12
「おーい一年生来てるぞー」
「はーい」
入部届を持って行ったあの日、高橋に呼ばれて奥から出て来たのは、眼鏡をかけた優し気な面立ちの人だった。背の高い高橋と同じほどすらりとしている。ひと目見て上級生だと分かった。制服の襟もとに付いたバッジは赤、三年生だ。
「高橋っていうんだ、よろしくな」
「はい」
真琴が頷くと、高橋は隣に立った三年生の肩を叩いた。
「で、こっちが部長の岩谷」
岩谷と呼ばれた三年生は、にこりと真琴に笑いかけた。
「ようこそ。部員が少ないんで嬉しいよ。ええと、水戸岡くん?」
「はい、よろしくお願します」
頭を下げたとたん髪をくしゃっとされて、慌てて顔を上げると、高橋が悪戯っぽく笑っていた。
「うわ、髪つるっつる!」
ちょっと、と岩谷が高橋の手をぴしゃりと叩いた。
「びっくりしてるじゃないですか。やめてくださいよ」
「なんで。可愛いじゃん。なあ、真琴って呼んでいい?」
「は? え?」
「先輩」
高橋の押しの強さに真琴がぽかんとしていると、ごめんな、と岩谷が苦笑した。
「この人かなりの構いたがりだから。気にしなくていいよ」
ひとしきり真琴を構い倒してから、高橋は帰って行った。OBとはいえあんなに気軽に卒業校に来る人も珍しいと岩谷は笑って真琴に言った。
部の人数は真琴を入れて7人。三年は岩谷ひとり、一年は真琴ひとり、残る5人は二年生だ。皆それぞれが好きなことをやっている、気さくな人たちだった。
特に岩谷は高橋とは違うタイプで面倒見がよく、穏やかな人柄だった。
「うちは部活って言っても同好会みたいなもんなんだよ。好きなときに来て好きなことすればいいし、活動として報告義務はあるけど、内容的には年2回の全国コンクールに出品する程度だし。機材も、申請すれば好きに使えるんだ。2年は今ショートフィルム撮ってるよ。動画サイトに上げたりしてさ。水戸岡くんは自分のカメラとか、なんか持ってる?」
「はい。あ…デジタルじゃないんですけど、それでもいいですか?」
「え、フィルム? 今どき珍しいね」
どういうの、と聞かれて真琴はカメラのメーカーと機種を教えた。それを聞いた岩谷が目を見開いた。
「へえ、凄いねそれ」
値打ちものだよ、と言われて今度は真琴が目を瞠った。
「そうなの?」
「そうなのって、知らなかったの?」
驚いたように言われて真琴は頷いた。
「全然…、親がくれたやつだから」
「ふうん」
岩谷はそれ以上何も聞いて来なかった。深く聞かれても困るので、そのとき真琴はとてもほっとしたのを覚えている。
「いいなあ、今度見せて、それ」
「はい」
何でもない優しさがひどく嬉しかった。
仲良くなるのに時間はかからなかった。
真琴はもともと同級生よりも年上といるほうが楽で、話が合った。お互い部内に同じ学年がいないことも大きかったのだろう。岩谷は懐いてくる真琴を邪険にはせず、相手をしてくれた。真琴の写真を手放しで褒めてくれたのも岩谷だ。彼もまた写真で活躍する自分の未来を思い描いていて、将来を見据えて芸術系の大学を選んでいた。岩谷の撮る写真が真琴は好きだった。
受験を控えていたあの時期、忙しい合間を縫って息抜きがてら撮影をしに行くときは、必ず真琴を誘ってくれた。そこに高橋が合流することも少なくはなく、気がつけば真琴は入学してすぐから、3人で行動をするのが当たり前になっていた。いつも憂鬱だった長い夏の休みをはじめて退屈だと思わずに終えた。
知り合ってから半年ほどが過ぎた。
焦げ付くようだった夏の日差しの強さが少し柔らいだころ、真琴は出版社から連絡を受けた。
嬉しさもあったが不安のほうが大きかった。
ひとりで行くのは躊躇われた。
どうするか。
誰かに相談を、と思ったとき、一番最初に頭に浮かんだのは毎日顔を合わせていた岩谷ではなく高橋のほうだった。
それがなぜなのかは分からない。
あれから十年以上たった今でも、真琴には自分の行動の真意が分からなかった。
