7
篠原の家は閑静な住宅街にある、大きなマンションだった。
なんとなく、たくさんの本がある家なんだと真琴は勝手に思っていた。
「どうぞ」
「お、お邪魔します」
けれど玄関を入り、廊下を歩いて通されたリビングは、見事なほど何もなかった。
そして何もないのに散らかっていた。
「うわ…」
「適当に座ってて」
驚く真琴をよそに篠原は平然としている。
「ああ、その辺のもの、勝手にどけていいから」
「はあ」
あまりにも篠原のイメージと違っていて、真琴はリビングの真ん中に突っ立ったまま、ぐるりとあたりを見回した。何もない。だだっ広い部屋、家具らしい家具と言えば大きなL字型の灰色のソファと、テレビ台とテレビ──それだけだ。ダイニングテーブルもローテーブルもない。フローリングの上に敷かれたラグの上には篠原が脱いだ服がそのまま放置されていて、ソファの隅のほうには山となった書類の束が木箱のようなものに押し込まれて置かれていた。なんだろう、と近づいてみると、それは何かの──どこかの紛れもない引き出しだった。
机、とか?
机の引き出しごとリビングに持って来たのか。
「なんか、篠原さんって──」
思わず呟くと、聞こえたのか、なに、とキッチンから篠原の声がした。
真琴は振り向いた。
「思ってたのと違うね」
「よく言われるよ」
キッチンは今どき珍しい独立式でカウンターもなく、リビングとは壁で仕切られていた。腰から上の部分はぶ厚いガラスになっていて、そのガラス越しに目が合った。真琴はキッチンの入口に回り込み、中を覗きこんだ。
「なにか手伝いますか?」
「いいよ」
ケーキの箱を冷蔵庫に仕舞いながら篠原は言った。
「作るって言ったけど本当になんでもいい?」
「はい」
真琴は頷いた。人に手料理を振る舞われるなんて何年振りだろう。家族でさえも一緒に食事をした記憶は真琴にはあまりなかった。
「簡単なパスタぐらいなら出来そうだな」
冷蔵庫の中から野菜を取り出している篠原の傍に真琴は寄った。
「ほんとだ。あ、ほうれん草?」
「これとベーコンでいいかな」
「はい」
取り出した材料を手早く調理していく篠原の手つきは手慣れていて、へえ、と真琴は声を上げた。
「篠原さん上手いんだね」
「ひとりだし、作るのはもともと嫌いじゃない」
「そっか」
そういえばこの人は結婚していたんだと、真琴は思い出した。
「水戸岡くんは? ひとり暮らし?」
冷蔵庫に寄りかかって作業を見ている真琴を篠原は振り返った。
「うん。長いことひとりだよ」
「そう」
頷いて手元に視線を戻した篠原に、身構えていた真琴は拍子抜けした。大抵は、続けて家族のことを訊かれるものだけれど、篠原は違っていた。
訊かないんだ。
この人、訊かないんだ。
「料理はする?」
「あー…たまに、かな」
体の力を抜いて、真琴は篠原の横に立った。
「ちょっと前に所長の実家の洋食屋を手伝ってたんだけど、そこで少し教えてもらって」
へえ、と篠原は真琴を見た。
「どれくらいそこに?」
「1、2年くらい。マスターが──あ、所長のお父さんだけど、体壊しちゃってお店出来なくなったから」
「そう、残念だね」
「うん」
話している間にも篠原の手は休まず、順調に料理は仕上がっていく。
「美味しそう」
温かな湯気を立てる鍋、フライパンの中のベーコンのいい匂いに、小さく真琴の腹が鳴った。
テーブルのないリビングでの食事は、ふたりしてソファに座り膝に皿を載せることで解決した。ふたりの間に置かれたトレイには缶ビールが2本、どちらもノンアルコールだった。
「本当に飲まない?」
「うん。篠原さんが飲むなら飲むけど」
「それだと送れないから」
篠原が苦笑する。帰りは送ると篠原が譲らないので、真琴も同じものでいいと言ったからだ。
「電車で帰るのに」
「僕がそうしたいからいいんだよ」
「じゃあまた次だね」
自然と口を突いて出た言葉に真琴自身が驚いた。心地よい空気に気持ちがほぐれているのが分かる。
高橋以外の誰かと、他人とこんなふうに食事をとるのは、久しぶりだ。
「んー、美味しい」
篠原の作ったパスタは美味しかった。
「テーブルがなくて悪いね」
「いいよそんなの」
さっき、皿をどこに置こうかと迷った真琴がどうしてテーブルがないのかと尋ねたら、篠原はあっさりと別れた妻が持って行ったと言った。
『…は?』
テーブルを?
テーブルを持ってったの?
