11


 どうして。

 どうしてだろう。

 見たくないと思うときにばかり目の前に突きつけられる。

 現れる。

 ──どうして。

 どうしていつまでも掻き乱されるのか。

「…くん、水戸岡くん、…?」

 ふわふわと体が揺れる。

 手にしていたグラスをやんわりと取り上げられそうになって、抵抗するように真琴はぐっとグラスの中身を煽った。

「もう飲み過ぎだよ」

 空になったグラスをそっと指の間から抜き取られた。

 飲み過ぎ?

「まだ…」

 まだだ。

 どれだけ飲んでも足りないような気がした。

 ぐらぐらとする頭を引き寄せられ、横にある体に寄りかかるようにされた。

 気持ちいい。

 ずっとこれが続けばいいのに。

 うわ言のように真琴は言った。

「まだ、…まだ、飲む…」

「じゃあ少し休もう」

 かすかなざわめきの中で、篠原がそう言うのが聞こえる。

「すみません、水を」

 誰かに声を掛けている。

 その声の振動が寄りかかった体から伝わってくる。

 温かい。

 温かくて…目を開けていられない。

 とろりと溶けるように瞼が落ちていく。

 少しだけ、ほんの、少しだけ。

「…、…」

 そう思いながら真琴は瞼を閉じた。



 運ばれていると、意識の外で感じていた。

 ゆっくりと体が下ろされる。

 気持ちがいい。

 ひんやりとしたシーツ、冷たくて柔らかな枕に真琴は頬を摺り寄せた。

 あまりの気持ちよさに体を丸めてしまう。

「……よ」

 全身の隅々までが心地よい痺れに満たされている。

 髪を撫でる手が優しい。

 銀色に染めた髪を耳元から掻き上げ、掬うようにして撫でられている。少し冷たい手が額に触れ、指の背が頬を滑った。

「水戸岡くん」

 呼ばれている。

 ああ、篠原だと真琴は思った。

 目を開けようとするけれど、瞼は重く貼りついて動かない。

「ん…」

 また眠りたい。

「…、…くん」

 答えたいけれど。

 返事をしたいけれど…

 声を出すのも億劫だった。

 目元を指先で辿られて、濡れた感触になんだろうと思う。

 ひとしきり撫でられて、綺麗に拭った指が離れていく。

 …あ。

 駄目だ、もう少し。

「……、…っと」

 どうにか手を伸ばして触れたものを掴むと、そっと気配は戻って来た。

 嬉しくて真琴は無意識に笑っていた。

 目じりに柔らかなものが押し当てられる。

 顔を掬うように持ち上げられ仰向かされる。唇の端に同じ感触がした。

 真琴、と名前を呼ばれる。

 そんなふうにいつも呼んでくれたら。

 その声が好きだ。

 好きだ。

 低く響く声、いつもよりも甘く、胸の奥に染み込んでくる。

 だから、これはきっと夢だ。

 好きだから夢を見てる。

 好きだから、こんな夢を見ている。

 自分にばかり都合のいい夢を。

 そんなはずないのに。

 どこか窓でも開いてるんだろうか。

 雨が降っていたのに…

 首筋をくすぐる温かな風に身を委ねながら、真琴はそのまま、深い眠りの中へと緩く沈んでいった。


***

 

 雨足はひどくなっていた。

 途中でビニール傘を買ったのは正解だった。

 傘をたたみながら、見上げた事務所に明かりはなかった。当然か、と高橋は思い、階段を上がった。入口の横に傘を立て掛ける。セキュリティを外して鍵を開け、中に入った。外灯の光でぼんやりと薄暗い事務所内を歩き、自分のデスクの明かりだけをつけて、どさっと椅子に体を投げ出した。

「はー…」

 今日中にやってしまわないといけないこと、終わらせないといけない連絡があって戻って来たのだ。

 もう23時か。

 デスクの上には真琴が仕上げた文書が綺麗にファイリングされて置かれてあった。きっちりと端を揃えて置かれたそれに、妙なところで几帳面な後輩に苦笑しつつ、高橋はパソコンのスイッチを入れた。立ち上がるのを待つ間にデスクの引き出しを開けて文書を仕舞う。そして鞄から小さな鍵を取り出して、一番下の鍵付きの引き出しに差し込んだ。