意味などなかったかもしれない。
受験を控えた岩谷を煩わせたくなかった、それだけだったかもしれない。
それでも考えてしまうのだ。
あのとき、高橋ではなく岩谷を伴って乙川に会いに行っていたら、今は──自分たちは変わっていたのだろうかと。
けれど、それはもう誰にも分からないことだ。
『考えたって仕方ないだろ』
吐き捨てるように言った高橋の言葉が真実だと思う。
乙川と会った翌日の放課後、真琴は部室へと急いだ。
勢いよくドアを開けると、岩谷は、すぐ近くに立っていた。
「真琴」
機材を仕舞ってある鍵付きの棚を開けて、中のものを取り出そうと手を伸ばしている。テーブルの上にはメンテナンスの道具が置かれていた。
駆け込んできた真琴を見て、少し笑う。
「そんなに走るとこけるぞ」
西向きの窓からは、午後の傾いた日差しが差し込んでいる。
「あ──みんなは?」
見れば、部室には岩谷しかいなかった。
いつもならこの時間、部室内で二年生がバカ騒ぎをしているところだ。
「ああ、外。野球部の試合を撮影してるよ」
背中に日差しを受ける岩谷の顔は陰になっていて、シルエットだけが浮かぶ。眼鏡の縁がきらりと西日を反射していた。
「先輩、あのね、俺」
「ん?」
「俺、出版社から連絡来たんだ」
岩谷の横顔がゆっくりと真琴を向いて、見下ろした。
見上げた真琴はようやく岩谷に報告できるのが嬉しくて、笑っていた。
「いつも投稿してる出版社で、昨日、
「──先輩と?」
真琴の言葉を遮るように岩谷が呟いた。歩とは高橋の下の名前だ。うん、と真琴は頷いた。
「へえ、そう」
影になった顔が暗く、逆光でよく見えない。
それでも眼鏡の奥の目が、じっと真琴を見つめているのは分かった。
そのとき感じた違和感をどう表わせば伝わるだろう。
どんなふうに話せば、その場にいなかった者に分かってもらえただろうか。
開いた窓から風が吹き込んでくる。グラウンドで部活をする生徒たちの声。
岩谷は真琴に背を向け、窓を閉めた。
閉じた瞬間、ずしりと空気が重くなった気がした。
岩谷が真琴を振り返る。
たった数秒──だがその時間がひどく長く感じた。
永遠のように。
にこりと岩谷が笑った。
「よかったね」
「──うん…」
戸惑いながら真琴は言葉を返した。
もっと喜んでくれると思っていた。
もっと手放しで笑ってくれると、そう思っていたのだ。
真琴は、乙川の話を聞いてから一週間後、引き受ける旨を伝えた。未成年であることを理由に、高橋には出来る限り話の場には付いていてもらった。
契約は順調に進み、翌年の春から、真琴の写真が雑誌に掲載されることが決まった。
岩谷に感じた真琴の違和感はあのときの一瞬だけで、契約が決まったことを伝えると、彼は自分のことのように喜んでくれた。高橋と3人でお祝いをし、騒いだ。それからはまたいつもと変わりない日々が続いた。
さらに半年が過ぎ、岩谷は希望していた第二志望の芸大に受かり、高校を卒業していった。
春、5人いた二年生も三年に上がるときには3人になり、真琴は二年生になった。同級生がふたり、新一年生が3人入部して、写映部はいつになく賑やかになった。
その年は時間が過ぎて行くのが恐ろしく早く、いくら時間が合っても足りないほどに感じた。
雑誌の写真掲載は順調だった。読者からも好評だと、乙川は細やかに真琴に連絡をくれた。
『問い合わせもたくさん来てますよ』
名前や顔出しを真琴が嫌がったため、雑誌掲載時の撮影者クレジットには、「ミト」というペンネームを使った。苗字の水戸岡の二文字を取った単純なものだったが、それがかえって性別不詳の響きを出していてある意味幻影的な真琴の写真の雰囲気に合っているということだった。
学校の周りの人たちには写真を雑誌に載せていることを言わなかった。親にさえ、真琴は自分が何をしているのかを伝えなかった。言ったところで関心を持たれるわけもない。だから知ってくれている高橋とは雑誌が出るたびに喜び合った。大学生活も後半に入った高橋とは会う機会こそ減っていたが、連絡は頻繁に取り合っていた。岩谷とも月に二、三度は会い、お互いの近況を話題にした。
