第37話 『めくらやなぎと眠る女』の改稿について

 村上春樹さんの『螢・納屋を焼く・その他の短編』に収録されている『めくらやなぎと眠る女』には、十年後に書き直された『めくらやなぎと、眠る女』という改稿版があります。お話は原稿用紙約八十枚(24000字)から四十五枚((13500字)に改稿されました。

 この雑文では小説がどのように改稿されたか見ていこうと思います。作家の改稿の痕跡を辿れるという意味では貴重なお話です。

 底本は『螢・納屋を焼く・その他の短編』(1984年 新潮文庫)と『レキシントンの幽霊』(1999年 文春文庫)です。


 『めくらやなぎと眠る女』は、東京の仕事をやめたぼくが、右の耳が聞こえないいとこに付き添って病院へ行くお話です。

 その途中で僕は、胸の手術をした女の子を友達と見舞いに行った話を思い出します。めくらやなぎとは、女の子が書いていた詩の空想の植物です。


 話の流れに大きな違いはありませんが、文章が大幅に削除あるいは圧縮されています。

 文章は主語の省略・言葉の言い換えなどでわかりやすくなり、冗長な描写が削られています。

 改稿前と後では話の主眼が変わっているため、改稿後はラストが長めに書き足されています。


 以下はネタバレです。


相違点


1 章立て

 改稿前は九章ですが、改稿後は短くなったにもかかわらず十五章と章立てが細かくなっています。

 章が回想の始まりと終わりで区切ってあり、シーンの変更がわかりやすくなっています。


2 バスの内部

 もっとも削られたのはふたりがバスに乗って病院へ着くまでの風景で、20ページあったのが9ページに圧縮されています。

 バスの風景、大勢の老人のようす、僕がバスのルートを疑って確かめに行く描写などが削られています。

 どこへ向かうかわからない老人たちの奇妙な風景が大幅に削られています。


3 病院にて

 病院でいとこを待つ描写が短くなり、回想シーンにおける亡くなった友達と女の子の見舞いへ行くシーンが簡略化されています。


4 痛みの考察

 改稿前は各所にあった痛みへの考察が、改稿後には簡略化されています。


5 いとこの耳

 いとこの耳が聞こえない原因から映画の話をするまでのシーンが圧縮されていて、耳が聞こえない寄る辺なさがすこし失われています。

 映画の名前が違いますが、語られる内容はさほど変わっていないと思います。


6 めくらやなぎ

 いとこの耳を検めるシーンで女の子の回想が書き足され、めくらやなぎの花粉をつけた蠅によって冒された耳と、いとこの原因不明で聞こえない耳のイメージが強調されています。


7 ラスト

 病院を出てバスに乗ろうとするシーンが1.5ページほど書き足されています。

 改稿前は用事を終えたふたりがバスを待つシーンでした。改稿後はめくらやなぎの思い出に囚われるぼくを、いとこが「大丈夫?」と現実に引き戻しています。


主題の相違


 改稿前は「痛み」が重要なモチーフでしたが、改稿後は「めくらやなぎ」の回想に呑み込まれそうになる僕が主題となっているように思います。

 いとこの耳の件、食堂で中年の夫婦が話す癌の件、女の子の胸の骨をずらす手術の痛みなどです。

 痛みのモチーフが削られたので、「うん、痛みというのはいちばん個人的な次元のものだからね」(P145)という、改稿前は重要であった台詞もなくなっています。

 僕は他人と共有できないさまざまな「痛み」に遭遇します。世界の寄る辺なさ、自分が変えられないものに対する奇妙さを描いたのではないでしょうか。


 改稿後は「めくらやなぎ」の回想に焦点が当てられ、お話がすっきりした印象があります。蠅に耳から寄生されて身体を食べられてしまうイメージと、死んでしまった友人とが僕の自我を危うくするところへ、いとこから救いの手が差し伸べられます。

 目に見えるものの寄る辺なさは共通するテーマだと思います。


 今回はここまでです。お付き合いありがとうございます。

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