第32話 『落下する夕方』の構成要素 その1

『落下する夕方』の構成要素 その1


 江國香織氏の『落下する夕方』の構造分解です。


 総ネタバレなので、小説を未読の方はご注意ください。


■はじめに


 このお話は梨果・健吾・華子の三角関係の話ですが、梨果の一人称で書かれています。

 健吾と華子の気持ちは梨果の視点からしか窺えないのですが、梨果が勘違いしたり違和感をスルーしたりすることでお話がミスリードされている箇所があります。それは、梨果のふわふわした性格からくるものです。

 梨果は良くも悪くもふわふわした、光が当たる部分しか見えない性格です。梨果の一人称なので、文章もふんわりとかわいらしい雰囲気を持っているのですが、その奥には健吾と華子の泥沼の関係があるのではないでしょうか。

 あくまでも私から見た『落下する夕方』なので間違っている箇所もあると思いますが、よろしくお付き合いください。


■三角関係


 時系列で三人の関係を見ていきたいと思います。


□シーン1 失恋

梨果は八年間付き合ってきた健吾に振られます。

そして健吾は同棲していたマンションを出て行きます。


□シーン4 健吾との会話

梨果は健吾に「新しい女はどう?」と聞きます。健吾が好きになった女性のことです。

健吾は「苦戦している」と答えます。「ハナモヒッカケテモラエナイ」と。カタカナで強調されていますが、これが第一の伏線です。


□シーン5 健吾の部屋

梨果は健吾を押し切るような形で健吾のアパートに向かいます。

梨果はそこで華子と会います。きれいな顔をしているけど、表情にどこか野蛮なところがあるという印象です。

そして華子は健吾のものではない男物の服を着ています。

こちらも今後の華子と健吾の関係を暗示する伏線です。


□シーン7 華子

健吾から電話がかかってきます。話題は華子のことで、華子に梨果のこともぜんぶ説明したとのことです。

元カノに今カノの話をする男ってわりとおかしいのではないでしょうか。

梨果は、そんな話をする健吾もおとなしく話を聞く自分もどうかしていると思います。

華子の話を黙って聞く梨果の性格が健吾を甘えさせているのでしょうが、梨果にも健吾を甘やかす心境があるように思います。


□シーン8 華子に会ったきっかけ

健吾から来る電話はあいかわらず華子の話題です。梨果は話を聞くたびに心臓をずたぼろにされると思います。

健吾は恋に落ちたきっかけの話をします。勝矢という健吾の友人の帰国の日、華子がうさぎの耳をつけて勝矢を待っていたというのが、そのきっかけです。

のちに勝矢と華子が帰国前に関係を持っていたことが明かされます。


□シーン11 華子が転がり込む

健吾が出て行って家賃の支払いに困っていた梨果のもとへ、華子が転がり込みます。

八万円でここに住みたい、これが三人にとって完璧な解決法だと華子は言います。

梨果はお金を得ることができ、華子は居場所を得ることができる。

が、華子が言っていない裏の理由があります。

健吾を好きではない華子にとって、元カノである梨果のマンションが健吾を避けるためには一番安全な場所だということです。

普通の神経を持つ男ならば、元カノのマンションにたびたびは来ません。が、健吾と梨果がイレギュラーな関係であることから、華子の悲劇が始まります。


□シーン13 おかえりなさい

梨果と華子の共同生活が始まります。

華子の「おかえりなさい」は正しい分量を持っていると梨果は思います。これも華子の性格に関する伏線です。

梨果は華子に「どうして健吾と住まないの?」と聞きます。華子は健吾と住む理由がないと答えます。

ここで華子と健吾が普通の恋人ではないと示唆されているのですが、梨果はそのことに気づいていません。


□シーン14 共同生活について

華子は働かず、料理もしません。少ない荷物で生活していますが、梨果の邪魔にはなりません。

華子の生活ぶりは逃亡者のようです。その伏線がおそらく「少ない荷物」だと思います。


□シーン15 健吾に電話

健吾は梨果に、華子にふられたかもと言います。心を軋ませながらも、梨果は健吾を家に誘います。

おそらく華子は健吾の家から逃げたので、健吾がそう思うのは当然のことです。この時点で健吾は華子がどこにいるかを知りません。


□シーン16 健吾が来る

健吾が家に来るというと、華子は自分がいなくなったほうがいいと言います。が、梨果はいてほしい、いてくれたほうが健吾も喜ぶと言います。

これは華子が梨果に気を遣っているのではなく、ほんとうに健吾と会いたくないからこう言っているのだと思います。


梨果は健吾に、いま自分は華子といっしょに住んでいると告げます。健吾は住むところが見つかってよかったと言います。

たびたび言いますが、普通の神経なら、元カノと今カノが同居して「よかった」という言葉は出てきません。

が、健吾はおそらく華子に最初から否定されつづけていたのでしょう。なので、自分のテリトリーのなかで華子が見つかって「よかった」と思ったのではないでしょうか。

梨果はそのあまりの不条理さに弱りながらも鼻歌を歌います。


□シーン17 華子と暮らす

華子が「一週間外出する」と書き置きを残してマンションを出て行きます。華子の一度目のエスケープです。

一週間後に華子は帰ってきますが、すこし日に灼けて、梨果の見たこともない服を着ています。


華子がふらりといなくなることは常日頃からあったことだと、のちに梨果は華子の知り合いから聞きます。が、この華子のリアクションは、健吾に居場所が見つかってしまった逃げの行動ではないかとも読み取れます。

