10

 高校に入って半年ほどして、真琴の元にある出版社から連絡が来た。そこは中学の時から写真を送っていた写真専門雑誌を出している出版社で、小さいが誌面で何度か評価を付けてもらったこともあるところだった。

 一度お話を、と言われて戸惑った真琴は、高橋に相談をして連絡をしてきた編集者との話の場に同席してもらうことにした。

「…なんだろ、話って」

「ちゃんと聞かなかったのかよ? 電話だったんだろ?」

「だって…なんか聞くの怖いし」

「聞かないほうが怖いだろうが」

 待ち合わせのカフェで並んで座り、真琴のぼやきに高橋が苦笑したとき、店のドアが開いた。

 40代ぐらいの眼鏡をかけた男性が、真琴たちを見つけ近づいて来た。

「すみません、水戸岡真琴さんですか?」

「は、はい」

 上擦った声で返事をすると、男性は目尻にしわを浮かべて、にこりと人好きのする笑顔を見せた。

「どうも、遅くなりました。波曳野はびきの出版の乙川おとかわです。…ええと…?」

 乙川の目が真琴の隣に座る高橋に向いた。

「あ、この人は部活の、俺の入ってる写映部のOBの高橋さんです。すいません、俺こういうのひとりで来るの怖くて、家は誰も…だから先輩に付いて来てもらったんです」

「ああ、そうでしたか」

 高橋が立ち上がって頭を下げた。

「高橋です、俺は一応成人なので、今日はこいつの保護者のつもりですので」

「乙川です。高橋さんは──OBなら、大学生?」

 はい、と高橋は言った。

「S大の二年です」

「そう、S大ですか。優秀ですね」

 紹介が終わり乙川が向かいの席に着いたところで店員がオーダーを取りに来た。それぞれが注文を終え店員が離れていくと、乙川はおもむろに話を切り出した。

「月刊誌の巻末ページ、ですか…?」

 やって来たアイスコーヒーをひと口飲んで、はい、と乙川は頷いた。

「今うちの別部署で出している、…この雑誌なんですが、サブカルチャーを主に取り上げるもので…水戸岡さんはご存知ですか」

「いや…俺そういうのあんまり見ないから」

 テーブルの上に出されたその雑誌を見ても名前を聞いてもまるでピンとこず、真琴はかぶりを振った。サブカルチャーという言葉にも馴染みはない。

 だが、隣の高橋は、ああと頷いていた。

「先輩知ってる?」

「ああ、俺は時々買ってる。なんかごちゃっとしてて面白いよ」

 ふーん、とテーブルの上の雑誌をぱらぱらと捲って、真琴は乙川に視線を戻した。

「えーと、それで…?」

「はい、今巻末ページに1000字程度のエッセイを載せているんですが、そのエッセイに添える写真を水戸岡さんにお願いしたいと思っていまして」

「え? ──俺っ?」

 驚いて声を上げた真琴に、乙川は笑った。

「はい」

「なんで、俺ですか?」

 ただの写真好きの高校生だ。なんの付加価値があるわけでもない。

「いつも水戸岡くんがうちに送ってくれる写真、すごくいいと編集内でも評判なんですよ」

「そ…そうなんですか」

「特にあの褪せた青みがいいと、このエッセイを書いている作家の安東さんも、そう言っていて。イメージにぴったりだと」

「よかったな、真琴」

 嬉しさにぼうっとしていると、顔を覗き込んだ高橋が笑った。

「あ…っ、うん」

 嬉しい。

 夢のようだと思った。

 自分の知らないところで自分の存在を誰かに認められているということがこんなにも嬉しいことだなんて、思いもしなかった。

「うれしい──嬉しい、です…! そんなふうに言ってもらえて、俺」

 ひと息に言うと、乙川は頷いた。

「返事は今すぐじゃなくてもいいので。まあ出来たら早いほうがいいけど、でも、焦らずに出してくれて構わないから。前向きに考えてもらってもいいかな」

「はい」

「ありがとう」

 乙川はほっとしたように微笑んだ。それからもしも真琴が承諾した場合の細かな契約の話を、高橋を親代わりにして3人で話していった。

 カフェを出たころにはもう日は暮れて、あたりはすっかり暗くなっていた。店の前で別れた乙川が通りを歩いて行く後ろ姿を眺めながら、真琴は息を吐いた。

「こんなことってあるんだね」

