第33話 『落下する夕方』の構成要素 その2
『落下する夕方』の構成要素 その2
江國香織氏の『落下する夕方』の構造分解 第二回です。
総ネタバレなので、小説を未読の方はご注意ください。
■三角関係(つづき)
□シーン37 華子といっしょに寝る
華子が梨果といっしょに寝たいという
私、甘えられるの大嫌いと華子が言う。大きななりしてばかみたい、と。
健吾に関しては、梨果は脳味噌が溶けていると言われる。知らなかったの? と梨果が返す。
華子は梨果を健吾よけに使います。
そして梨果に「甘えられるの大嫌い」と言います。
華子は男を利用する反面、男嫌いな部分があると思います。昔から男に夢を見られてきたため、男に勝手に期待され、自分を性的に消費されてきたことに関する嫌悪感があるのだろうと思います。
そして、健吾に関しては梨果は脳味噌が溶けていると言います。当然のように知らなかったの? と梨果は言いますが、華子の台詞は心に響いていないようです。
華子は一貫して健吾を「藪内さん」と名字で呼びます。華子の健吾への距離感を表した呼び方です。
□シーン38 朝
華子は健吾を放り出せという。だってもう会いたくないんだもの、と。
梨果が絶望的に微笑む。ここは健吾のための場所だという。
華子の本音がようやく表れたシーンです。が、ここまで言っても梨果は華子の真意に気づかず、健吾を守ろうとします。その態度が華子と健吾をここまでこじらせていることにも気づいていません。
華子の目に同情の色が浮かびます。なぜ梨果にここまでひどいことをする男を梨果は庇うのか。華子の目には健吾のひどさが映っているので、梨果のけなげさが馬鹿馬鹿しくも哀しいものに見えていたのかもしれません。
そして健吾をそこまで愛せる梨果に憧れのようなものを持っているのではないでしょうか。
□シーン39 華子の言葉
涼子から梨果に、香港への航空チケットが送られてくる。
梨果は、健吾とならいっしょに行くのにと華子に言う。
華子はこの言葉を額面通りに受け取ります。
健吾の連絡がない。
梨果は華子になにか言ったか聞く。言ったわよ、と華子は答えるが、何を言ったかは口にしない。
健吾はもうここへは来ないと言っていた、という。おそらく華子が来るなと言ったのでしょう。
「健吾への思いが錯覚だと思ったことはないか」と華子が聞きます。
梨果はないと答える。
華子は健吾のことが最初から好きじゃなかったのかもしれないという。
自分の感情なんてとても信じられないんだから、と。
華子にふられた健吾をなぐさめたいと梨果は思います。
梨果が健吾のもとへ行けばいいと華子が言う。
梨果は、私には健吾を救えない。
恋人と人生を共有するときの幸福が華子にはわからないと確信する。
梨果は「錯覚だと思ったことはない」ときっぱりと華子に言います。「自信家なのね」と言われて、「だって自分の感情よ」と答えます。
それを受けて華子は「自分の感情なんてとても信じられない」と言います。
自分の感情への誠実さからいくと、ほんとうに誠実なのは華子のほうです。
人間の感情とはそれほど簡単には割り切れず、強く確信もできないものだと華子はわかっています。
梨果にはふわふわフィルターで現実をねじ曲げる、あるいは意識的に見ないところがあります。それはよく言えば現状に適応するための鈍感力です。だから健吾への恋心を強く信じていられるわけです。
梨果は、私には健吾を救えない。恋人と人生を共有するときの幸福が華子にはわからないと確信します。
梨果のインプットの仕方には間違った部分もあるのですが、弾き出された解答は正しいものです。
ただ、どうして華子がそのことをわからないのかという深い理由にまでは、思いが至っていません。梨果はその理由が華子の自分勝手さだと思っています。
私はそれは半分正解で、半分間違っていると思います。確かに華子は周囲を利用する自分勝手な部分がありますが、華子には自分に恋をする男の欺瞞が見えてしまうのです。
□シーン42 勝矢の妻との会話
華子が「留守にする」と書き置きを置いて失踪する。華子のエスケープ三回目です。
梨果は華子に「私にここを出て行ってほしい?」と聞かれる。梨果は返事をしなかった。
健吾に電話をかける。華子の質問を否定しなかったかと聞かれる。
健吾は華子の意見を反対して手ひどく拒否された経験があるのでしょう。健吾のほうが華子のことをよくわかっています。
華子は自分勝手だけれど、言葉を正しく使うひとだわと華子が言う。
「『留守にする』んだろう、いつものことだ」と健吾に言われる。
華子の「おかえりなさい」の伏線がここで効いてきます。華子はいい言葉も悪い言葉も正しく使う人間です。だから人を傷つけるし、反面それが魅力でもあります。
そして「私にここを出て行ってほしい?」と梨果に聞いた答えを、華子は額面通りに受け取ります。
