8


 鍵が落ちていたと言うのは篠原の嘘だった。

 真琴が車を降りたあと、いったん車を出した篠原だったが、すぐに引き返してきたのだ。

 夜景を撮る真琴を見たいと思った。

 カメラを構える、その横顔を。

 だが戻って来た歩道橋の上に真琴はいなかった。

「…水戸岡くん?」

 階段を上がり切ったところに真琴の荷物は投げ出されていた。外側の開いたままのポケットから鍵や小さな小物が歩道橋の上に散らばっている。

 何があったのか。

 それを拾い上げたとき、対岸のほうから声が聞こえた。真琴の声だった。欄干から乗り出して見ると向こう岸の階段の下で真琴が誰かと揉みあっていた。篠原は走り出したが間に合わず、階段を下りきったところで殴られた真琴が舗道に仰向けに倒れた。

 男が篠原に気づいた。

 小さな舌打ち。

「ま──」

 待て、と篠原が言うよりも早く、男は走り去っていった。


***


「んっ」

 いたっ、と小さく真琴は声を漏らした。

 ハンカチに包れた保冷剤がそっと頬に当てられる。

「じっとして」

「…す、すみません」

「少し腫れてきたから、ちょっとこのまま冷やそう」

「はい…」

 ソファの上で真琴は俯いた。

 保冷剤に指を伸ばすと、真琴がしっかりと掴んだのを確認してから篠原の手が離れていった。

 どうしよう。

 どうしよう俺。

 なんか変なこと言った気がする。

 居た堪れなさにちらりと顔を上げると、小さなキッチンに立つ篠原の姿が見えた。

 あのあと、篠原は真琴を車に乗せアパートまで連れて来てくれたのだ。

 泣いてしまった目は重く、まだ熱っぽかった。冷蔵庫を開けている後ろ姿をぼんやりと見つめる。篠原が自分の部屋の中にいるのが不思議だ。

 コンロの前に立ってるなんて。

 湯を注ぐ音が静かな部屋に流れる。

 やがて温かな湯気を立てるマグカップをふたつ持って、篠原は戻って来た。

「少し染みるかな。ぬるくしてるけど、気をつけて」

「ありがとう」

 真琴の手にひとつ渡して、篠原は真琴の横に座った。その重みでほんの少し座面が沈む。

 ゆっくりと紅茶の表面を吹いて冷ましてから、真琴はひと口飲んだ。

「大丈夫?」

「うん、平気」

 頬の内側が小さく切れていてわずかに染みたが、温かな紅茶が体の中に落ちていく感覚にほっと真琴は息を吐いた。両手に抱えたマグから昇る湯気が、腫れぼったい瞼に気持ちいい。

 半分ほど飲み干して、ようやく肩から力が抜けた気がした。

「ごめんね。なんか俺…面倒掛けて」

「大丈夫だよ」

 でも、絶対変に思ってる。

 いい歳をしてあんなふうに誰かの目の前で泣くなんて、すごく──すごくみっともない。

 ちゃんと話したほうがいいよな。

 この人は、きっと大丈夫だ。

 大丈夫。

 この人なら。

「あのさ、さっきのことなんだけど」

 膝の上に下したマグを真琴は手の中でくるりと回した。

 顔を上げ、横にいる篠原を見る。篠原も真琴を見た。

「俺、──」

 俺。

 あの。

 話そうと思うのに言葉の先が思うように続かない。

「俺、おれ、…あの」

「水戸岡くん」

 篠原が真琴の顔を覗き込んだ。

「無理に僕に話さなくてもいい」

「違う」

 違う。話したい。

 話したいのに。

 上手く出来ない。

 もどかしい。

「俺…っ」

 俯いてしまった真琴の頭を、篠原が撫でた。

 かたちを確かめるように、ゆっくりと撫でていく。上から下へ、また同じように。大きな手のひらで触られると気持ちがよかった。上手く出来ないと焦る心が落ち着いていく。篠原が傍にいるだけで楽になる気がした。

