第36話 『落下する夕方』の構成要素 その5

『落下する夕方』の構成要素 その5


 江國香織氏の『落下する夕方』の構造分解 第五回です。

 総ネタバレなので、小説を未読の方はご注意ください。


■お話の文章


 いままでの雑文で私はお話のヘビーな側面ばかりを見てきましたが、このお話はもともとふんわりしたやわらかい文章で書かれたお話です。

 梨果の性格に由来するお話の優しさ、ふんわり感がお好きな方もいらっしゃると思います。

 私はそのふんわりした文章のなかに潜むパンくずを拾って森のなかへ迷い込み、お話の光の当て方を変えるとぜんぜん違う世界が見えたよ、ということを四話にわたってお送りしてきました。

 記号論の用語で言うと、このお話は、シニフィアンとシニフィエが異なるように書かれた文章に最大の魅力があるように思います。


■音楽


 『落下する夕方』に出てくる音楽について書きたいと思います。

 この話にはおもに三つの音楽が出てきます。実在する曲、梨果の鼻歌、そしてラジオです。


□実在する音楽


 このお話は音楽が人を繋ぐ重要な要素になっています。

 まずは梨果と健吾が好きな曲です。ピンク・クラウドの「WASTED」。ふたりの思い出の曲ですが、健吾が華子に梨果の友人である涼子の話をしようとしたときに梨果がかけた曲です。

 梨果が健吾がそんなことまで華子と分け合おうとする、とナーバスになり、曲を途中で切ってしまいます。華子は「どうしてとめちゃうの?」と聞きますが、梨果は答えられません。

 CHARも梨果と健吾をつなぐシンガーです。中学生のころ、別々の場所でふたりはCHARの曲を聴いていたといいます。


 そして、華子と弟の惣一が、会った前日にラジオで同じ曲を聴いていたといいます。

 音楽が人と人とを繋ぐ架け橋になっているのです。


 華子は「ABCの歌」を歌います。「ABCDEFG、HIJKLMNOP」の「LMNOP」を華子は「エレメのピー」と発音します。一見かわいらしいエピソードですが、その省略の仕方が何となく華子の生き方を表しているような気がします。ちょっと深読みかもしれません。


□梨果の鼻歌


 梨果はいろいろな場面で鼻歌を歌います。実際にある歌なのか自作なのかはわかりません。

 まずば冒頭、健吾が出て行ったマンションを梨果が大掃除するシーンです。つぎは家賃の穴埋めのためにアルバイトの面接を受けたさい、不採用の通知が来たときです。これらは梨果が不安を紛らわすための鼻歌と言えます。

 次は華子と健吾が梨果のマンションで会ったときです。その次は健吾が華子に会いに梨果のアパートへ来るのを待つあいだです。それらも梨果の不安を紛らわすための鼻歌でしょう。

 華子が誰かといっしょにゴルフに行ったと健吾に告げたときも、梨果は鼻歌を歌います。それまでは自分を慰めるためでしたが、ここでは、健吾を慰めるために歌っています。 

 梨果が鼻歌を歌うのは掃除や洗濯など、何かをしているときです。そして、機嫌がいいときと不安を紛らわす場面の両方に、鼻歌が使われています。


□ラジオ


 華子はラジオが好きで、少ない荷物のなかにもラジオを持っています。

 華子はラジオの番組が終わると、親しい人が帰っちゃうような気がすると言います。親しい人にはまだ帰ってほしくないと思っても、時間が来ると帰ってしまう。ラジオはきちんとしている、と。

 華子は女の子の声ばかり聴いていた。華子が聞いていた番組をひどくつまらないと梨果は思うが、華子がラジオを聴き続けていた気持ちがわかるようになる。つまらないものしか聴いていられない、そして番組の終わる瞬間の信じられない淋しさを、梨果は華子がいなくなってから実感する。


 華子が空を見上げていたとき、その子供じみた仕草から、梨果は華子には子供のときに友達がいなかったのかもしれないと思います。

 華子の正直さや男にもててしまう性質から考えると、華子にはきちんとした友達がいなかったのでしょう。そして物事のいいところしか見ない梨果であれば、華子も友達になれると思ったのでしょう。

 華子はほんとうは、女の子の友達が欲しかったのだと思います。自分に何の見返りも求めず、下心ありの期待もしない、女の友達。それを自分が奪い取った男の元カノに求めたのが、華子の残酷さであり悲劇でもあったのでしょう。


 華子は空が好きでした。今回は青空の写真を張って、終わりにしたいと思います。

 ここまで長々とお付き合いいただいて、本当にありがとうございます。 

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