第35話 『落下する夕方』の構成要素 その4

『落下する夕方』の構成要素 その4


 江國香織氏の『落下する夕方』の構造分解 第四回です。


 総ネタバレなので、小説を未読の方はご注意ください。


■三人の心から浮かぶ物語


 江國氏があとがきで語るように、このお話は「すれちがう魂」の物語です。

 お話の話者である梨果から見れば、これは「長年つきあっていた彼氏を盗った女が自分のマンションに居座り、周囲をさんざん振り回したあげくに自殺する話」です。これがお話のメインラインです。

 しかし、健吾から見れば、「自由奔放な女を好きになったが、身体の関係になっただけで拒否されつづけ、他の男のもとに逃げられた挙げ句、元カノにまでその女を盗られてしまう話」です。

 それでは、華子はどうでしょうか。華子から見れば、「嫌いな男にストーカーされ、男の元カノのところへ逃げ込んだが、元カノが男を好きだったためにストーカーを家に入れてしまい、男から逃げるために他の男を頼らざるを得ない状況になる。そして逃げ回ることに疲れて自殺を選ぶ話」です。

 これはあくまでも私が推測した『落下する夕方』観なので、違う読み方もできると思います。が、私はこの話をわりと絶望的にすれちがう人々のお話と解釈しました。


■梨果――ふわふわフィルターの持ち主


 私は何度か梨果のふわふわフィルター(命名私)について言及しています。

 ふわふわフィルターとは、梨果が心に持っている外界の刺激を和らげる緩衝体です。そして、梨果の強い感情を濾過してやわらかで人畜無害なものに変える物体でもあります。

 梨果のふわふわフィルターによって、本来は泥沼の三角関係のお話が、ふわふわした一見和やかな話に変わっています。

 梨果は光のあたるところしか見ない人間です。人の裏の感情が見えず、それを考えもしないので、梨果は良くも悪くも現実への適応能力・鈍感力を持っています。

 鈍感力を持っているがゆえに、梨果は元カレの今カノと同居するという異常な状態に適応し、健吾にも華子にも優しい心を持ち続けます。が、その鈍感力ゆえに、健吾と華子の泥沼の関係も、華子からのヘルプの信号もスルーしてしまうのです。

 最後に健吾の目を覚ますために健吾を強姦するシーンで、梨果は初めてふわふわフィルターを突き抜ける強い感情を持つことができます。それが健吾や華子に配慮して自分の生身の感情を抑え続けた梨果のクライマックスとなります。


■健吾――好きな女に逃げられ続けた男


 健吾の情報が一番少ないので私の推測が多くなりますが、健吾は最初から華子に振られつづけていたのではないでしょうか。

 華子が男に寄生する性質を持っていたがゆえに、華子は健吾と身体の関係を持ってしまいます。が、華子は健吾の元カノである梨果のもとへ身を寄せてしまいます。健吾は華子が行くあてのない女だと知っていたので、他の男のもとへ行くよりは梨果のマンションにいたほうがいいと判断します。

 健吾と梨果の関係は、愛情というよりは共依存です。梨果が健吾を愛情によって駄目にしている、そういう関係だったと思われます。

 なので健吾は華子を好きになってからも、梨果を甘える対象としてキープします。私は何度か「普通の神経ならば~はしない」と書きましたが、健吾は梨果を自我を持ったひとりの人間ではなく、自分がどれだけ甘えても利用してもいい対象として見ているように思います。それは健吾だけではなく、健吾にそうさせた梨果にも原因があります。

 健吾が梨果と(ある意味では)タッグを組んで華子を手に入れようとしたとたん、華子はエスケープを繰り返すようになります。その数四回です。四回目に華子は自殺してしまいます。

 健吾からしてみれば、華子は身体だけは手に入るが心はけっして許さない女です。そしてほかの男にも奔放に身を任せ続ける「魔性の女」です。真面目に華子を好きであればあるほど、健吾はその関係に苦しみつづけます。華子に振り回されて疲弊し、会社まで辞めます。再就職したバイト先からも、健吾は華子に会いに行きます。

 が、友人の勝矢が華子と同じ醜態を演じて妻と離婚したことを知った健吾は、勝矢夫妻とタッグを組んで華子にいままでの関係を清算させようとします。それを察知した華子が、先に現実を「ゲームオーバー」にしてしまったのです。


■華子――「魔性の女」になりきれなかった女


 華子には定職も居場所もありません。もともと男に寄生して生きている女です。

 健吾のところに流れ着いたときも、華子は居場所を持っていませんでした。健吾に寄生してみたはいいものの、健吾を好きになれなかった華子は、次の寄生先として健吾の元カノである梨果のマンションを選びます。

 そうすれば健吾から逃げられると思っていた華子は、梨果と健吾という共依存カップルに嵌まって三人の関係から抜けられなくなります。華子は次の逃げ場所を探しますが、どこへ行っても誰と寝ようとうまくいきません。梨果のマンションに帰らざるを得なくなり、同時に健吾との関係もずるずると続けることになります。

 華子は梨果が言う通り「言葉を正しく使うひと」です。それが華子の魅力であり、残酷な面でもあります。そして華子は「他人の言葉を正しく受け取るひと」でもあります。華子は「ここを出て行ったほうがいいか」と梨果に聞いたとき、梨果が答えなかったことを「イエス」だと判断し、梨果が使わないといった航空チケットを拝借して香港へエスケープします。

 華子は香港でも男を捕まえたようですが、うまくいかずに絶望して梨果のマンションへ帰ります。待っているのは自分に執着する健吾とそれを助けようとする梨果の共依存カップルです。逃げ場がないことに気づいた華子は絶望し、追い詰められたすえに自殺を図ります。

 華子が救いを求めたのは、ふわふわフィルターによって自分にうっすらと好意を持つ梨果です。

 華子は男に寄生しますが、ドライに男を利用し尽くすほど計算高い女ではありません。男に服を貢いでもらいながらも、口紅一本とごく少ない荷物だけで逃亡者のような生活をする女です。

 華子は自分が男に勝手に夢を持たれていることがわかっています。人の裏が読めてしまう華子には、男の過剰な期待は、見返りを要求するための行動であるように見えます。だから華子は「健吾に甘えられるのが大嫌い」と言うのです。

 梨果は華子に過剰な期待も見返りの要求もしません。ただ華子の光のあたるところだけを見て、ふわふわと淡い好意を寄せてくれます。

 華子は梨果の鈍感力に救われています。だから華子は梨果を頼り、梨果を盟友としてエスケープに引きずり込みます。が、その鈍感力ゆえに、梨果は華子のほんとうの孤独を見抜くことはできません。

 華子は主体姓のない人生を送っています。自分の生活を人任せにしています。それは健吾に失恋しても仕事を休もうとしなかった梨果の生命力(鈍感力)との対になっています。

 ほんとうは、健吾や勝矢夫妻に自分の罪を糾弾されることが、華子の再生する契機だったのかもしれません。が、「言葉を正しく使うひと」であるがゆえに人の言葉も真摯に受け取ってしまう華子にとって、それは自分の死刑宣告と同じだったのかもしれません。

 死刑宣告を受けることに耐えられなかった、あるいはどこにも逃げられないことに絶望した華子は、逃亡先の中島さんの別荘で自殺を図ります。それは華子があがき続けて人を傷つけてきた、最後の贖いの行為であるようにも見えるのです。


お付き合いいただいて、ありがとうございます。

本稿はあと一回で終わります。

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