9
そこまで話し終えてから、真琴は手にカップを持ったままだったのに気づいた。
くるりと手の中で回す。
ほんの少しだけ残っていた紅茶は、もうすっかり冷たくなっている。
かたん、と小さな音を立てて、テーブルの上にそれを置いた。
「所長とは高校の先輩と後輩で、4つ違うから同じ時期にいたことはないけど、すごくよくしてもらったんだ」
「そう」
「あの人卒業してるくせにしょっちゅう部に出入りしてて。面倒見がいいから、今も、ずっと助けてもらってて。だから、俺が…駄目になったときも」
「駄目?」
「うん」
怪訝な篠原の声に真琴は顔を上げ、はっとなった。
篠原の向こう、窓の側に置いたデジタル時計の表示は、もう日付けをとうに越えてしまっている。
「うわ、ごめんっ、もうこんな時間──」
話すことに夢中になって気がつかなかった。
慌てて腰を浮かせた真琴の腕を篠原が掴んだ。
「大丈夫だよ、明日も休みだから」
「でも…」
言い淀むと、ああ、と篠原は呟いた。
「水戸岡くんは仕事?」
「いや、俺も日曜は休みだから…」
緩く首を振ると、篠原はかすかに微笑んだ。
「そう。じゃあ問題ないね」
「でも、…篠原さん、俺の話なんか退屈じゃない?」
ここまで話しておきながら今さらのようにそう思って、真琴は訊いた。夢中になると周りが見えなくなるのは、昔からの悪い癖だ。
「それならそう言ってるよ」
「…そう?」
それは嘘のような気がした。篠原はどんなに自分が興味のない話でも、黙って聞いているように思う。
勝手な想像かもしれないが。
「篠原さんって、いい人だね」
篠原は一瞬驚いたような顔をして、ふっと目元を緩めた。
「…僕は、水戸岡くんのことが知りたいだけだよ」
腕はまだ掴まれたまま、薄い服の上から、じわりと篠原の体温が伝わってくる。
熱い。
目を合わせたまま、真琴の項が震えた。
「なん…」
なんで、俺のことなんか。
「続き、聞かせてくれる?」
「えーと…っ」
慌てた真琴が逃げるように立ち上がると、篠原の手が離れた。
「っ、じゃあお茶、淹れる」
「ありがとう」
「あの、言っとくけど話まだ長いから…っ」
「ああ」
「ええと、コーヒーでいい?」
そそくさとコンロの前に行き、真琴が振り向いたとき、携帯が鳴り出した。
「──」
自分のじゃない、篠原の携帯だ。
ソファの背に掛けられた上着のポケットから篠原は携帯を取った。
こんな時間に、誰だろう。真琴がじっと見つめていると、画面に目を落とした篠原はかすかに目を細めた。
「ごめん、ちょっと」
「うん、隣の部屋使って」
真琴が続き部屋になっている寝室のドアを示すと、篠原は頷いてドアを開けた。
「もしもし? …」
ゆっくりと閉まるドア越しに、篠原の声が聞こえる。
真夜中の電話。
緊急だろうか。
かたかたとポットの中の水が沸きはじめたころ、篠原は寝室から出て来た。
「大丈夫?」
声を掛けると、篠原は申し訳なさそうな顔を真琴に向けた。
「すまない、戻らないと」
「あ、──」
そっか、と真琴は呟く。急なことに驚いたが、仕方がない。
「話の途中なのにごめん」
「そんな、いいよ──こっちこそ。あの、大丈夫?」
「ああ」
上着を羽織り玄関に向かう篠原の後を追った。
「なんかよくないこと?」
夜中の電話など大抵悪い知らせと決まっている。
靴を履きながら篠原は笑って真琴を振り返った。
「そうでもないよ。別れた妻からの呼び出しだから」
「は?」
さらりと聞こえた篠原の言葉に、真琴は絶句した。
「え──なんで、だって、夜中だよ?」
「そうだね」
「こんな遅いのに──」
電話一本で呼び出すなんて。
自分の声が思いのほか責めるような嫌な感じに聞こえて、真琴は慌てて口を噤んだ。
「っ、…ごめん」
「いいよ、その通りだから」
別れているとはいえ元夫婦のことだ。他人が口を出すべきじゃない。第一こんな時間まで篠原をここにいさせてしまったのは自分なのだ。
「あの、今日はありがとう、いろいろしてもらって」
「水戸岡くん」
真琴を見下ろして篠原は言った。
「明日予定がないなら、また会えるかな」
え、と真琴は目を見開いた。
明日?
