13


 真琴がそのことに気がついたのは、随分とあとになってからだ。

 親からの援助は3年分。それ以上はあり得ない。無事に3年で卒業をするために大学の課題をこなしながら生活費を稼ぐため、真琴はアルバイトを掛け持ちしていた。忙しない生活に追われて3ヶ月程ぽっかりと、ろくにカメラに触れない日々が続いていた、そんな時期だった。

 夏が終わり、秋が来ていた。

 最初は自分が仕舞った場所を忘れたのだと思った。

「…あれ?」

 箱の中は岩谷に見せたころにはすでにいっぱいになっていたから、保管場所を変えたのに、自分自身がそのことを忘れているのだと。

 だがどこを探しても見つからなかった。

 家中を引っくり返し、夜通し探したがどこにもない。

 ない。

 失くなっていた。

 そのときになってはじめて、真琴は事態の深刻さに気づいた。

 誰かが持ち去ったのだ。

 だが、一体誰が?

 嫌な予感に背筋が震えた。

 岩谷に感じたあの違和感を思い出す。否定できない自分がいた。



 証拠は何もない。

 けれど可能性を消していき最後に残ったものは、そうでしかありえないという事実だけだ。

 空き巣ではない。学費の入っている通帳もキャッシュカードも無事だった。なくなっていたのは箱の中身とカメラだけだ。

 それを知っていたのはたったひとり。

 他の誰でもない。

 岩谷が持って行ったのだ。

 けれどなぜ?

 なぜそんなことをする?

 幸いにも卒業制作と論文の追い込みに入っていた岩谷とは連絡が途絶えていた。会えなくてよかったと思う反面、会って確かめたい気持ちが募る。

 でももしも、違っていたら?

 これが真琴の思い違いで、何もなかったとしたら?

 とても言えない。

 高橋に話したい。けれどちょうどそのとき、彼は長期出張で海外に行っていた。1年程帰れないと言われたのは、3ヶ月程前だ。

 まだ随分ある。

 遠くにいる高橋に余計な心配はかけられない。

 誰にも相談できずに2カ月ほどが過ぎた。

 だが事はすでに起こっていた。

 たまたま買った写真専門誌の中で、皮肉にも真琴は事態を知ることになった。

「──え…?」

 まるで知らないところで、自分の撮ったものが別人のものだととして発表されていたのだ。

「な…」

 なに…これ。

 見覚えのある写真が誌面の見開きに大きく掲載されていた。

 『受賞作・凪の日に』

 それは写真家としての登竜門と呼ばれる賞だった。将来が確約された──

 俺が撮ったもの。

 俺が見た景色。

 俺が──

 箱の中に仕舞ってあったもの。

 撮影者の名前はイワヤタケルとある。

 いわやたける…?

 震える手で携帯を掴んだ。

 何かの間違いだ。

 岩谷に連絡を。

 嘘だ。

 嘘だ。

「嘘だ…っ」

『おかけになった番号は──』

 やけに長い呼び出し音の後に聞こえてきた声は、無機質な声でこの回線は使われていないと、繰り返し続けた。



 もっと早くに気がつけばよかったのだろうか。

 もっと。

 もっと、どうすればよかったというのだろう。

 岩谷を探して分かったことは、すでに彼は大学を辞め、住んでいたアパートも引き払っていたことだった。それは真琴が写真やカメラがないことに気づく、少し前だそうだ。

 つまり真琴が思い悩んでいたときには、岩谷はもう行方をくらませていたことになる。

 岩谷は用意周到だった。

 誰かにあれが自分のものだということを証明したくて、真琴は掲載元の出版社に連絡をしたが、軽くあしらわれて終わった。そういった「あれは自分のもの」と主張してくる人間は真琴が思うよりも多く、電話で応対してくれた男性はうんざりしたような声を上げていた。

「あのさあ、大概にしてもらえます? こっちも暇じゃないんでね。もっとまともなことして自己肯定感満足させてよ。ね? それじゃ」

 いいようのない虚しさだけが募った。

 抱えきれない思いのまま、真琴は乙川のいる波曳野出版に出向いた。他に誰も思いつかなかったからだ。なぜか高橋には言えなかった。自分がどれだけ馬鹿なことをしているのか、頭では分かっていた。もう何もかもが遅いのだ。