「そうだな」

 乙川が歩いて行った道とは逆方向に、真琴と高橋は歩きはじめる。

 もう秋の匂いのする少し冷たい風が真琴の、まだ染めていない焦げ茶の髪を揺らした。

「やってみたらいいじゃん」

「でも俺、顔とか名前とか、あんまり出したくないよ」

 出来れば親には知られたくはない。

 でもそんなことが出来るだろうか。

 大人ではない自分に、大人の庇護を求めなくても?

 嬉しさの影にある不安を口にすると、高橋はぽん、と真琴の頭を撫でた。

「俺がついてる。だろ? 今度ちゃんと乙川さんにそう言えばいいよ」

「うん…」

 歩いている自分のつま先を見つめて、真琴は言った。

「やっても…いいかな」

「いいと思うよ。俺もおまえの写真、もっとみんなに見てもらいたい」

「うん」

 藍色の空、背の高い高橋を真琴は見上げた。

「今日は来てくれてありがとう」

 いいよ、と高橋が笑った。

「明日あいつにも教えてやれよ」

「うん、そうだね」

 つられて真琴も笑う。

 そうだ、ちゃんと今日のことを話さないと。

 んん、と高橋が空に両腕をつき上げて伸びをした。

「あー腹減ったなー、ラーメンでも食って帰る?」

「うん!」

 高橋の言葉に、真琴は勢いよく頷いた。


***


 午前会議がようやく終わり、他の役職の者たちと一緒に篠原は席を立った。今では資料代わりに持ち歩くタブレットを手に課に戻ろうとエレベーターホールに行くと、上階に行く待ち人の中に部下の姿があった。

 篠原はぽんとその肩を叩いた。

「お疲れさま」

「あ、お疲れさまです。会議終わりました?」

 振り向いた大野が言った。

「ようやくね。そっちはどうですか?」

「どうもこうも…月曜から嫌になりますよ」

 到着したエレベーターに乗り込み、そこでふたりは口を噤んだ。他部署の人間がいる中で話すのはたとえ他愛のない会話であっても出来るだけ避けたい。階に到着し、エレベーターを揃って降りたところで部下の大野が大きくため息をついた。

「こないだの支店との打ち合わせで決まったやつ、そっくりそのまま引っくり返されそうです」

「ああ…そうきたか」

 大野は小さく肩を竦めてみせた。

「いったん譲歩したんだから今度はこっちが──ってことらしいですよ。理屈っていうのか、屁理屈っていうのか…」

「すみません、損な役回りを」

「何言ってるんですか、課長のせいじゃないですから」

 あのクソじじいがね、と小さくぼやいた大野に篠原はかすかに微笑んで同意した。

「ほんと、広告全面差し替えですよ? ありえねえし、何考えてんだか、クソが」

「大野くん」

 苦笑しつつも窘めた篠原に、大野はにこりと笑った。

「大丈夫、なんとか踏ん張ってみせます。任しといて下さい」

「頼りにしてるよ。──あ、そうだ」

 大野のデスクの横まで来て、篠原は思い出して言った。

「大野くん、イワヤタケルって知ってますか? フォトグラファーの」

「え課長、それ──」

 大野が目を見開いて篠原を見上げ、机に置いた鞄から書類の束を掴みだした。

「それってこれですよ、イワヤタケル」

 ぱらぱらと付箋を貼った箇所まで捲ると、大野は鞄を下ろしてスペースを開け、デスクの上に書類を広げた。

「あ、イワヤタケルじゃないですかー」

 後ろを通りかかった女性社員が篠原の横からひょいと覗き込んで声を上げた。

「知ってるんですか?」

「やだ知ってますよ、今売れっ子の写真家ですよ? 最近はCMも何本も流れてますし」

「本人はフォトグラファーって名乗ってるけどね」

 そう言った大野の口調が少し嫌味に聞こえて、篠原は目を向けた。

「大野くんは嫌いなんですか?」

「嫌いっていうか、なんか気取っててやですね、俺」

 カラーコピーされた資料の中に並んだ幾人かの名前の中に、イワヤタケルの名前があった。それは今支社のほうと折り合いがつかずに難航している新商品の広告をめぐる案件だ。先方から提示された依頼先候補の中にイワヤタケルが入っている。5名の候補のうち、順番は一番上、つまり最有力候補として推されているということだ。