華子は自分が「言葉を正しく使う人」なので、相手の言葉も額面通りに受け取ってしまうのです。
健吾は「華子が留守にすると言ってるんだから、そういうことだろう」と梨果をなぐさめます。
健吾は華子があくまでも気まぐれで出ていっただけだと認識しています。
「大丈夫なの?」と梨果が健吾に聞く。
「大丈夫じゃない。好意を持つのは勝手だけれど、期待されるのは大嫌いだ」と華子に言われたという。
華子は自分の外見から、男に期待され夢を見られてきた人間だと思います。
その男が自分の好きな人であればいいのですが、嫌いな人であれば、それは嫌悪感しか生みません。
健吾と華子の関係は、そういう悪循環のなかに生まれたものと思われます。
直人くんに慰められる。
この一週間に一度だけ華子が直人くんの家へ遊びにきたという。
わがままな華子、はた迷惑な華子と梨果は思う。
これだけ振り回されてようやく、梨果は華子がわがままな人間だと認識します。
梨果のふわふわフィルターは堅固で、ここまでされないと自分が華子に傷つけられているということに気づかないのです。
健吾が華子がいなくて安らかだよなあという。「かき乱されない」と。
いままでさんざん健吾が華子に振り回されてきたことを暗示する台詞です。
□シーン42 勝矢の妻との会話
勝矢の妻が華子に一度会いたかったという。
梨果が華子と住んでいることを、わけがわからないと言われる。
涼子といい勝矢の妻といい、外野は現実的な人間で、三人の関係の異常さを正しく認識しています。
勝矢と別れると勝矢の妻は言う。
どうして華子と住めるのかと勝矢の妻が聞くが、梨果は答えられない。
梨果が華子を拒めないのはふわふわフィルターのなせる技ですが、梨果にも華子の本質の片鱗が見えているのかもしれません。
勝矢と華子はまだ続いているのかと梨果が聞く。
終わったことだと言っていたが会ってはいるみたいと妻がいう。
□シーン43 別れたあと
華子は人を傷つける。それは事実だったと梨果は認識する。
他人のことになると冷静になる梨果です。自分を傷つけられるのはふわふわフィルターが阻止しますが、勝矢の妻が傷つけられていることは、きちんと認識します。
□シーン45 華子からクリスマスカードが届く
勝矢と健吾と梨果が食事をする。勝矢が離婚したという。
華子が香港に来ていて、クリスマスカードが梨果に送られてくる。
梨果は自分のチケットを使われたことに唖然とする。
華子が使ったのは、涼子が梨果に送ってくれた香港行きの飛行機のチケットです。
梨果は健吾に、華子が梨果のチケットを使って香港へ行ったことを知らせる。
健吾は行方が知れてよかったよという。
健吾はあいかわらず華子に甘いです。
飛行機のチケットは一年のオープンだった。梨果はたまらないと思います。
□シーン47 華子の居場所
涼子が華子を高級ホテルで見つけたという。
華子はすごく自信ありげに高級ホテルに泊まっている。
華子はまた別の男を捕まえているようで、「襟元にレースのついた真っ赤なワンピースを着ていた」と涼子は言います。
華子の服装が何度か言及されていますが、共通するのは、それが他人が選んだ服で華子が望んで着ている服ではないということです。
□シーン48 華子の居場所
現地のお粥屋で華子を見つけたと涼子がいう。
不幸のどん底みたいな顔をしていた、と。
華子は香港でも男とうまくいかなかったようです。
華子は勝矢、健吾、直人のお父さんとも似たような関係を繰り返しているのではないかと思います。
□シーン50 勝矢と会話
勝矢と華子の話をする。
華子はあれで臆病だからと勝矢はいう。
梨果は意見を差し挟めない気持ちの密度を感じる。
勝矢は華子の元カレです。そして勝矢は華子の裏の性格を梨果に暗示します。
華子は帰る場所がなかったという。勝矢は、自分のそばにいたいわけではなかったのかと思った。
華子は帰るところがないと今でも思っているのだろうか、と梨果は思う。
華子には帰る場所も頼れる人もいなかった、勝矢は自分が華子に愛されているわけではなかったと語るシーンです。
華子の弱い側面が梨果に語られます。これが華子がエスケープを繰り返す原因の伏線となります。
□シーン51 男の人に会う
健吾は華子がいないと身体にいいと寂しく笑う。
梨果は華子を探しに来た男の人に会う。
四十七、八の物腰の柔らかい男の人で、いつ帰るかわからないですよね、と言って去っていく。
□シーン52 華子の帰還
梨果が仕事から帰ると、華子の靴がある。
「おかえりなさい」を言われる。いつもの正確な分量の「おかえりなさい」。
「どうして香港だったの、誰と旅行に行ってたの?」
華子に心外という顔をされる。
梨果がチケットを使いそうにはなかったし、私はどこでもよかった。
チケットが一枚しかなかったからひとりで行った、と華子は言う。