 でもそれ以外に方法がなかった。

 誰でもいい。話を聞いて欲しかった。

 だが、乙川はすでに出版社を辞めていた。

「え…?」

 真琴は受付のカウンターから身を乗り出した。

「どう…どうしてですか?」

 個人情報だから答えられないと言う女性に食い下がってどうにか聞き出せたことは、乙川は病気のために会社を辞めたということだった。

「すみません、それ以上は…」

 乙川が退職してから3年ほどが経つという。彼女は去年入社したばかりで乙川とは面識がなく、そういった事情はまるで知らないようだった。

 受付の女性に礼を言って出版社を出た。外はひどく寒く、風が冷たかった。

 携帯を取り出して乙川にかける。電話は繋がらず、長い、長い呼び出し音だけが聞こえるばかりだ。この先はもうどこにも繋がっていない気がした。

 誰も知らない。

 思えば乙川とも、写真集を出して以降、連絡を取っていなかった。

 もっと頻繁にやりとりをしていれば、彼の現状も知ることができたかもしれない。

 もっと、もっと、真剣に向き合うべきだった。

 好きだというのなら、繋がった糸を断ち切るべきではなかったのだ。

 受付で水戸岡と名乗ったとき、受付の女性はそれをきちんと伝えてくれていたが、誰も真琴のことは知らないような素振りだった。

 それはそうだろう。

 一体何を期待していたのか。

 馬鹿だな、と真琴は自嘲に顔を歪めた。

 たった一年。

 たった一度、本を出しただけだ。それだけだ。

 そもそも自分は顔を知られるのが嫌で、隠していたではないか。名前さえろくに名乗らず、自分の写真だってまともなものを渡さなかった。そんなやつを、誰が知っていると──覚えているというのか。