「明日って…、なんで? 篠原さん、せっかくの休みだろ?」
きょとんと首を傾げると、篠原が苦笑した。
「休みだから、きみの話の続きが聞きたいんだ」
不意に篠原の手が真琴の唇の端に伸びた。冷たい親指でそっと触れ、頬に曲げた指の背を当てる。
ひやりと気持ちがいい。
「まだ熱いな」
「──」
篠原の手がひどく冷たく感じるのは頬がまだ腫れているからだと気づいた。
「もう少し冷やしたほうがいい」
頬に触れていた手が滑り、耳朶を掠めた。
「っ」
びくっ、と真琴の肩が跳ね上がると、篠原は手を下ろした。
「氷、当てておいて」
「う、ん…」
「おやすみ」
「お、やすみ、なさい」
目を合わせていられなくて、真琴は思わず俯いてしまった。
「連絡するよ」
ドアが開き、篠原が出て行く。
アパートの廊下を篠原が歩いて行く。その音が、激しくなる鼓動に重なった。
どくん。
どくん。
篠原の触れた場所が熱い。
頬も、耳も、首筋も、淡い赤に染まっていた。
どうして。
あの人にはこんなになるんだろう。
他の誰になにをされてもこんなふうにはならない。
高橋とは違う。
他の誰とも。
腹の下がじわ、と熱を持つ。
覚えのあるそれに、真琴は狼狽えた。
うそだ。俺。
嘘。
「──」
嘘だ。
どく、どく、と鼓動が収まらない。
胸を抱えて真琴は蹲る。
だが、どうしようもない熱に煽られて、風呂場へと駆け込んだ。
***
明け方近く、篠原は玄関の鍵を開け、静かに中に入った。
リビングに続く廊下の奥から明かりが漏れている。
真琴を送ったらすぐに戻るつもりだったので、リビングの明かりは点いたままだった。廊下を歩きながら脱いだ上着と郵便受けから抜いてきた郵便物をソファに放り投げる。郵便物はソファの座面を滑り床に落ちた。拾い上げるのは面倒だった。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して蓋を捻り、そのまま口をつけた。半分ほど一気に飲み干して、知らずに漏れたため息に、らしくないなと思った。
自分の家なのに、いつもよりもずっと寒々しいと感じるのはなぜだろう。
視線が無意識にソファに向いた。ほんの数時間前まで、そこに真琴と一緒に座って食事をした。
ソファがあれば充分だと言った真琴の言葉を思い出して、胸の奥がふわりと軽くなった。
今日も彼に会える。
少し早急だったと自分でも驚いた誘いに、真琴が頷いてくれたのが嬉しかった。
薄い膜のような疲労が瞼の上に貼りついている。
ペットボトルを冷蔵庫に戻し、少し眠るかと篠原は思った。
疲れた顔を真琴に見せたくはない。
寝室に行きかけた足を、低く唸り出した携帯のバイブ音が引き留めた。
「……」
しんとした部屋の中に響く。
誰からなのか、見る必要もない。こんな時間に遠慮もなくかけてくる人間を篠原はひとりしか知らないからだ。
少しばかり放置してから篠原はシンクの横に置いた携帯に手を伸ばした。
通話を押すと同時に聞こえてきた声は篠原の心をひどく冷たくした。
「──きみには関係がない」
別れた妻はいまだに篠原を詰る。
悪いことをしたと思っている。
同性しか愛せないことを自覚したのは、母親の再婚相手──つまり義理の父親が押し付けてきた会社経営者の娘との結婚話を、断るのが面倒だからと承諾してしまった後だったからだ。
結婚生活は一年も持たずに破綻した。
美しくプライドの高い彼女が、自分の人生に拭いきれない汚点をつけたと篠原を恨む気持ちは分かる気がした。
別れてから三ヶ月程が経つ。彼女は篠原の休日を狙うようにして、昼夜を問わず償いを求めていた。今夜のように呼び出された挙句に何時間も待ちぼうけを食うことにももう慣れた。
許せないのは分かる。
けれど、篠原は気づいていた。
「好きにしたらいいだろう…今日はもう終わりだ」
詰る言葉は続いていたが、篠原は構わずに通話を切った。
携帯の電源を落とし、今度こそ寝室に向かう。
上着を手に取り、ついでだと、床に散らばった郵便物を拾い上げた。