華子が「言葉を正しく使う人間だ」という伏線がここで効いてきます。
華子は、梨果がチケットを健吾といっしょじゃなければ使わないと言っていたし、梨果が「私に出ていってほしい?」と聞かれて黙っていたからこそ、飛行機のチケットを使って梨果のマンションを出て行ったのです。
華子は香港に行きたかったわけではなく、行けるところであればどこでもよかったのです。
華子はどこにもつなぎとめられないのだと梨果は思う。
涼子が言っていた赤いワンピースが見当たらない。
華子は奔放で自分勝手な人間だと梨果は思っています。それを魅力だと思っている男たちと同じように。
赤いワンピースは勝手に男たちが見てきた夢の象徴のようにも見えます。
□シーン54 健吾と会う
直人くんに華子が帰ってきたか聞かれる。
「悪い男から逃げていた」と直人くんのお父さんが言っていた、と。
梨果は悪い男とは誰のことだろうと思う。
梨果はこの「悪い男」に心当たりがないのですが、おそらくこれは健吾のことでしょう。
健吾に電話をかけて華子が帰ってきたことを告げる。
「華子とまたやり直すわけだ」と健吾が苛立っている。
梨果には健吾がなぜ苛立っているのかわからない。
健吾は、華子が梨果へ心を開いていることに嫉妬しているように見えます。
健吾には心を開かないのに、なぜ梨果とは仲良くできるのかと。
健吾は、勝矢や勝矢の妻と連絡を取らなければという。
梨果はそういう約束になっていたと思い出す。
自分と健吾と華子が利害の一致した3人組なのにと思う。
利害が一致していると思っているのは梨果だけです。ここでも梨果のふわふわフィルターが作動しています。
□シーン55 華子との会話
華子の留守中に訊ねてきた男の人のことを聞く。華子は男の歳だけ答える。梨果も詮索しない。
勝矢夫妻のこと、直人くんのことを話す。みんな華子に会いたがっている。
華子は梨果に会いたかったという。
梨果の鼻歌やへんなお茶がなつかしかった。
華子は梨果に盟友的な友情を期待しているように思います。
梨果のふわふわした、光があたる部分しか見ない性質が、華子に安心感を与えるのではないでしょうか。
一度外にでてしまったら帰ることなんてできないと華子が言う。
外にでるというのはそういうことなのよ。
華子の言葉はいつもぎりぎりだ、と梨果は思う。
華子には放浪癖があり、外に出るために男を利用しています。
が、自分の求めている場所には辿り着けず、帰る場所もないのでまた放浪を繰り返します。
華子にとってほんとうは梨果の傍がいちばん安心できる場所なのだと思います。が、梨果にはもれなく健吾がくっついてくるので、華子は存在を脅かされているのです。
□シーン56 華子の弟
華子が男の子に会わせたいという。会わせたいのは華子の弟だと。
健吾が華子に会いにきた、と華子はいう。「健吾がぜんぜん好きじゃない」と。
何度も華子は梨果に健吾が好きではないと言います。梨果に真実をわかってもらいたいからです。
□シーン59 買い物
梨果は華子に弟の惣一を紹介される。
男の人(中島さん)について惣一が華子に聞く。
梨果は初めて華子の留守中に訪ねてきた男の名前を知る。
「中島さんしか私があそこに住んでいることを知らないもの」
惣一が、中島さんも困難な人生で大変だなという。
中島さんとは梨果のマンションへ訪ねてきた男の人のことです。
惣一は、中島さんも困難な人生で大変だなと言います。この時点では華子と中島さんの関係は明かされませんが、これは華子の今後に関わる伏線です。
□シーン60 華子の自慢
「梨果に惣一を紹介したかった」と芯からうれしそうに華子がいう。
「私にも信じているものがあるのよ、そのことを見せたかったの」
以前なにも信じられないと言っていた華子を思い出す。
なにも信じられないと言っていた華子が、唯一信じているものを梨果に紹介します。それは「なにも信じられない」華子が梨果を信用した瞬間でもあります。
「血は信じられるの?」
「ばかじゃないの。梨果さんってわからないわ」といわれる。
梨果も華子のことがわからない。
血じゃなくて惣一を信じていると華子はいう。
梨果は馬鹿正直に惣一が弟で血が繋がっているから信じられるのかと聞きます。
華子は惣一という人間そのものを信じているといいます。
梨果は光のあたるところしか見ない人間です。華子は、物事の裏側まで見えてしまう人間です。
華子は梨果の鈍感力とそこからくる優しさ、善良さに憧れているのではないかと思います。
だから華子は梨果に自分の大事なものを紹介します。
が、梨果は鈍感で善良であるからこそ、華子のほんとうの孤独には気づけないのです。
長くなったのでここで区切ります。
お付き合いいただいて、ありがとうございます。
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