「馬鹿だ…」

 どうしようもない。

 自分だと証明できるものは何もない。

 どこをどう歩いたのか、気がつけばまるで知らないところにいた。駅のまわりに乱立するビルとビルを繋ぐ高架通路、空中庭園のような場所に真琴は立っていた。

 欄干の下の交差点をたくさんの車が過ぎていく。

 どれだけそこにいただろう。

 携帯が鳴っていた。

 公衆電話から。

「…もしもし」

『真琴』

 出なければよかったと思った。

 声が喉を握り締められたように出ない。

 ひゅう、と掠れた息がこぼれた。

「たけ、る、先輩──」

『おまえ、俺を探してるの?』

「──」

 あまりにもタイミングが良すぎた。

 電話をした写真誌の出版社の誰かが、岩谷に連絡をしたのか。

『面倒くさいことするなよ』

「なんで、…なんでっ、あんなこと…!」

『は、決まってるだろ』

 低く岩谷は笑った。

『おまえなんかよりも俺のほうが優秀だから』

「な……」

『俺のほうがずっと、あの写真を生かせるからだよ』

 真琴は言葉を失った。

 この人は一体、何を言ってるんだろう。

 確かに岩谷は優秀だった。大学在籍中も何度も賞を受賞するほど。

 でもそれはすべて岩谷の実力でだ。こんな、人のものを借りて世に出る行為をしなければならないほど、彼は才能がないわけじゃない。

「なんで…どうして……っ先輩」

 真琴の震える声に岩谷は冷たく笑った。

『どうせ誰も信じない。諦めろよ真琴』

「っ、俺は…!」

『もう俺を探すな』

「せんぱ──」

 通話は切れていた。

 指先から血の気が引いていく。

 怒りはなかった。

 悔しくて、ただ悲しかった。

 それだけだ。

 泣くな。

 泣いたら負ける。

 見上げた空は暗く、自分の心と同じように重く黒い雲が垂れ込めていた。

 ポケットからカメラを取り出して空に向けた。唯一手元に残った、予備として使っていた古いフィルムカメラだった。

 忘れたくない。

 この気持ちを、忘れたくない。

 覚えていたい。

 誰かの視線を感じて真琴は振り向いた。

「…何を撮ってるの?」

 話しかけてきたその人は傘を差していた。

 いつの間にか振り出した雪が、自分の指先に積もっているのに気づいた。

 ああ、だから。

 こんなにも寒いのか。

「…風邪引きそうだな」

 差し掛けられた傘の下は、心なしか暖かかった。

「真っ白だよ」

 肩にも服にも、雪は積もっていた。

 髪に積もった雪を払われる。

 その手に、その優しさに、涙が溢れそうになって唇を噛んだ。

「何かあったの?」

 泣きそうなのを見られただろうか。

 誤魔化すように小さく鼻を啜った。

「…別に、なにもないよ」

「そう」

 真琴は撮り終わってしまっていたフィルムを巻いてカメラから取り出した。

「これ、あげる」

「え?」

 驚いているその人のコートのポケットにフィルムを捻じ込んだ。

 もういい。

 もうどうでもいい。

「さよなら」

 真琴は駆け出した。呼び止める声には一度も振り向かず、ひたすらに雪の中を走った。



 アパートに帰った真琴は昔撮った写真をすべて処分しようとした。だが処分するものなど残ってはいなかった。岩谷が持ち去った箱の中身には、随分昔に撮ったものも含まれていたからだ。幼いころ家に来てくれていた家政婦の人の写真も、すべて。

「あ、ああああ…っ」

 家中のものをぶちまけて真琴は部屋の中に蹲った。

 怒りが、後から後から湧き上がってくる。

 憎しみで胸の内が爛れそうだ。

 悔しさに焼き切れそうだ。

 怒りがないなんて嘘だ。

 哀しいだけなんて嘘だ。

 どうしてどうして、どうして…!

 思い知らされる。

 自分はこんなにも弱かったのだと。

 簡単に裏切られ、嘲られ、大事なものを踏みにじられるほどちっぽけな存在だった。

 


 それから真琴は事態を知った高橋が駆けつけてくるまでの8ヶ月あまり、家から一歩も出なかった。



***



 いつの間にか、部屋の中は暗くなっていた。

 もう夜だ。

 行かないと。

「仕事…、行かないと」

 声が誰もいない部屋に空々しく響く。

 立ち上がらなければ駄目だと思うのに、体は重く、動かなかった。

 見下ろすと、床に置かれた書類はあちこち破け、ところどころが濡れた後に渇いたように、小さく丸くごわついていた。

「どうして…」

 真琴は呟いた。

 文面の中の岩谷尊の名前を親指で擦る。

 どうして見つけてしまったのだろう。

 どうして。

 見てしまったんだ。

 知らなければよかった。

 高橋は真琴に嘘をついていた。

 全部嘘だった。

 ぐしゃ、と書類を握りしめる。玄関の鍵が開く音がした。


 

 玄関を開けた篠原は、大理石の玄関ポーチに真琴の靴があるのを見て目を見開いた。

 考えるよりも先に靴を脱ぎ捨てていた。大股で廊下を歩き、奥に進む。寝室に行こうとして、先にリビングの扉を開けた。

「水戸岡くん…!」

 廊下の明かりが差し込んだリビングの床の上に、真琴が蹲っていた。

「水戸岡くん、どうした? 具合が悪いのか?」

 駆け寄って真琴の横に膝をつき、篠原はその背に手を当てる。肩を抱くようにして体を起こそうとしたが、むずかるように真琴は身を捻った。

「どうした…?」

 顔を覆う手のひらが濡れて見えた。ぐしゃぐしゃになった紙が、真琴の体の下に散らばっている。

 書類?