 かちりと小さな音がして開く。引き出した深型のキャビネットの中には誰にも見られたくないものが仕舞ってあった。

 特に真琴には、絶対に見せられない。

 何かのはずみで見つかることを恐れて自宅に持ち帰ることも考えたが、仕事上ここにあったほうがなにかと都合がよかった。

 我ながら矛盾していると思う。

 青い表紙のファイルホルダーを取り出してデスクに放る。

 立ち上がったパソコンの明るい画面が、暗がりの中に高橋の顔を照らし出した。

 青い光が目に映る。パスワードを打ち込んだ。

 雨が窓を叩いている。

 終電までに間に合わせないと面倒だと、高橋は開いた画面に向かってキーボードを叩きはじめた。

 静かな室内に雨の音とキーボードの音が混じり合う。

 雨か。

「……」

 真琴は今日もあの場所に行ったんだろうか。

 カメラは壊れていても。

 どんなに待ったところで誰も来るはずのない、あの歩道橋に。

「…──」


***


 眠ってしまった真琴のそばに腰を下ろして、篠原はしばらくその寝顔を見つめていた。

 雨の匂いのする服を脱がせ、今着せたばかりの自分のパジャマをまた脱がせたい気持ちになる。

 サイドテーブルの小さな明かりに浮かぶ頬を撫でる。

 やがて、篠原はゆっくりと立ち上がって明かりを落とした。音を立てないようにしてドアを開け、寝室を出た。



 痛い。

 頭が痛い。

 丸めた体を動かして、ゆっくりと真琴は目を開けた。

「…──ん、ん…?」

 知らない部屋だ。

 どこだ、ここ。

 自分の家じゃない。

「──っ」

 ──しまった!

「起きた?」

 がばっと体を起こしたとき、タイミングよく部屋のドアが開いた。

「あ…」

「おはよう」

 篠原がワイシャツにネクタイを引っ掛けた姿で立っていた。

「あの」

 俺、と言いかけて頭痛に頭を抱え込んだ真琴に篠原は手を伸ばして、そっとまたベッドに寝かせた。

「痛む? 薬を持って来るよ」

「…はい」

「待ってて」

 篠原が部屋を出て行く。

 こめかみが波打つようにずきずきと痛む。

 真琴は枕に顔を埋めて、ぎゅ、と目を閉じた。

 ふわふわと覚束ない体。

 眩暈にも似たこの感じには覚えがあった。

「二日酔い…」

 昨夜、篠原と食事をした。

 食事をして、それで…

 記憶は店に入って酒を飲んだところで靄がかかったようになり、そこから先はまるでぼやけて途切れている。

 後のことは覚えていない。

「あー…、もう」

 やらかした。

 一体、どれだけ飲んだんだ。

 篠原がいるということは、ここは篠原のマンションで、この部屋は彼の寝室ということだ。

 このベッドも。

「大丈夫か?」

 軽い足音に目を開けると、篠原がベッドの横に立って真琴を見下ろしていた。サイドテーブルに水の入ったグラスと小さな錠剤が置かれる。

「すみません、俺、昨日…また迷惑かけて」

「少し飲み過ぎただけだ、どうってことないよ」

 篠原はかすかに笑って、起き上がろうとする真琴の背を支えてくれた。

「あれ、服?」

 グラスを渡されてはじめて、真琴は自分が身に覚えのないパジャマを着ていることに気づいた。

「ああ、雨に濡れたから洗濯したんだ。今乾燥してるところだよ」

「すっ、すみません! ほんと、ごめ…、っ…ん!」

 篠原が言葉を遮るように、錠剤を摘まんで真琴の口に押し込んだ。

「いいから飲んで」

 舌の上に転がったそれを、真琴はグラスの水で嚥下した。

 篠原の手が真琴の額に触れる。

「──」

 ひんやりとした手のひらに真琴の肩が小さく跳ねた。

「少し熱がある」

「え…?」

「顔が赤い」

 額に触れていた手のひらがそのまま滑り下りてきて、真琴の左頬を包んだ。

「だい、丈夫、ただの二日酔いだから」

「今日は仕事を休んだほうがいい」

「や、そんな大袈裟な──」

 確かに体はいつもより火照っている気がしたが、休むほど辛いわけじゃない。慌てて起きようとした真琴の手からグラスを取り上げた篠原は、真琴の肩を押してベッドに寝かせた。