 気持ちいい。

 その手が、誰かに似ていると思う。

「写真が好き?」

 え、と顔を上げると、篠原と目が合った。篠原はかすかな笑みを浮かべて、真琴の肩の向こうを視線で示した。

「あの写真は、きみが撮ったもの?」

 篠原の視線を追って、真琴は後ろを振り返った。

「あ…」

 壁にかかる小さなフレーム入りの写真。

 青く色褪せた波打ち際を、低い視点から切り取っている。

 それは確かに真琴が撮影したものだった。

 こくりと真琴は頷いた。

「すごく綺麗だ」

 篠原は立ち上がって、写真の前に立った。ちょうど目の高さにあるそれをじっと見つめる。真琴はそんな篠原の背中を見ていた。

「高校のときに撮ったんです」

 篠原の背に話しかける。

「たくさん、たくさん撮ったけど、手元にはもうそれ一枚しかなくて…」

 手に包んだままのマグはまだ温かい。手のひらに押し付けたカップの中身を見ると、逆さまに映る自分の顔があった。

「俺も、探してるんだ」

 篠原は振り向いて真琴を見た。

「篠原さんと同じで、俺もずっと探してる」

 傍に膝をつく気配がした。

「…何を?」

「人を」

 ぽつりと真琴は言った。

「…俺の全部を持ってったあいつを」

 手のひらから零れていったのは、真琴のすべてだった。

 そんなつもりはなかった。

 これっぽっちだって、疑ったりなんかしなかった。

 信じていた。

 ただ信じていたのだ。

 横を見ると、篠原の目線が同じ高さにあった。

 一見無表情に見えるその顔の中に、真琴を心配する篠原を感じ取る。

 なんだか恥ずかしくなって真琴は笑った。

「俺ね、写真家だったんだよ」

 でも篠原は、何も言わずにじっと真琴を見つめ、言葉の先を待っていてくれていた。

「ほんとにね、ほんと…一応本も出したことあって、名前の上に写真家って見出しみたいについててさ」

 でも、と真琴は続けた。

「でも…それは、俺だけがそう思ってたことに、いつの間にかなってたんだ」


***


 雪のちらつく日だった。

 どこをどうやって歩いていたのか分からない。

 気がつくと、全然知らない場所に立っていた。

 どこだっけ、ここ。

 なんでこんなところに来たんだっけ。

 ぼんやりとしたまま空を見上げた。

 重く垂れこめた灰色の雲が、まるで自分の心の中と同じように見えて、手にしていたカメラでシャッターを切った。

 夢中で何枚も何枚も、それは古いフィルムカメラだったから、途中でフィルムがなくなっていたのにも構わずに、真琴はシャッターボタンを押し続けた。

 忘れない。

 忘れたくない。

 この気持ちを。

 絶対に忘れない。

 つめたく冷え切った指先が下りなくなったボタンを押し続ける。

 息の白さに、どれだけ寒い日だったかが分かる。

 誰かに声を掛けられた。

 何を撮っているのと聞かれたが、上手く答えられなかった。

 多分、心を。

 心を。

 哀しい心を撮っている。

 雪が、いつの間にか降り積もって、真琴の肩や髪を白くしていた。

 それを誰かが優しく払ってくれた。

「…大丈夫か?」

 優しさに息が詰まる。

 自分の愚かさに泣きたくなった。

 うん、と頷いた。

 気遣われた指先はちらつく雪の中に埋もれて、やがて白く溶けていった。


***


 物心ついたときから真琴はひとりだった。

 共に会社経営をしていた両親は育児には関心がなく、幸か不幸か裕福だったために、真琴は両親の雇った家政婦に育てられた。

 ひとりを寂しいと思うこともなく、それが当たり前なのだと受け止めて成長をした。

 十歳の誕生日に、父親が何の気まぐれか、直接プレゼントをくれた。今までは真琴の誕生日には両親は海外にいることが多く、ほとんどが郵送だったのに。渡された箱を開けてみると、黒くて四角い金属製の、それは古いフィルムカメラだった。

