Ⅺ、星空の形成

 ウィオラーケウスの静かな声だけが、応接間に響いた。


「姉様…アーテル様は双子の女神を産み落とされた。私が見るに、生と死を司っていた。だが、姉様の腹から出てきた時に産声を上げず、既に息をしておらなんだ…ほんの数分前は、意識が確認できていたのだが」


そんな、誰かの酷く落胆した声が落ちる。誰もが絶望した。まさか、アーテルの初めてとも言える子が、死産など。何故と呟いた者に、ウィオラーケウスは分からないとだけ返した。


「姉様は酷く落ち込まれている。暫くカエルムと子等とだけにしてくれ、と」


やりきれなさに顔を歪ませながらそう告げる彼女は、とうとうくずおれた。アルゲントゥムが駆け寄り、その震える細い肩を抱き寄せる。ウィオラーケウスは両手を前に出し、受け止めた幼い女神たちの最期を思い出した。温みが時間を追うごとになくなり、ぐったりと腕にもたれかかる二人の幼子の感覚がこびりついている。やがてその感覚に耐えきれなくなった彼女は、アルゲントゥムの腕の中で慟哭した。






 アーテルは力なくカエルムに寄りかかり、腕の中にあるつい先ほど自らが産み落とした双子の幼い女神の亡骸を眺めていた。彼女の肩に掛けられているカエルムの手が震えるのをどこか遠くに感じながら、腕の中の温もりが徐々に冷えていく感覚をなす術もなく受け止めていた。ぼた、とぬるい雫が頬を滑り落ちていく。それすらも遠い、他人事の様であった。彼女は自分の中で既につけていた名前を呼び、双子をあやすように揺らす。その二対の瞼が開けられる事は無いと、頭の中では分かっているのに。二人の周囲には、零れ落ちた涙が次々と結晶化してほんのり彼女たちを照らし出していた。


 どれ程そうしていただろうか。産後の疲れも大きく、流れる涙ももはや無くなって来た。カエルムはどんな表情をしているだろうか、そんなことを考えていた時。何故か閉じられた扉が開く気配がした。ウィオラーケウスに誰も入れるなと言ったはずなのにと、重い頭を持ち上げると、侵入者は彼女らの目の前へやって来た。ベッドに降り立ったのは真っ黒な体躯に銀のたてがみの様な飾り羽が珍しい異常に大きい鳥。それが開いた自らの翼に触れて、アーテルは信じられないと目を見開いた。目の前の鳥はくるりと姿を変え、代わりに表れたのは束ねられた銀の長い髪が眩しい女性。何故、と呟くアーテルを人差し指を立てて制し、その人物は口を開いた。


「いや、いや、突然すみませんね。私も、本当は祝いに来た口なのですが…そうですか、彷徨い出てしまいましたか」


彼女は眉を下げて、双子の目を開けない女神の頭を撫でる。上体を屈めるのに合わせてさらりと流れる黒髪が、この部屋の僅かな光を反射する。そんなふとした感覚に、絶えていた涙がまた溢れて来る。カエルムは突然現れた者に警戒心を顕わにするが、既に深い悲しみで疲れ果て、動けるような状態ではない。そんなカエルムに気が付いた目の前の人物は、そうでしたと呟いて向き直る。


「貴方は初めましてですね、カエルム殿。私はニゲラ。訳あって詳細を話すわけにはいきませんが、アーテルとは顔見知りですのでどうか安心してくださいな」


それよりアーテル、と銀の髪の彼女、ニゲラは続ける。


「この子たち、私に預けませんか」


その言葉に驚きを隠せないアーテルとカエルムを、慈しむような眼差しでニゲラは見つめた。一体どういうことかと抑えた声で言うアーテルに、その反応はごもっともだと彼女は返す。


「この子らを、貴女と同じ存在にするのですよ。世界の監視者、最近資格のあるものが中々いなくて…どうです?この子らに、もう一度意識を呼び戻すのです。容易には会えなくなってしまいますが…彼女らと全く話せなくなるわけでもありません」


突然のニゲラの申し出に、アーテルは憤慨した。如何に悲しいと言えども、それは自然の摂理に反する事であり、禁忌のはずだと。もちろん分かっていると返してくる彼女に、ならば何故とさらに詰め寄る。疲弊した体に鞭打って子を守ろうとする彼女は、まさしく母親であった。ニゲラはそんなアーテルに体に障るからと落ち着く様に言い聞かせ、改めて姿勢を正した。


「何故か、それはこのままでは貴女の身体も危いからです。この涙の結晶は、まさしく貴女の精神力、神族にとっては命そのものですよ。こんなに削れてしまって…空もいつの間にか貴女の削れた精神力で埋め尽くされそうになっている。このまま消滅して、今度はカエルムの精神力を削らせるおつもりですか」


今の貴女には酷な話でしょうが、と言いながらどこか切羽詰まった顔をしてニゲラが話す内容は、アーテルにとって衝撃的だった。この涙が何故結晶化するのか、正直なところ彼女にはわかっていなかったのだ。実は命を削るのと等しい行為であるという事、続ければ消滅も十分にあり得ること、そして自分が消滅すれば今度は愛してくれたカエルムがその危機に直面する事、等々。様々な思考が頭の中を駆け巡っていく。考えに考えて暫く、彼女は結論を出すことにした。


