邸、とそのままに呼ばれるここに住んでいるのは黒い狐だった。只の狐ではなく、尾が四本である神格を得た天狐という神である。特徴的なのは彼女のその大きな耳と尾に着いた青紫色の飾りで、本来普通の狐であれば耳はともかく本来そのように尾に何かつけることは滅多にない。また黒い狐で神格を得ているというのも珍しいため、一際目立つ神であった。この天狐は何を司っているかが明瞭めいりょうでないため、謎ばかりの者だ。ここに住んでいる分周囲には理解のある者ばかりなので、彼女は随分と気が楽であるらしい。屋敷には一人というわけではなく、御付きとして二人の眷属が一緒に住み天狐の世話をしていた。


 朝、二人の眷属が中庭に出て『お勤め』を果たすのを、彼女は綺麗な正座で見ていた。一人、金髪の青年は日本刀を、もう一人黒髪の青年は赤い番傘をもって、およそ居合の型のようなものを順に繰り出す。粛々と行われるそれは儀式のようで、非常に洗練されたものであった。すべて終えたらしく、二人が姿勢を崩すと黒い天狐が声をかけた。


「お疲れさまでした。さあ、体を拭いておいでなさい」

「はい。終えたらすぐに朝食にいたしましょう」

「ええ、慌てずとも待っておりますから、行ってらっしゃい」


二人はすっと姿勢を正して礼をすると、足早に中へ入った。それを見届けた彼女は徐に立ち上がり、屋敷の奥の方へと歩いていく。一つの障子を開けて中に入ると、着物をすべて脱ぎ去った。そのまま大きな手ぬぐいを持つと裏の戸をからりと開ける。その先には泉があり、どこからか、空中から水が注がれている。手ぬぐいを泉のすぐそばの木に引っ掛けるとためらいもなく泉へ身を浸した。僅かに冷えたのか身震いをして、手で擦りながら体を清める。特に青紫の玉飾りはよく磨いて、頭まで沈む。水は良く澄んでおり、これが広い湖だったとしても遠くまで見通せそうな程である。みそぎを終えて泉から上がると、耳と尾は振るわせて水気を飛ばし、体と長い黒髪はよく手ぬぐいで拭き先程の部屋へと戻る。そして普段着であるらしい着物を着つけ終えた頃、障子に影が映った。


「菖蒲様、朝餉あさげが出来上がりました」

「今参りますよ」






 朝食が終わった後、支度を終えた天狐は二人を伴って麓へと降りていた。手には今朝手折ったばかりの赤々とした彼岸花が八輪。麓に建てられている小ぢんまりとした社へ入ると、台の上には色とりどりの花瓶がこれまた八個。そこにはすでに彼岸花、小枝の紅葉、藤(本来垂れる形の花だが、花瓶の背が高いため何とか生けられている)、水蓮、蓮が生けられており、手前には新しい分であろう藤が置いてあった。よく見れば濃い黄色と水色の花瓶はすでに新しい藤だけになっている。心の中であれはいつも随分と速いと呟きながら、持ってきた彼岸花を濃い黄色と水色、加えて先に入っていた花を抜いた黒に近い青と燃えるような赤の花瓶に新しい彼岸花を生ける。そして先に生けられていた花たちを一束ずつ二人に持たせた。


「紅緋、濃藍」

「はい、菖蒲様」

「貴方たちには…苦労を掛けますね」

「いいえ、いいえ菖蒲様。俺は自分の意志で此処ここに来たのです、むしろこんなに良くして貰っていることに礼を言わなければと思うのです」

「…俺も、こいつと同じ思いです。嫌だったら、死んででも抜け出している」

「そう言ってくれると、救われます」


微笑んだ天狐につられて、二人も表情を緩める。さあ帰ろうと、三人は来た道を引き返していった。






 黒い天狐に限らず神の真名まなは大抵長く、普段呼ぶにはわずらわしいほどである。そのために日常では愛称、仮の名前を用いることが多い。そもそも本来の名前、真名は持ち主そのものを表すため、真名がそのまま神の弱点ともいえる。人間においてもそれは変わらず、特に言霊ことだまという形で力のこもる常世では真名は明かさないことが常識である。人間の世、浮世ではそこまで名前に力は無いものの、陰陽道に通ずる者によっては真名を使って呪いをかけることもある。このように真名はとても大切なものであって、易々と他人に教えていいものではないというのが神々の世での常識である。