嬉しさに、その忙しさに、夢中になっていた。
浮かれていたのかもしれない。
どこかそれは夢の中のような出来事だと思っていた。
そして、夢は長くは続かないものだ。
翌年、年が明けてすぐに、雑誌は突然廃刊になることが決まった。
廃刊は5月。1月の終わりに乙川は真琴に会いに来た。
「久しぶりですね、水戸岡くん」
会うのは本当に久しぶりだった。やりとりはずっと電話かメールで。どうしても会わなければならないとき以外は、すべてそれで済ませてきたのだ。
「こんにちは。ほんと、お久しぶりです」
乙川は少しやつれて見えた。
その日は高橋の都合が付かず、真琴ははじめて乙川とふたりで会っていた。
「急な話で、驚いたでしょう。水戸岡くんにはなんて言っていいか…」
「いえ、そんな。もともと一年で更新って話だったし、俺なんかより乙川さんのほうが…あの、大丈夫ですか?」
疲れの見える顔を覗き込むと、乙川は微笑んだ。
「大丈夫ですよ。心配してくれてありがとう」
はじめて会ったときと同じカフェの同じような席、運ばれてきたコーヒーに口をつけて乙川は言った。
「水戸岡くんの写真、本当に評判が良くて…それで、廃刊は残念ですが、ぜひこれまでの掲載分をまとめた写真集をうちで出したいと思ってまして」
「え──」
「発行予定部数は少ないのですが…、どうでしょう、考えてみてもらえますか」
「は…、はい! もちろん!」
ふっと乙川は笑った。
「高橋さんとも相談して、2週間以内に返事をください。あと、もし写真集を出すようなら掲載分だけでは少し物足りないので、あと数点、お願いすることになると思います」
「はい、分かりました」
撮りためていた写真は沢山ある。問題はなかった。新しく撮影してもいいし──真琴はその時点で乙川に了承したいのを堪えて、彼と別れた。
予定通り5月に、雑誌は惜しまれつつも廃刊となった。
8月のはじめ、真琴のミトとしての写真集が発売された。著者の紹介をしなければならないと乙川に言われて、夏休みだったこともあり、髪を銀色に染めた姿をフィルターを通し、さらにピントを外して自撮りしたものを渡した。
ぼんやりと人が立っているのが分かる程度だ。
しかも後ろ姿──きっと誰にも分からない。
乙川は真琴らしいと笑って、それをウェブサイト上の販売ページに載せてくれた。
写真集の売れ行きは好調だった。
予定していた部数をすべて売り切ったと乙川から連絡が来た。増刷希望の話もあったが、いつの間にか立ち消えになっていた。
その後、ちらほらと別の出版社から、写真の依頼が舞い込んできたが、高校三年になった真琴は大学受験のためにそれらを全て断っていた。無事大学に合格し、20歳になって自分で責任を負えるようになってから、また写真投稿を再開しようと思っていた。それまでは趣味の範囲で撮影を行い、写真を撮り溜めることに専念した。
「なあ、大学、どこ受けるか決まったか?」
高橋が時々息抜きに食事に誘ってくれた。季節はもう秋で、受験の追い込みの時期だった。
呆れて真琴は言った。
「それ今頃聞く? そんなのとっくに決まってるよ」
「あー? どこだよ?」
「尊先輩と同じとこ」
「あいつと?」
「うん」
テーブルの上のケーキを摘んで真琴は頷いた。
ホテルのデザートランチ。高橋の奢りだった。高橋は大学卒業と同時に無事に就職を果たし、もう社会人として働いていた。大手の名の知れた企業で給料もいいようだ。
休日に後輩を誘って有名ホテルで食事が出来るほどに。
「おまえ、岩谷と会ってるのか?」
「うん。最近は先輩も忙しいって、ほとんどメールだけど──なんで?」
「いや」
何か言いかけた言葉を飲み込むように高橋が紅茶を飲んだのは、気のせいだろうか。
