Ⅵ、均衡

 どれ程経っただろうか。カエルムは未だ瞼を下ろしたままのアーテルを抱えて例の洞窟の中で腰を下ろしていた。傍にはアルブスと、彼を監視するために残った数人以外の神が全員揃っている。皆時折心配そうにアーテルの顔を覗き込みに来てはまだ動かない事に落胆して、他の神たちの話す輪の中へ戻っていく。それを眺めながら、空の神はいたずらに自身の翼を広げてみていた。


 腕の中で微かに動く気配がする。眠くなりつつあったカエルムははっとしてアーテルを覗き込んだ。


「アーテル様…?」


呼びかけてみると、微かに反応が返ってくる。しかし目を開けようとしない彼女に不信感を抱き、どうしたのか尋ねてみた。すると、眩しい、と宣う。今この洞窟内はアルゲントゥムの淡い光によって早朝の薄暗い程度の明るさに調整されているが、それでもなお眩しいというのだ。


「アルゲントゥム様、すみません、アーテル様が起きたのですが眩しいそうで…弱められますか」

「眩しい…?そうですか、ではこのくらいではいかがです?」


月の神がそう尋ねる。かなり光は弱まり、辛うじて色を識別出来る程度になったところで、アーテルがようやく瞼を開いた。彼女が起きたことに各々が歓声を上げて彼女を覗き込み、そして驚愕した。


「…アーテル様の目、黒かったよね…?」

「あ、ああ…紫になってる」


そう、アーテルの元は黒い瞳が、鮮やかな紫に変色していたのだ。更に彼女の焦点がどうも誰とも合わず、彼女自身困惑と僅かな恐怖で顔を強張らせている。まさか見えないのか、と誰ともわからないような声量で投げかけられた問は、小さな頷きとともに肯定された。


「…なんてことだ。目が見えないとは」

「どう考えてもアルブス様の光の影響でしょう…なんとおいたわしい」

「アルゲントゥム様の光ですら眩しいとなると、もう地上で生活は難しいぞ」


目が見えない。感覚のうち最も重要だといっても過言ではない視覚が奪われたとなると、その障害はあまりにも大きすぎた。予測できることだけでも両手で数えきれないほどの不都合が一気に彼女に押し寄せるのだ。その恐怖を、いったい誰が分かるというのだろうか。






 その後、他の神たちによってアーテルがこれから過ごすための場所を模索した。彼らにとってアーテルは自分たちを生み出した最初の神であり、大切にするべきと信じてやまない存在である。流石にあの洞窟に放り込んだままではいけないと考えた結果、ある場所の海すら通り過ぎた地底に場所を作ることとした。


 まず大地の神が地底に大穴を開け、次に炎の神が生み出した溶岩を海の神が冷却することによって黒い岩肌として加工。皆でああだこうだと言い合いながら中央に丘を作って、風の神の遊び心により浮いた形の城が出来上がった。水の神がそこに川や池、滝で装飾を施し、植物の神と動物の神は一人の時間でも寂しくならないようにと薄暗い中でも生きて行ける動植物を連れてきた。最後に偶然できた青紫の岩石に月の神が光を与え、他の神が来ても躓かない程度でありながらアーテルが眩しがらない明るさに調節した。






 命の神と空の神は身辺の世話を申し出た。この二人は大して地上にいても仕事がない、というのを理由に遠慮するアーテルを抑えてここに居座っていた。


「おっと危ない…大丈夫かい姉さん」

「やはりここは取り除くべきでしょうか…別になくてもこの空間に支障があるものではないでしょうし」

「それもそうか、カエルム、好きに加工しといて。私はアーテル様を座らせてからもう一回ここへ来るよ」

「かしこまりました」


こんな具合で、日々アーテルの身に危険が及ばないようにと少しずつこの空間に修正を施していた。実際空は放っておいても勝手に色づいていくし、命に関しては彼女の一段階下の管轄でウィリディスとフラーウムが動いてくれるということで、相当の危険がない限りはこの場にいても問題がないのだ。話し相手として相手を務め、アーテルに尽くすことに二人は特に積極的だった。


「さてさて、随分手が入って来たな」

「そうですね。だいぶ最初の様に躓く箇所も減ってきましたし」

「うん。ああカエルム、今の天気はどんな具合だろう」

「ええと…おお、今は晴れているようですね、見事な夕焼けだ」

「ふむ、そんな時間か」


時間帯を尋ねたウィオラーケウスはおそらくアーテルの湯浴みの支度を思いついたのだろう、彼女を見ていてくれと残してその場を一時去った。頼まれた任務を全うすべく、彼は後ろを振り返ってアーテルが座っているカウチの傍へ歩み寄る。すっかりとまでは言えないが、目が見えないことに多少慣れたらしい彼女は代わりに聴覚や振動を感じ取ることがより敏感になったようで、カエルムの気配が近づくと彼のほうを見据えた。


「アーテル様、今ウィオラーケウス様が湯を準備してくれていますよ」


そうか、と呟いた彼女は特に表情も変えず、ぼんやりとただ座っている。失礼します、と言ってカエルムは斜め前の椅子に座った。瞬きはするものの光を映すことはない紫の瞳は何の感情もたたえてはいない。おもむろにアーテルは自身の翼を出現させると、自らその白い手でそれを撫でる。カエルムはその仕草に、彼女は飛びたいのだと悟ると得も言われぬ侘しさにそっと瞼を下ろした。






 外の様子を知らせに来てくれるのは、専らエスメラルダだった。彼なら世界を一周することは容易であり、時に他のあまり持ち場を動けない神からの伝言を伝えにも来る。まるで伝書鳩だな、とこぼしたウィオラーケウスに彼が複雑な表情を見せたのはカエルムの記憶に新しい。


 今日も何かあったようで、エスメラルダが風と共に意気揚々と地下へやって来た。地上とこの空間とは一つの出入り口が繋いでおり、地上のほうの口はとある小さな島の一角に開いているが、普段は動物や人間が間違って入って来ないように封鎖されている。これを開閉できるのは同族の神と、一部の許された存在だけだ。


「ああ、エスメラルダ。また来たんだね」

「うむ。アーテル様の様子はどうだ」

「体調としてはぼちぼちかな…」

「塞ぎ込んでおられるか、まあ無理もないな、少し前までは自由に飛んでいたのだから…」


今日の彼の報告は、閉じ込められたアルブスの今後の処遇について他の神たちが話し合おうという計画を立てた事の知らせだった。今は更に増えた神々のうち、眠りを司る者が強制的にアルブスを眠らせることで抑え込んでいる状況だったが、このまま押さえておくだけというのも心許ない、というのが一致した見解だった。本格的に封印するにしろ、一度起こして様子を見るにしろ、神の中で本来最も力を持つはずのアーテルがこの状態ではできないことの方が多いのだ。


「アーテル様に協力いただければなんとかなるんだがな…何せあの方が生み出した最初の神だから、思い入れもあったんだろう」

「そうだよなあ…すっかり落ち込んでしまわれた、あとは」

「あとは…?」


ちら、とアーテルが眠っている寝室の方を見やる。最近では起きてくる気力もないのか眠り続けることが増え、起きてきたとしてもすぐにまた眠りに落ちてゆく。彼女がここまで落ち込んでいるのはアルブスの事もそうだろうが、カエルムにはもう一つの理由の方が大きいのではないかと踏んでいた。どうしたものか。疑問符を頭に浮かべたままのエスメラルダを置いて、カエルムはひとり思考の海に沈んでいた。飛ぶ手伝いができないだろうか、ふとそんなことを呟いたのを、隣の翡翠の瞳は見逃さなかった。

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