 一目見て、真琴は強く惹かれた。

 なんだろうこれ。すごく、不思議だ。

 どうやって使うのか、使い方を教えてくれる事もなく、父親はまた仕事だと言って真琴の前からいなくなった。

 家政婦に聞いても分からないと言われたので、図書館に行っていろいろと調べ、どうにか使えるようになった。

 最初に撮ったのは家政婦の後ろ姿。

 祖母のような歳の彼女が、照れながら笑って逃げるのを追いかけて撮るのが楽しかった。

 窓から見えるもの、近所の犬、景色、雨の雫が緑の葉から滴り落ちる瞬間。

 目につくものを片っ端からカメラに収めていった。

 自分だけの世界。

 自分が見ているもの。

 何年かが過ぎ、真琴が中学生になって間もなくして、長く勤めていてくれた家政婦が高齢のため辞めることになった。後任にどんな人がいいかと母親に聞かれて、真琴はもうひとりで充分やっていけるから要らないと断った。

 別れの日、真琴は彼女と一緒に近くの海に出掛け、写真を撮った。

 ふっくらとした皺だらけの手を握り、明日からこの人はもう自分の傍にいないのだと思うと、はじめて寂しいと思った。



 高校受験を控えたころ、両親は真琴に有名私立校を受けるようにと言ってきた。たまに帰って来ると度々同じことを繰り返し言われ、真琴は辟易した。今まで子供を顧みなかった彼らが、なぜ今頃になって自分のことに口を出してくるのか理解に苦しんだ。

 反抗することも考えたが、最初から突っぱねることよりもいったん受け入れることを真琴は選んだ。どうせふたりとも滅多に帰っては来ないのだ。嵐のようなものだ。一時の我慢で済むのなら、無駄な感情を動かされないほうがいいに決まっている。

 朝起きて学校に行き、まっすぐに帰って来る。親が勝手に行くと決めた進学塾には一日だけ行ってやめ、有り余る時間の大半を真琴は写真を撮ることに充てた。いくつかの雑誌の懸賞に応募し、評価をもらうこともあった。ほんの少しでも認められた気がして、真琴は夢中で送り続けた。

 両親はそれを知っていたようだが、特に何も言わなかった。誰にも何も言われない。塾をやめようが、好きなことばかりをしようが。

 たとえこのままいなくなっても。

 際限のない自由は際限がないほどに、真琴に自分には自分しかいないのだと感じさせた。

 受験当日、真琴は有名私立校とは反対の路線の電車に乗り、別の高校に行った。そこは自分が行きたいと望んだ高校だった。

 受験票を握りしめて門をくぐる。

 そして真琴はその高校を受け、合格した。

 両親は何も言わなかった。

 電話で報告をすると、分かったとだけ言って切れた。おめでとうも何もない。息子の反抗さえどうでもいいと言うような口ぶりだった。

 祝いの言葉を言って欲しかったわけじゃない。そうだ、と真琴は自分に言い聞かせた。はじめから言われるとも思っていなかったので、失望することもなかった、それだけのことだ。



 春、葉桜の美しい季節だった。

 真琴はある教室の前に立っていた。

 ノックしようと手を上げたとき、中から勢いよく扉が開いた。

「わ」

「──っと」

 出て来た人とぶつかりそうになる。首を竦めた真琴に上級生らしいその人は悪い、とにこりと笑った。

「ここになんか用?」

 あの、と真琴は言った。

「入部、したいんですけど」

「あ、そうなの?」

 そう言ってその人は扉を塞いでいた体をどけて真琴を中に入れてくれた。

「おーい一年生来てるぞー」

 奥に向かって大きく声を掛けると、どこからか、はーい、と返事が返って来た。

「んーと、名前なんて言うの?」

「あ、水戸岡です。水戸岡真琴…」

「へーかわいい名前」

 入部届を受け取って、彼は笑った。

 優しそうな人だ。ちょっと顔は怖いけど。

「先輩は──」

「あー、俺は在校生じゃなくてOBだよ」

「OB?」

 そう、と彼は頷いた。

 たしかに、言われてよく見れば、彼は制服を着ていなかった。

「高橋っていうんだ、よろしくな」

 にこっと笑う──それが高橋との出会いだった。


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