 ちらりと目をやって、篠原は真琴の両手首をそっと掴んだ。

「どうしたんだ? …泣いてるの?」

「や…、っ、いやだ…」

 顔から手を外させようと腕を開かせると、真琴は隠れるように身を縮めた。腕だけを篠原に囚われたまま、体を伏せようとする。背けた顔、ぼんやりと浮かんだ頬の輪郭から、ぽたりと涙が伝って床に落ちた。

「こっちを向いて」

 緩く真琴が首を振る。銀色の髪が乱れて、さらさらと音を立てた。

「…っ、見られたく、ない…」

「水戸岡くん」

「いやだ」

「──真琴」

 びくっ、と細い肩が揺れた。

「僕を見て」

 深く息を吸い込んで、真琴がゆっくりと顔を上げた。顔にかかった髪の隙間から、濡れた目が篠原を見ていた。

 篠原は真琴の手を下ろして、両手で頬を包んだ。濡れた頬を親指で拭う。暗い中でも目元が真っ赤になっているのが分かった。

「何があった? 具合は?」

 触れた真琴の顔は泣いているためかしっとりとして、少し熱かった。出掛けに熱っぽかったが、それとはまた違う気がした。

「だい、じょうぶ…、っ、ごめ、ごめんなさい」

 謝られる理由が思いつかなくて、篠原は眉を顰めて何が? と聞いた。

「書類、こんな、ぐちゃぐちゃにして、ごめんなさい、俺、おれ…っ」

 真琴が手のひらを開いて差し出したのは、破れてぐちゃぐちゃに丸まった書類の切れ端だった。

 篠原は受け取って、切り取られた文字を読んだ。覚えのあるその内容は、元妻の調査報告書の一部だ。

 そういえばいつもの悪癖で、目を通したあとソファに置いた引き出しの上に放っていた…。

 これが、なんだ?

 真琴がどうしてこれを見て泣いているのか篠原には分からない。もう一度文面に目を落として、はっとした。

 岩谷尊。

 これはフォトグラファーのイワヤタケルの本名だ。

「この男を知ってるのか?」

 真琴の目が揺れた。

 唇を噛み締めている。

 目の縁に溜まった涙が溢れて、ぼたぼたと落ちていく。

 岩谷との間に何かがあったのは、それだけで充分だった。

「真琴」

 篠原は引き結んだまま震えている真琴の唇を、頬を包む手の親指で撫ぜた。

 そういえばあのときも、こんなふうに泣きそうな顔をしていた。

 雪の降る傘の下で。

 あれからずっと篠原は真琴を忘れたことがなかった。

 真琴が覚えていなくても。

 自分は忘れることがない。

 同じように髪を撫でる。

「悪かった。こんなところに置いておいておくべきじゃなかった」

 ひく、と喉を引きつらせて、真琴がくしゃくしゃに顔を歪めた。

「ちが…っ、ちがううぅっ、おれ、おれが…勝手に…っ勝手に」

「おいで」

 そう言って、篠原は真琴を引き寄せて抱き締めた。驚きで一瞬強張った体をさらに強く抱きすくめると、真琴の体は小さく震え、力が抜けていった。

「う、う、っううぅ…」

「嫌なものを見せてごめん」

 真琴の首筋に顔を埋めると、涙の匂いがした。

「大丈夫だよ」

 華奢な背中を撫でる。

 大きなパジャマの中で泳ぐ体は縋るように篠原にしがみついてきた。

 愛おしいと思った。

「もう大丈夫」

 湿った細い首筋に口づけ、そのまま肌を辿り尖った肩に唇を押し付けた。

「…好きだ」

 好きだ。

「きみが好きだよ」

 甘い肌の匂い。

「…ふ、あ…あ」

 真琴が篠原の髪に手を這わせ、顔を埋めてくる。

 細い指が頼りなくさまようのを篠原は捉えた。自分の指を絡める。顔を傾けた真琴の唇が篠原の頬を掠め、求めるように探していた。きっとそれが答えだった。

 焦らすように伏せた瞼にキスをする。睫毛の涙を吸い、腫れた目尻を舐めた。

 欲しい。

 この人の全部が。

 思えばずっとそうだったのかもしれない。

 あの日、傘を差しかけたときから、ずっと。

 彼が欲しかった。

 弱っているところに付け込んでいると──分かっていても。

 顔を上向かせ、真琴の唇に篠原は自分の唇を押し当てた。

 濡れて柔らかなそれを甘噛みする。

 真琴が小さく声を上げた。

 篠原は貪るように深く、口づけた。



 

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