Ⅶ、神は身隠す

 いつしか、アーテルのために作られたあの空間は他の神たちに親しみを込めて『隠れ家』と呼ばれるようになった。他の神たちが偶に気分転換として彼女を尋ねにくる中、再びエスメラルダが顔を出した。今度はカエルレウムも一緒である。


「俺なら、手伝えると思うのだが」

「へ?」


来て早々、挨拶もなしにそう言い放ったエスメラルダにカエルムは困惑の表情を浮かべた。なんだなんだとアーテルの手を引きながら野次馬の如く出てきたウィオラーケウスは高みの見物だ。カエルムはカエルレウムを見るが、彼も何やらにこにこと楽しげである。


「アーテル様の手を取ってかじ取りをするのはお前がやれ。俺がその周りを風で覆えば壁にはぶつからないし、万一バランスを崩しても下にカエルレウムが水を緩衝材として出してくれる」

「…ああ!その話か」

「こやつにこの話を聞いてな、最初は風だけで対処しようとしてたが、下に空気の塊よりは水があった方が衝撃は軽いだろうってことでついてきた」

「へえ、楽しそうな話だ」

「ウィオラーケウスは俺が抱えてやろう」

「ほうそれはそれは。飛ぶというのは私にはできないから是非」


あれよあれよと話が実行の方向へ進んでいくのを、カエルムは呆けたまま眺めていた。感情が昂って話の輪に入り込んでいったウィオラーケウスの代わりにアーテルの隣に立つが、彼女も状況が呑み込めていないようだ。しかし、その顔のどこかに僅かな期待が見え隠れしているのを、カエルムは見た。


「アーテル様、飛んでみませんか。僕がちゃんと手を握っています。その黒い翼で飛ぶ優雅な姿をもう一度、見せてはくれませんか」


アーテルは戸惑い、見えないはずの紫の瞳があちこちと動いている。


「…お嫌ですか」


その言葉を聞いたアーテルはすぐさま首を横に振った。不安なのだ、と告げる彼女にそれはそうだろうと頷く。無理もない、彼女は見えない上にこの場所の広さを把握しているわけでもなく、飛ぶことも久しぶりなのだ。それでも飛びたい気持ちは強いのか、黒い女神は彼の手を手探りで握り、連れて行ってくれ、と小声ながらはっきりと囁いた。





 向かい合わせになったアーテルとカエルムは互いの肘あたりを掴み、翼をその背に出現させた。カエルムのそれは今外が正午のため明るい青で染まり、アーテルのそれは変わらず漆黒に溶けるような黒。二人の周りをエスメラルダの優しい風が包み、作られた上昇気流に乗るように息を合わせて地面を蹴った。一気に天井に近づいていく。下手な小さい山よりも大きなこの空間では上昇するには十分な高さがあるため、気を付けていれば早々天井に激突、などという事故は起こらない。しかし盲目であるアーテルには高度の調整は難しいため、ある程度の高度になったところでその体が上がるのを抑えてやる。


「これ以上上がるとぶつかりますから、ここまでにしましょう」

「よく気を付けるんだぞカエルム!」

「わかってるって!」


飛んでいるとき特有の不安定な姿勢は、羽ばたきによって大きく体が揺られることによるものだ。慣れない者にとっては恐怖するものであり、現に飛ぶ術を持たないウィオラーケウスは顔は笑っているものの、四肢すべてを使ってエスメラルダにがっちりとしがみついている。エスメラルダは翼ではなく自身が発生させる風に乗る形で飛んでいるが、かえって揺れが大きいらしい。見えてはいないものの、もとは自由に飛んでいたアーテルは何の問題もなく空中に留まり、いくらかバランスをカエルムに預けながらもよい姿勢だった。緊張した面持ちの彼女はぎゅっとカエルムの手を握り、口も真一文字に結びながらやや下を向いていた。


「いかがです、アーテル様」


それでも矢張り元は自由に飛んでいた彼女だ。いくらかすれば慣れてきたのか力を抜いて、少し顔が緩んできた。大丈夫そうだという言葉に、その場で彼女を見守る4人は安堵した。





 最近、神たちの間である話題が頻繁にあがる。それは夜の空に浮かぶ星々で、星自体ここ数十年の間に出来たものだった。見え始めるようになった頃こそまだ数えられる程度しかなかったが、それが毎夜ほんの少しずつ増えていき、いつの間にか月のない夜も微かに明るくなるほどの大量の星々が輝く様になっていた。