「…そうですか、よかった」


それは、自分が生きるために子等の命運をニゲラに任せることだった。子等には自分勝手で酷なことを押し付けているかもしれないと、この考える時間で何度も葛藤した。所詮、生きていて欲しいなど自分の我儘でもあることを考えると、どうしても蘇らせる気が起きなかった。しかし、自分が消滅すると、この世界はどうなるのだろうかとも考えると、恐ろしい結末ばかりが浮かんでくる。それはいけない、この愛した世界がどうか平和に続いてくれるのならばと、彼女は涙を吞んで子等を託すことにした。悲しみは止まない。カエルムはアーテルの意志に任せると言ってくれた。どうしたって付きまとう自分勝手という言葉が苦しい。しかし、アーテルも子を授かった者として、少しでもいいから我が子の声を聴きたいという願いが強かった。


 未だ流れ落ちるアーテルの涙は、結晶化してアーテルとカエルムの足元を埋め尽くしていく。これは一刻を争う事態であることをとうに察していたニゲラは、徐に指を一回鳴らした。すぐそばに空間の裂け目が表れ、もう一人真っ直ぐな黒髪と紫の瞳が特徴的な人物が身を乗り出してきた。その手には青白い火の玉の様なものが二つ入ったカンテラ、腰には細身の剣が下げられている。ニゲラに呼ばれて来たその人物は、ニゲラにカンテラを差し出した。


「ありがとうございます、ノクス。始めましょう、もう間もなく消滅の時間となってしまう」

「仕方がありませんね」


ぶっきらぼうに返事をしたノクスがカンテラの扉部分を開くと、青白いそれらが一斉に飛び出してくる。ニゲラが咄嗟にそれらを捕まえ、双子の身体に押し付けた。それらは暫くの間戸惑うように彼女の手と双子の体の間を彷徨っていたが、すぐに入り込んで身体に馴染んでいった。


「双子をベッドに置きなさいアーテル、もう間もなく精神が全体に馴染みます」


ニゲラに言われるがまま双子をベッドの空いている場所にそれぞれ寝かせると、やがて小さな身体をくるんでいた布を押しのけて身体の成長が始まった。目まぐるしく伸びていく身長を緊張でいっぱいになりながら一同で見守っていると、丁度美しい盛りの娘の姿で成長は止まった。髪は黒く、どちらも青白い肌がアーテルによく似ている。一人は目元がカエルムに似ていた。暫くの間双子を見守っていると、二人は同時にゆっくりと目を覚ました。あまり生気のない赤と青の瞳が冷たく光るが、意志は既にあるようで、もはや彼女たちが自分らと同じ存在とは呼びきれないことがアーテルにはすぐわかった。


「おはようお嬢さん方。気分はいかがでしょうか」

「…どなた、だろうか」

「母上…?」

「いいえ、お前たちの母君はあちらですよ」


双子は緩慢に起き上がると、ニゲラに促されるままアーテルの方を向いた。視線が何となく自分に向いていることが分かったアーテルは謎の緊張感に動けずいたが、そのうち双子の一人である青い瞳の娘が傍へ近づいて来た。


「母上、目が見えないの?」


残念、見て欲しかった。そう言いながら投げ出されていたアーテルの片方の手を握る。すぐにもう一人の赤い瞳の娘もやってきて、同じように反対側の手を握った。その手は温もりが無かったが、子等が生きている感動でアーテルは涙を流す。それは雫のまま彼女の太ももに零れ落ちた。おはよう、と震える声でアーテルが呼びかける。


「おはよう、母上」

「母上、お隣の人は父上でいいのだろうか」

「っ…ああ、僕が父だよ」


カエルムがつっかえながら返す。合っているのが嬉しかったのか、二人とも笑顔を綻ばせながらカエルムの手もすくい上げた。初めての、子供。その事実に感動し、本当は亡くなっている事に絶望し、この先の彼女らの未来に不安を抱きながら、カエルムは今できる精一杯の笑顔を返した。






 ニゲラが双子を連れてこの場を去り、再び静寂が訪れた。あっという間に連れていかれてしまった双子の事を思って、結晶に囲まれた二人は抱き締めあいながら暫く泣いて過ごした。しかし、それらが新たに結晶化することは無かった。


「アーテル様、この結晶たちを飾ってきてもいいでしょうか…今回の事、ずっと忘れないように」


アーテルはそれに対してこくりと頷いた。今回の思い出すだけで辛い過去も、いつかは風化し記憶から薄れていってしまうものであることを、二人は良く分かっていた。それならば空に飾ってしまい、今回感じたすべての感情を見るたび思い出そうという事の様だ。


 アーテルが寝付くのを待ってカエルムが部屋を後にする。応接間を覗くと、集まっていた神々はいつの間にか解散していたようで、ウィオラーケウスだけがいつものように蜂蜜酒を舐めていた。出て来たカエルムに気が付いた彼女は立ち上がり、寄ってくる。その目元は赤く腫れあがっていて痛々しい。


「カエルム、具合は大丈夫なのかい」

「はい…これら、空に飾ってきます。もうこれ以上『星』を増やさないために」

「そうかい。待っているから、気を付けて行っておいで」


行ってきます、と言葉を残して、カエルムは『隠れ家』を飛び出した。丁度外は夜で、今も『星』たちがちらちらと瞬いている。大瓶に詰めた結晶たちを一瞥し、蓋を開けて中身を一斉に放り上げた。大量の結晶たちはばらばらと散ってゆき、まるで一つの川の様に並んでいく。ひとつ残らず空に定着した『星』たちは、それぞれの輝きでカエルムの顔を照らし出す。一筋だけ頬を伝う涙を強引に拭い、カエルムは『隠れ家』へと帰っていった。

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