その中に、ノートサイズの封筒を見つけた。差出人を見て篠原は素早く封を切った。
取り出した書面に目を通す。
それは高橋調査事務所とは別の調査会社に依頼した、元妻の調査報告書だった。
彼女にはもう別の男がいる。
交際期間は一年二ヶ月とあった。
篠原は自分の勘が正しかったと思った。やはりそうか。
「フォトグラファー…?」
添付された数点の写真とともに相手のプロフィールの詳細が記載されたページを繰る。
男の名前と職業を目で読みながら、フォトグラファーとあるその名前に、篠原はどこか聞き覚えがある気がしていた。
***
「……」
ベッドの中、起き抜けの頭でぼんやりと携帯に届いたメッセージを眺め、なんだ、と真琴は思った。
窓の外がひどく明るい。もう昼に近い時間だ。
メッセージは篠原からで、今日は会うことが出来なくなったとあった。
そっか、今日会えないんだ。
そっか…
「……なんだ」
シーツに押し付けた左頬は痛みもなく、もうすっかり腫れが引いている。篠原の言うことを聞いてちゃんと保冷剤を当てて眠ったのがよかったようだ。
『大丈夫、また今度』
返事をし、携帯を置く。
残念だけど、会えなくなって、どこかほっとしていた。
今篠原に触れられたら、相手の都合など構わずに、自分を差し出してしまいそうだ。
きっと嫌われる。
好きかもしれないなんて。
「俺、そうだったんだ…」
思えば女の子と付き合っても大して続きもしなかった。
そっか、俺、あの人が好きなのか。
昨夜のことを思い出して、かあ、と全身が熱くなる。
駆け込んだ風呂場で、篠原を思いながら自分を宥めた。
正直どんな顔をして会えばいいのか分からない。
どうしよう。
まだ篠原の依頼は終わっていないのに。
ため息をついたとき、枕元の携帯が着信を伝えた。
真琴は顔を洗って着替えを済ませ、家を出た。
行き先はふたつ隣の駅前だ。
さっきの電話は、先日壊れてしまった一眼レフを修理に出していた行きつけのカメラ屋からで、引き取りに来て欲しいとのことだった。
『まあとりあえず来てみてよ、ちゃんと説明するから』
直りましたか、との真琴の問いに、カメラ屋の店主はそれだけ言った。
あの口調では直らなかったのだろう。
あれだけの破損だ、無理もない。
期待はしていなかったから、失望もあまりない。
きっと店主からは修理よりも買い替えのほうが得だと説得されるんだろう。カメラを新しく購入する費用はあまりない。修理に出してからしばらくはスマホのカメラでどうにか撮影出来ているから、少し我慢して貯金するしかなさそうだ。
定点観測はやめるわけにはいかない。
あの場所でやることが、今真琴に出来ることだ。
最寄り駅までぶらぶらと歩き電車に乗った。
休日の人の多さに酔いそうになる。
本当なら今日は篠原と一緒だったんだと考えてしまい、頬が赤くなりそうになって慌てた。
電車はすぐに着いた。
3つの路線が乗り入れる大きな駅の前には、高いビルがひしめき合うように建っている。円筒形のビルに貼りついたエキシビジョンは絶えず何かの映像を流していた。大半は企業の広告だ。見上げながら、複雑に交わる交差点が青になるのを待った。
青になり、押されるようにして歩き出した。
流れていた映像がぱっと切り替わる。ぎくっと真琴の足が止まった。
「──」
あいつだ。
それは、浅賀の家の庭先で投げつけられた雑誌に載っていた、見開きの広告写真だった。
大手企業のCM。
画面の端にクレジットされた撮影者の名前が真琴の心を抉る。
いつもいつも、名前ばかり。
両手を握りしめて真琴は唸るように呟いた。
「姿見せろよ…」
だから探していた。
ずっと、探して──ようやくここまで来たのに。
見つけ出したのに。
見つけられるようにしているのに。
「おい、なんだよ、こいつ」
「ちょっとジャマ──」
横断歩道の真ん中で立ち止まって映像を食い入るように見つめる真琴の肩を、知らない人たちが押しのけて行った。
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