そして「日に灼ける」「見たこともない服」というところから、華子がべつの男といっしょにいたのではないかという疑いも出て来ます。これものちの華子の行動の伏線となります。


□シーン21 健吾に呼び出される

この間、健吾は梨果のマンションへ華子に会いに訪れています。

梨果は健吾に呼び出され「華子といっしょにいて梨果は平気なのか?」と聞かれます。梨果と華子が姉妹のように並んでいて混乱する、と。

梨果は健吾がまだ好きなので、平気なわけはありません。が、華子とは気が合うからといって、梨果は健吾の問いを否定します。

梨果には健吾を華子ごと受け入れようという心境があります。それは、梨果のふわふわした性格によるものです。


□シーン23 たこ焼き屋

華子が「湘南へ行くので十日くらい留守にする」と言います。ゴルフよ、私は海のほうがいいんだけれど、と。

華子の二度目のエスケープです。


□シーン24 出発

一本きりの口紅をつけて、華子が出かけていきます。

梨果は華子に健吾を愛しているかと聞きます。いいえ、と華子は答えます。

梨果は健吾をかわいそうだと思います。

梨果の心はふわふわしていて、人の善意も悪意もふわふわと包み込んでしまうところがあります。なので梨果は華子に愛されない健吾をかわいそうだと思いますが、最初から華子が一貫して健吾を嫌っているということに気づいていません。


□シーン25 健吾との会話

健吾から連絡が来て、梨果は華子が海にでかけたと言います。ゴルフとは言いづらいと梨果は健吾に配慮しますが、ほんとうは華子の男の影に気づいていたのではないかとも思えるシーンです。


□シーン26 スイカの鉢植え

健吾がマンションへ来ます。梨果は、健吾が出ていったことも華子のことも、長くて悪い夢だったのだと思います。

が、健吾は「急にやってきて悪かったな」と言います。その他人行儀な言葉から、梨果は、健吾が華子をどうしようもなく好きなのだということに気づいて絶望します。


□シーン27 華子の消息

二週間経っても、華子から音沙汰がありません。

梨果は、教え子の直人くんの家に華子が泊まっていることを知ります。

華子のほうから直人くんのお父さんに連絡を取ったと勘づいた梨果は、家に電話をくれるよう、直人くんにことづけます。


□シーン29 華子から電話

華子から電話が来ます。「湘南に行っていたのではなかったの」と聞くと、「二週間行ってきたの」と答えられます。その先は説明するつもりがないようです。

梨果が「直人くんのお父さんと知り合いだったのか」と聞くと、梨果は「どうしておこるの」と言います。「おこられるのが大嫌い」だと。


華子が湘南へ行った件は後でネタバレがあるのですが、その後も直人くんのお父さんを利用してマンションに帰らなかったのは、やはり健吾から逃げたかったのではないかと思われます。

華子が自分に言い寄ってくる男を利用する傾向は、登場シーンの「健吾のものではない男物の服」からも暗示されています。華子はそんな自分が疚しかったので、「どうしておこるの」と先に梨果へ防衛線を引いたのです。


□シーン30 華子の帰還

三週間ぶりに華子が帰ってきます。


□シーン31 涼子から電話

梨果は華子が帰ってきてうれしいと思いますが、それを友人の涼子に憤慨されます。そして香港にいる涼子は、飛行機のチケットを送ってあげるから遊びに来いと言います。

華子が健吾を好きじゃないことだけが救いだと涼子は言います。

おそらく華子に自分の恋心を否定されることが健吾の不幸の根源であり、華子に執着する原因だと思います。

そして光の当たるところしか見えない梨果には、華子がそこまで健吾を嫌っていることが理解できません。そのすれ違いが華子と健吾をさらなる悲劇に追い込んでいきます。


□シーン32 スイカを食べる

健吾をマンションに呼んで三人でスイカを食べる。

健吾が華子に、海に行ったんだって、と聞く。華子は湘南にゴルフに行ったという。ゴルフをするのか? と聞かれ、私は見ていただけと答える。

華子がひとりではなかったことに健吾が落胆し、いたたまれなくなった梨果が鼻歌を歌う。

華子が健吾をさらなる絶望に叩き込むシーンです。華子はおそらく、わざとゴルフの話を健吾に匂わせて健吾を牽制しています。

その空気にいたたまれなくなった梨果が鼻歌を歌いますが、前回は自分を慰めるため、今回は健吾を慰めるためと目的が変化しています。


□シーン33 デート

健吾と華子が会うとき、ふたりとも梨果にそのことを告げて行きます。

健吾の言い方は「別の話をしたあとのついで」です。が、華子の場合は、時間と場所を事前に説明します。

健吾の場合は、何となく悪いことをしたと思っている子供が母親に報告するような言い方です。が、華子が「時間と場所」を事前に説明するのは、何かの証明のようにも、あらかじめ梨果に助けを求めているようにも見えます。