「わっ、ちょっ、ほんとに大丈夫だって! 俺案外丈夫だからっ」

「いいから寝てなさい」

「でも」

「どうせ服はまだ乾かないよ?」

「な…っ」

 声を上げたとたん、ずき、と痛んだ頭に顔を顰めると、ほら、と篠原は言った。

「せめて昼までは寝ていきなさい」

 それまでには服も乾いているよ、と続けられて、真琴はゆっくりと体の力を抜いた。真琴が完全に起き上がる気を失くしてからようやく、篠原が押さえていた肩から手を離した。

「鍵を置いて行くから、好きなときに帰っていい。シャワーも使っていいから」

「すみません」

「本当に、僕が帰るまでいてくれてもいいんだよ」

「うん」

 冗談ぽく言われて、真琴は笑った。

「…ありがとう」

 篠原は首にかけていたネクタイを手早く結んだ。

「そろそろ行くよ。何かあったらいつでも連絡して」

「はい。──あ」

 ドアに向かう篠原に真琴は声を掛けた。

「鍵、どうしたらいい?」

「ああ」

 ドアを開けて篠原は振り返った。

「そのまま持っていてくれていい」

「え…でも」

「いいんだ。スペアだから」

 じゃあ、と言って篠原はドアを閉めた。

「いってらっしゃい…」

 廊下を歩く足音がして玄関が開き、静かに閉まった。

 しん、とした家の中に耳を澄ます。飲んだ薬が効いてきたのか、頭痛は引き潮のように穏やかに遠のいていき、真琴はまた緩やかな眠りの中に落ちていった。


 

「…──」

 目が覚めると11時を回っていた。

 頭痛はすっかり治まっている。

 枕元に置いておいた携帯を見ると、眠りに落ちる前に送った高橋へのメッセージに返事が来ていた。

『13時出社、了解。ペナルティで来るときにおやつ買って来い。羊羹、どら焼き、栗饅頭』

「おやつって…」

 事務所の下は菓子店なのに、と真琴は苦笑したが、高橋はそう言えば和菓子派だったと思い直した。既読のついたそれに了解と送って、真琴は起き上がった。

 薬のおかげか体は朝よりもずいぶん楽になっていた。真琴はそのままベッドを下り、サイドテーブルに置いたままのグラスを持って部屋を出た。部屋は廊下の1番奥にあり、向かいにもドアがひとつある。右手に行けばリビングに続いていた。その先にもいくつかドアがあり、それぞれが洗面所と風呂場、トイレなのだろう。マンションとはいえ広い家だ。

 そろそろと廊下を進み、とりあえずリビングに入って真琴はキッチンの流しでグラスを洗った。水切り籠が見当たらないので、目についたキッチンペーパーを切り取ってその上に伏せて置いた。

 服はきっと乾燥機の中だ。

 大きすぎるパジャマに足を取られそうになりながら洗面所に行こうとして、冷蔵庫に貼り紙がしてあるのに気づく。

 几帳面な字で具合が良ければ食べてと書かれていた。冷蔵庫を開けるとラップされた簡単な朝食が小さなトレーに乗ったまま置かれている。

 取り出すと、それは卵を落とした雑炊で、レンジで温めるようにと書いた紙がトレーとの間に挟んであった。

 わざわざ作ってくれたのか。

「…ありがとう」

 嬉しさが込み上げてきて、真琴は呟いた。

 急に空腹を感じて苦笑する。

 すごく美味しそうだ。

 レンジのそばに小ぶりの丼を置いて、先に顔を洗って着替えようと真琴は洗面所に向かう。リビングを横切ろうとして、ふと床に落ちていたものに目が止まった。

「……?」

 ソファのそば、足元にいくつかの封筒と書類が散らばっている。

 ああ、と真琴は思った。

 ソファの端に先日も見た引き出しが置かれていた。引き出しには相変わらず書類が積み上げられていて、そこから溢れたものが落ちてしまったのだろう。見ればソファの上には畳まれた毛布が置かれていた。

 昨夜篠原は真琴にベッドを譲り、ここで眠っていたのだ。

 悪いことをしてしまった。篠原にはソファはきっと窮屈だったに違いない。

 ちゃんとお礼しないと。

 真琴は屈んで落ちていたものを拾い上げていった。

「──」

 ぴくっと真琴の手が止まった。

 捲れた書類を持ち上げて目を瞠る。

 イワヤタケル──

 岩谷尊だ。

 どうしてここに、その名前が──

「なんで…、なんで篠原さんが…」

 書類を持つ手がぶるぶると震え出す。持っていられなくなり床に押しつけて膝をつき、覆い被さるようにして真琴はそれを読んだ。駄目だ。

 読んでは駄目だ。

 駄目だ。

 駄目だと思うのにもう止まらない。

「なんで──」

 書かれていた文字を震える手で追いかけていた真琴の足元が、その箇所を読み取った瞬間、ぐらりと大きく揺れた気がした。


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