 それだけでなく、月の神であるアルゲントゥムも空の神であるカエルムも、星々の発生源を知らないという。始めの頃は太陽の神アルブスの仕業かという声もあったが、彼はいま厳重な管理の元眠りの淵についているためそれはあり得ないと却下された。基本的に何らかの現象を起こそうとするにはその意思が重要であり、意識がない彼に成しえるものではなかったのだ。ではしかしいったい誰が、と星の生成に携わった者を探す動きは未だ続いているが、何せ星を司る神が新たに生まれたわけでもないので先は見えそうにもない。ただ一人、命の神であるウィオラーケウスだけが意味ありげに他の神の尋問に首を振るばかりだった。


 そもそも『星』という呼び方もいつの間にか定着したもので、その起因も分からず、今夜も暗くなった空を見上げれば燦然さんぜんと輝くそれらが地上を見下ろしていた。





 夜の時間帯、地の底にある『隠れ家』は静まり返っていた。ここの主であるアーテルはとうに眠りにつき、ここに居候のかたちをとっているカエルムとウィオラーケウスは二人ソファに腰かけて、今朝ここを訪ねてきたウィリディスの土産である蜂蜜酒を片手に他愛のない話をしていた。甘い蜂蜜酒はここ最近のウィオラーケウスのお気に入りであり、彼女の弟であるウィリディスは事あるごとにそれを届けにやってきていた。カエルムはそこまで深く気に入っているわけではないものの、たまの息抜きに、と彼女に勧められたのだ。


 カエルムの翼が深い黒に染まり、夜も更けてきた。ふとカエルムはまだ中が残っているグラスを置いて立ち上がり、言葉もなくその場を抜け出した。それを視線で追うウィオラーケウスは何を言うでもなく、ただ静かに見送る。カエルムが向かう先はこの城の最奥で、重厚な扉が行く手を阻むが、それをそっと押し開いた。窓が壁の半分を占める広い部屋の中、ベールがかけられたベッドに近寄ると一度立ち止まった。規則正しい息遣いが聞こえるのを確認してから幾重にもかかった黒いベールを持ち上げ、中へ滑り込んだ。大きなベッドの中央には、仰向けに横たわったアーテルがいる。


「…アーテル様」


カエルムは細心の注意を払ってベッドに乗り上げ、彼女の傍へ近づく。顔をよく見ると、閉じられた瞼からは、はらはらと涙があふれては滑り落ちていく。それはシーツに吸い込まれることなく丸い形となり、淡く発光した。彼はそれを拾い集めて、掌に乗せてよく観察する。大小様々な涙の粒は色も微かに異なり、時には飛び出て赤かったり青かったりもした。カエルムは未だ涙を落とし続けるアーテルの顔を見下ろし、少し躊躇ってから、前髪が滑り落ちて露わになった額に口づけた。すると不思議と涙は止まり、あとは心地よさげな寝息が聞こえるのみとなる。


 その場を後にしたカエルムは、ウィオラーケウスの元へは戻らず地上へとやってきた。すぐに飛び立ち、真っ暗な空へと近づくとあたりを見回してから手に持ってきていた粒たちを空へ放る。それらは散らばっていき、やがてとどまった場所で燦然と輝き始めた。一粒残らず『星』となったことを確認し、カエルムは急いで『隠れ家』へと帰っていった。





「なあカエルム」

「はい、何でしょう?ウィオラーケウス様」


 彼が帰って何事もなかったように再び蜂蜜酒を舐め始めるのを、始めウィオラーケウスは黙って見ていた。これまでも何度もこうして黙って抜けては戻ってくるカエルムを彼女は何も言わずに見ていただけだったが、今日は違うらしい。呼びかけられたカエルムは中々続きが返ってこないのを不思議に思って顔を挙げた。途端、真剣だが穏やかな眼差しに射貫かれ、思わず動きを止める。


「姉さんの想いをああして飾るのは良いが、いつまで続けるつもりだい?この調子ではいつか夜空が夜ではなくなる」

「…それは…」

「…なに、別に止めろとは言っていないんだ。けれど、お前の心が疲弊しないかが私は心配なんだよ」


静かに紡がれる言葉に、カエルムは首を傾げた。


「僕は疲弊なんてしてませんが…」

「そう言っていられるのも今だけだよ、可愛い末の弟。ただ眺めるだけが如何に心に堪えるのかを私はよく知っている、『命』を見ているこの私がね」


どこまでも優しいウィオラーケウスの声に、カエルムは決まりが悪そうに外に視線を映した。ほのかに輝く青紫の鉱石たちが微かに赤みを帯びた気がしたが、すぐに冷たい色を取り戻して静かにその場にあるだけだった。


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