「…真琴」
「ん?」
「おまえさ…」
言葉の続きを真琴は待った。
けれどなんでもないと言って、高橋はぐっと紅茶を飲み干した。
翌春、真琴は無事岩谷と同じ大学に合格した。写真掲載で貯めていた貯金を元に、家を出た。
海外に行ったきりほとんど戻ってこない両親にそのことを──あとになって騒がれても困るので──一応伝えておくと、たった一言「そうか」と言われただけだった。大学の費用は3年分、真琴の口座に振り込まれており、家を出て行くのならそれ以上の援助は期待しないことだと言い渡された。それで構わないと真琴が言うと、ほんの数秒の沈黙の後、また「そうか」と言って電話は切れた。
もとより他人よりも他人らしい親子だ。それ以上など望んでもいなかった。
ひとりでは持て余すほど広かった家を出て、真琴は今も住んでいる2DKの小さなアパートを借りた。保証人には高橋がなってくれた。引っ越しが終わったその夜、久しぶりに岩谷も呼んで3人で新しい真琴の家で鍋を囲って食べた。
久しぶりに会った岩谷は、眼鏡をコンタクトに変えて、随分と垢抜けたように見えた。もともと整っていた顔立ちが引き締まり、男らしくなったと真琴は見惚れた。
その再会を機に、岩谷は高校のときと同じくらい、頻繁に真琴に連絡をくれるようになった。
お互いひとり暮らしの気安さからか、どちらかの家に入り浸る。もっぱら岩谷が真琴の家に来ることが多かった。
岩谷は大学で得た知識を真琴に丁寧に教えてくれた。写真に関する話題は尽きることがなく、夜通し話して、そのまま岩谷が真琴の部屋に泊ることも珍しくなかった。岩谷といるのは楽しかった。真琴も岩谷を兄のように慕っていた。
真琴が20歳の誕生日を迎えたその日も、卒業制作の合間を縫って岩谷は真琴の部屋にいた。高橋も来るはずだったが、急に九州への出張が入り、来ることが出来なかった。
「真琴ももう20歳か」
「全然そんな感じしないけどね」
買ってきてもらったケーキを食べながら、真琴は笑った。
「制作進んでる?」
「まあ、ぼちぼちだな」
実際岩谷は優秀だった。
謙遜した言い草に真琴は苦笑して、あ、と思い出した。
「そうだ。尊先輩、ちょっと見てもらっていい?」
「ん?」
「俺さ、また写真投稿しようと思って撮り溜めてたんだけど」
壁際の棚から一抱えある箱を取り出して、ラグの上に座る岩谷の前に置いた。
「前みたいに青を主張しない色合いを出したくて、色々試してみたんだ」
きちんとホルダーに収めた写真とネガをテーブルの上に並べて置いた。真琴はいまだにデジタルではなく、父親から貰ったフィルムカメラを主に使っていた。
現像も手間がかかるが自分でやる。小さなクローゼットを潰して暗室代わりにしていた。
「こっちが昔から使ってるやつ。で、こっちがこないだ買った中古の一眼で撮ったの。フィルムのはわざと少し感光するようにしてて…、どう? ちょっとざらついてる?」
ただ先輩としての、岩谷の意見を聞きたかった。
顔を上げると、岩谷は食い入るようにテーブルの上の写真を見つめていた。
「…先輩?」
蛍光灯の明かりに反射する岩谷の目が青白い。
真琴は昔感じたのと同じ違和感を思い出した。
あのときも。
西日で逆光になった暗い顔の奥で、無表情な目だけが光って見えた──
「──」
ぞわっと、真琴の項が逆立った。
ゆっくりと岩谷が真琴を見た。
あのときと同じだ。
「いいんじゃないか?」
満面の笑み。
「すごいな、──真琴は、本当」
笑っているように見える目の奥は、まるで井戸の底の水のように、暗く、何も映していなかった。
そしてそれからしばらく経ったのち、真琴の撮り溜めていた写真と使い続けていたカメラは、忽然と真琴の部屋からなくなっていた。
ネガも何もかもすべて──開けた箱の中は空っぽになっていた。
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