 この屋敷に住む三人も例外ではなく、天狐の仮の名前は『菖蒲あやめ』、二人の眷属けんぞくは、金髪に燃えるような赤の瞳の青年は『紅緋べにひ』、黒髪に黒に近い青の瞳の青年は『濃藍こいあい』といった。これらは瞳の色から持ってきたらしい。また眷属の二人の真名を天狐は知っているが、天狐の真名を二人は知らない。これは契約のようなものを結んだときに使われたためである。






 さて、帰ってきた三人は各々のやることに取り掛かった。今日は午後から来客があるらしく、眷属の二人は屋敷の掃除に励んだ。普段からこまめに掃除はしているため目立った汚れなどはないが、完璧主義であるらしくまるで競争のように屋敷を片っ端から磨いていった。天狐はというと周辺に咲いている彼岸花の世話をした後、彼女が自ら茶菓子を作っていた。今日は簡易的な葛餅くずもちを作るらしい。仕込みが終わるといつまでも床を磨いている二人を呼び止めて、お茶の休憩に誘った。縁側に座り、動いてばかりの二人のためにお茶とともに小さめの梅おにぎりを差し出す。嬉しそうにそれを平らげる二人に天狐は眩しいものを見るように目を細めた。束の間の休憩が終わると、昼餉の準備だと言って紅緋が台所に立ち、濃藍は天狐とともに山の見回りへと出かけて行った。






 紅緋と濃藍は見た目の年齢が17、8ほどの青年である。その性格はまるで異なり、紅緋は快活明瞭かいかつめいりょうで何事もはっきりとした態度でいる一方で濃藍は静かであり、口数がそもそも少ない。一見すると違いばかりしか見受けられないが、その実非常に誠実で相手を思いやる心が強いため、この屋敷は常に優しい雰囲気に包まれていた。かなり仲が良い二人は時折時間があると連れ立って釣りやら狩りやらに行き、天狐を毎度驚かせるような成果を上げて帰ってくる。おそらく息も合うのだろう。だが向上心が転じて時折危なっかしい行動もひょいと取るため、その点については少しはらはらもしていたが、天狐は二人を実弟のように可愛がっていた。






「お帰りなさい!もうすぐ出来上がりだから濃藍手伝ってくれ」

「ああ」

「では私も」

「有難い、ではこちらをよそってください」


 二人が屋敷へ帰ってくると、食欲をそそる香りと共に二人に気づいた紅緋が顔を出した。言われるがままに食事の支度をし、お膳を運ぶ。三人で姿勢を正して座ると、挨拶が響いた。


「今日は銀龍様と青龍様が来るのですよね」

「ええ。食事が終わったらお迎えの用意をお願いしますね」

「かしこまりました」


食事の片付けが終わると、屋敷のことを二人に任せて天狐は玄関を出た。空を見上げると、今日は綿雲が点在する程度で良く晴れていた。今日の訪問者は空からやってくるため、葛餅はいい塩梅あんばいになっただろうかなどとぼんやり考えながら上を見上げていた。そのうち支度を終えたらしい二人も天狐の両脇に並んだ。今日の夕食の材料は何がいいか、彼らも食べていくだろうかとのんびりとした口調で三人が喋る。さながら日向ぼっこでもしているかのようで、周囲に咲く地獄の炎のような花たちの見た目すらも毒気が抜かれて、おとなしく涼しげに風に揺れていた。

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