「顔出し禁止なんでしょ、確か」

「そうそう、顔写真もプロフィールも非公開、歳も性別も分からない」

 男性を思わせる名前でも、それがペンネームである以上女性ということも充分考えられるが、篠原はイワヤタケルが男であることを知っていた。

 元妻の調査報告書の中にいた彼は紛れもなく男だ。

 だが、それをこの場で言うことはない。

「そうか、ありがとう」

「でも──急にどうしたんですか?」

「ああ、ちょっとね」

 首を傾げる大野に、篠原は何でもないふうに言った。それより、と話題を切り替える。

「そろそろ昼に行きましょうか。石嶺いしみねさんもよかったら一緒に?」

「わ! 行きますっ」

 篠原の提案に資料を覗き込んでいた女性社員の石嶺が目を輝かせて言うと、大野が現金なやつ、と笑った。


***


「まーこーと」

 呼んでいる声に真琴は顔を上げた。

「…なに?」

「何じゃない、仕事しろ」

 机の上に積まれた書類越しに高橋がこちらを見ていた。少し呆れているように見えるのは、気のせいじゃないはずだ。

「いちいち落ち込むくらいなら経費で買えばいいだけの話だろうが」

「それは嫌だってば」

 ため息まじりに真琴は立ち上がった。コーヒーでも飲もうと給湯室に行く。

「俺もコーヒー」

「はあい」

 返事をした真琴の背中に高橋の視線が痛い。小さなコンロに水を入れ薬缶をかけた。

 昨日呼び出されたカメラ屋に行くと、案の定修理は出来ないと言われた。中の光を反射するレフレックスミラーが破損していてどうにもならないということだった。

『あと、センサーもイカれてる。買い直したほうがいいよ』

『はあ…』

 期待はしていなかったけれど、壊れたカメラと押し付けられた紙袋いっぱいのカメラのパンフレットは引きずるように重く感じた。

 帰り間際にぽつぽつと降り出した雨も真琴の気分を落ち込ませていった。

 駅からの帰り道、歩道橋の上から夕闇に変わっていく街の景色を眺める。

 ポケットから取り出した携帯で、景色を撮った。

「──」

 なんの代わり映えもしない。

 あんなものを見てしまったせいで、世界は色を失くしたように灰色だった。外灯の明かりが雨で滲んだ視界に乱反射する。

 帰宅をし、適当に食べて眠った。

 そしてあのころの夢を見てしまい、今朝の真琴の寝起きは最悪だった。

「はいどーぞ」

「ん」

 高橋のデスクの上にコーヒーの入ったマグカップを置き、真琴は自分のデスクに座った。山と積まれた清書待ちの文書を手に取り、パソコンに向かう。今日は増村は休みだ。子供が熱を出したと今朝連絡があった。

 考えている暇はない。とにかく仕事、仕事しないと。

 増村の分まで、今日中に終わらせなければ。

 ぱちんと頬を叩いて真琴はキーボードを叩きはじめる。

「あっち!」

 コーヒーを啜った猫舌の高橋が、小さく声を上げた。



 帰るころにはまた雨が降り出していた。

 なんとか増村の分まで仕上げてパソコンの電源を落とし、時計を見ればもう20時だった。

「うわ、もうこんな時間」

 午前中だらだらとしすぎたのがいけなかったよなあ、と反省しながら、戸締りと火の元を確認していく。高橋はまた依頼人に会いに行っていて、真琴は今日からしばらくは20時までの残業ならいいと許されていた。