梨果は「ふたりが頻繁に会ってるんだな」と思うだけで、華子の心境には気づいていません。


□シーン34 健吾と会う

健吾がやつれている。「最近うまくいってるのに、どうしてなの」と梨果が聞く。

健吾が心底意外だというように梨果を見る。

相模湖でデートしたと華子から聞いていたので梨果はそう思っていたのだが、健吾は「華子は元気か」と聞く。

梨果は華子の元気なようすを説明する。が、ふたりとも会話にくたびれてしまう。


相模湖でデートをしたり頻繁に会ったりしたからといって、健吾と華子が「うまくいってる」わけではないと読者に暗示するシーンです。

梨果は真実に気づいていませんが、健吾が自分に探りを入れてくる気配を感じて疲れてしまいます。


□シーン35 華子との会話

華子が外出する。あいかわらず直人くんの父親のもとへ行っているらしい。

健吾に元気がないことを華子に伝えると、華子は気づかなかったという。

華子は、相模湖のボートで健吾をセックスをしたという。梨果の心臓がズキリとする。

健吾は困っていた。危ないよといってボートを押さえていた、という。


梨果は華子が「相模湖のボートで健吾とセックスをした」という言葉を額面通りに受け取ります。ここまできつく言わないとショックを受けない梨果の心のふわふわはだいぶ分厚いものだと思います。

しかし、普通の恋人は相模湖のボートの上でセックスはしません。相模湖はダム湖なので、落ちる場所が悪ければ助からずに死にます。

華子がどんな心境で健吾とセックスをしたのかはわかりませんが、理由としては、ボートの上で逃げ場がなかった、健吾が湖に落ちてしまえばいいと思った、周囲に人がいれば異常さを伝えられると思った、くらいが考えられます。


□シーン36 健吾が会社を辞める

健吾が働く意欲をなくして突然会社を辞めます。梨果のマンションに来た健吾は、三人家族みたいだなと言います。梨果は健吾のお金が尽きたら三人で暮らせばいいと思います。

梨果は、あなたたち、どんどん不健全になっていくと涼子に言われます。涼子の言う通りです。


華子から勝矢の話を聞いていないか? と健吾に聞かれます。

梨果は聞いていないと答えますが、華子と勝矢の関係がまだ続いているのかもしれないと思います。

もしそれが本当ならば、勝矢は健吾のライバルのはずです。

失業してからも、健吾は梨果のマンションに来ます。そして、ふたりでご飯を食べるのが「昔みたいだな」と言います。

梨果は健吾を母親みたいに、友達みたいに、恋人みたいに好きだと思います。


ここでも梨果のふわふわフィルターが働いて、普通の人だったら怒りそうな健吾の台詞をいい方向に解釈してしまいます。

そもそも梨果の日常が崩れたのは健吾のせいですから、これは「お前が言うな」という台詞です。


健吾と華子が出かけることになった、とふたりから連絡があります。健吾は電話、華子は例の如く場所と時刻を書いた書き置きです。

梨果はそれをふたりのばかげた誠実さだと解釈します。こっそり行ってくれれば、疎外感を感じないのに、と。

健吾と華子が帰ってくると、健吾がべろべろに酔っ払って梨果に抱きつきます。

華子は健吾を放っておいて、下着姿になると風呂に行きます。

華子の下着姿に動じない健吾に、梨果はこのふたりは順調に付き合っているのだなと胸が痛くなります。


梨果の言動が突っ込みどころ満載です。三人家族みたいだと言う健吾もおかしいですが、お金が尽きたら三人で暮らせば良いと思う梨果も考えがおかしいです。よく言えば人のいいところしか見ない、悪く言えば人の深い思考がわからない。梨果のたちの悪い優しさに健吾は相当犯されています。


会社を辞め、華子から勝矢の話を聞いていないか? と梨果に尋ねる健吾は、かなり梨果に振り回されて疲弊していると思われます。


健吾と華子が出かけるとき、梨果にそれぞれのやり方で連絡があります。健吾のほうは「梨果との約束を破って華子と会うよ」という報告ですが、華子はまたしても「場所と時間」を梨果に書き置きしています。

健吾と華子がどんな会話をしたのかは語られていませんが、ふたりは酒を飲んだようです。健吾は悪酔いして梨果に甘えかかるように抱きつきます。

華子はそんな健吾を放っておいて、健吾と梨果の前で服を脱ぐと風呂へ向かいます。


梨果は、健吾が梨果の下着姿を見て動じないということは、ふたりは恋人同士なのだなと改めて実感します。

が、問題にするべきところは、そんなに健吾を嫌がっているのに、華子が健吾とセックスをせざるをえない状況に追い込まれているという箇所ではないでしょうか。

華子にも悪いところはあり、のちほど華子がそのことに言及するシーンも出てきます。が、文中に直接は語られていない健吾の執着が、華子と梨果の運命をねじ曲げているように思えるのです。


長くなったので、次の雑文につづきます。

ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。

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