 カメラを買い替えるために深夜バイトでもしようかな、とぼやいたらこっぴどく叱られてしまい、そういうことになったのだ。

「でもなあ…」

 一時間ってどうなんだろう。

 これではカメラ代が貯まるのは一体いつになるのか。高橋が言ったように経費としてしまえば楽だろうが、あれは自分の責任なのだし、なんだか嫌だった。

『頑固者』

 高橋は呆れまじりにそう言った。分かってはいるが、納得できないものを受け取るわけにはいかなかった。

 要するに自分の問題なのだ。

 気持ちひとつ。

 窓ガラスに打ちつけた雨粒が筋になって落ちていく。傘がないと無理そうだと、事務所の入り口で埃を被っている置き傘を手に取って、明かりを落として真琴は鍵を掛けた。

 階段を下りていく。

 思ったよりも雨はひどく降っていて、ため息まじりに真琴は傘を広げた。

 雨の中に踏み出す。

「水戸岡くん」

「え…?」

 雨の音に混じって聞こえた声に真琴は顔を上げた。

「よかった、まだいて」

 篠原が一階の菓子店の前に立っていた。

 20時を過ぎているので、店の明かりはもう消えている。

「篠原さん…どうしたの?」

「昨日駄目だったから、今日はどうかと思って」

「え…、あっ、ごめん──」

 連絡をくれていたのかと慌てて真琴は携帯を取り出してみたが、篠原からはなんの連絡も来ていなかった。

「大丈夫、連絡はしてないんだ。予定があったらまた今度でもいいけど」

「そんな、予定なんかないよ」

「そう」

 篠原の顔を見て声を聞いただけで、話をしただけで、沈んでいた気持ちがふわりと浮き上がっていく。

 じっと見上げていると、篠原がふと眉を顰めた。

「…どうした? 何かあった?」

 真琴はかぶりを振った。

「な、なんにもないよ、大丈夫」

「そう?」

 うん、と真琴は頷いた。

「夕飯まだだろう? 何か食べに行かないか」

「うん」

 優しく微笑まれただけで足元がふわふわとする。

 込み上げる嬉しさを押し殺して、真琴は篠原について歩き出した。気取られては駄目だ。俺が、この人を好きなことを。

 知られたらもう口を聞いてもらえない。

 こんなふうに隣に並んで歩いて、笑いかけてはもらえない。

 男が男を好きだなんて。

 アスファルトに出来た水溜りに繁華街のネオンがきらきらと映り込む。

 大型電気店のディスプレイの中でいくつもの最新型のテレビがニュースを流していた。

「今日は写真は撮らなくてもいいの?」

 歩道橋のそばまで来たとき、篠原が上を仰いで言った。

「うん──」

 真琴は苦笑した。

「携帯のカメラじゃ、今日は上手く撮れないかな」

「携帯?」

「カメラ、一眼持ってたんだけど、壊れちゃって」

 信号が点滅を始め、急ぐことのない真琴と篠原は立ち止まった。

「そうか」

「うん、修理出してたんだけどやっぱり駄目で。しばらく携帯で撮ってたけど、今日みたいな天気は無理かな」

 それに、今日ぐらいはもういい気がした。

 今朝見た夢が、あまりにも真琴の思い出そのものだったから。

 あれは夢じゃない。思い出だ。

 確かに信じていたころの記憶。

 今日は、見つからなくてもいい。

 今は。

 篠原といる、今だけは。

 あいつに見つけられなくてもいいと思えた。




「…水戸岡くん?」

 何かをじっと見ている真琴の視線を篠原はたどった。

 交差点の向こうにあるビルのショーウィンドウに貼られた大型のポスター。

 美しいモデルが挑戦的にこちらを見ているモノクロの横顔。先日までなかったものだ。

「あの写真、好きなの?」

 はっとしたように真琴が篠原を見上げた。

「まさか──」

 傘を外れた雨が真琴の頬に落ち、滑っていく。

「そんなわけないよ」

「──」

 くしゃっと歪んだ笑いに篠原は息を呑んだ。

 一瞬、泣くのかと思った。

 どうしてそんな顔をするのだろう。

 交差点を渡り終え、ポスターの前を通る。

「こういうの、嫌いなんだ」

 と真琴が言った。

 真琴らしくない言い方に違和感を覚える。

 篠原は先を行く真琴に気づかれぬように振り返った。

「……」

 ポスターの中程に目立たないようにクレジットされた撮影者の名前は、イワヤタケルだった。

 

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