ていうか、じゃあここに家具がないのって…
呆気に取られて篠原を振り返った真琴に、篠原は肩を竦めただけだった。
一体、どんな人だったんだろう。
腹いせに大事にしていた本を売り払ったり、家具を持って行ったり。
この部屋で、この家で、篠原と結婚をし、暮らしていたという人。気持ちが無くなったと篠原は言っていたけれど、それでも好きだから結婚したに違いない。
彼が愛したのなら、きっと綺麗な人だったんだろうな、と真琴は思った。
ちくりと腹の底が痛んだ気がした。
「ソファがあれば充分だよ」
そう言って篠原に笑いかけると、篠原もそうだね、と言ってかすかに笑った。
***
「─…くん?」
揺れた拍子にかくん、と首が落ちた。
心地よい振動。
重たい目を薄く開けると、橙色の外灯が暗い窓の外を同じ間隔で通り過ぎていた。
「あ…」
横を見ると、篠原の横顔があった。
そうか、と真琴は思い出した。
車の中だ。
振動がゆっくりと止まる。
篠原がそっと真琴の前髪を払い、顔を覗き込んだ。
「起こして悪い。家は──駅は今通り過ぎたけど」
真琴は倒れかけていた体を慌てて起こした。
「っ、ごめんなさい、俺──」
眠ってた。
篠原の言葉に、真琴は目を擦って窓の外を見る。見覚えがある景色だった。
お酒、飲まなかったのに。
「いいよ。疲れてるんだ」
髪を触っていた指が離れて行く。
真琴は目を瞬いて窓の外を見た。車はちょうど信号待ちをしているところだった。見覚えのある交差点の景色。
「えーと…、今これ大通り?」
「そう」
「あ…じゃあ、そこを入ったとこで止めてください」
篠原が眉を顰めた。
「…そこで? 家じゃなくて?」
「うん」
小さく落ちた沈黙に、真琴は説明が必要なのだと気づいた。
「あ、ごめん、家教えたくないとかそんなんじゃなくて…! あのね、俺いつもやってることがあって」
篠原を見る。
青信号に変わり車は静かに動き出した。
「毎日同じ場所の景色を撮ってるんだ」
交差点を左折しながら、ちらりと篠原は真琴を見た。
「撮るって…写真?」
「うん、そう」
だからね、と真琴は言った。
「そこの歩道橋がそうなんだよ」
歩道橋のすぐそばに篠原は車を停めた。
「今日はごちそうさまでした、ありがとう篠原さん」
言いながら、真琴はシートベルトを外そうとする。
「こちらこそ楽しかったよ」
「俺も。ケーキも美味しかったね」
「ああ、そうだね」
「ごはんとかいつもひとりだし…、あれ?」
ストッパーが中々外れずに苦戦していると、篠原の手が伸びてきて、真琴の手の上から簡単にそれを外してしまった。
「ごめ、あんま車乗らないから──」
顔を上げると、思うよりもずっと近くで篠原と目が合った。
どく、と心臓が鳴った。
息が止まる。
息が…
あと少しで──
「──」
すっと篠原が体を引いた。
「あ…」
「いつもひとりなの?」
離れた体を思わず追いかけそうになる。
なにこれ。
なんだよこれ。
寂しい。
寂しい?
もっと…
もっと。
どうにか声を絞り出して真琴は言った。
「うん、ひとり、だから」
そう、と篠原は頷いた。
「じゃあまた、一緒に食事しよう」
篠原の手が俯いた真琴の髪を撫でた。ゆっくりと指先が滑り落ち、左耳の輪郭を掠め離れていく。
「おやすみ」
真琴は真っ赤になった顔を見られないように、俯いたまま車を降りた。
歩道橋を駆け上がる。
後ろは振り返らなかった。
なんで、なんで俺、こんなどきどきすんの?
どうして。
「──は…っ」
階段を上がり切ったところで真琴は膝に手をつき、大きく息を吐き出した。
火照った頬を風が冷やす。
誰もいない歩道橋の上。
静かだ。
「はあ…」
もう一度息をついて真琴は顔を上げた。
何かが視界の端を動いた。
「──」
ぎく、と体が強張った。
誰かが向こう岸を下りていく。H型になった歩道橋の向こう側──暗がりに紛れる姿が、ほんの一瞬だけ走る車のライトに映し出された──
「待っ…!」
真琴は走り出した。
あいつだ。
あいつが──
──あいつが。
階段の一番下まで下りた後ろ姿が外灯でぼやけていた。
あのときと同じように背中を向けてこちらを見ようともしない。
「待てって言ってんだろ!」
駆け下りた真琴はその肩を掴んで強引に振り向かせた。
「おま──」
違う。
違う。
違った。
驚愕に振り向いたその顔は、まるで知らない顔だ。
「な、んだよ、あんたっ!」
どん、と胸を突かれて真琴はその手を離した。
「なんなんだよてめえ! いきなり掴みやがって!」
「す、すみません…! 人違い──」
「ああっ?」
男は頭を下げた真琴の胸倉を掴み上げて、ぐっと引き寄せた。
「聞こえねえよ、もっかい言ってくれる?」
間近で見る男は真琴と同じ年恰好だった。
違う。
あいつは真琴よりも年上だ。
ちゃんと見ればひと目で違うと分かったのに。
ただ後ろ姿が似ていただけ。
それだけだ。
どうして、どうして間違えてしまったんだろう。
喉元を締め上げられる苦しさに真琴は声を絞り出した。
「まちが、…っ」
男の腕が振り上がった。
殴られる。
衝撃を覚悟して目を固く閉じた瞬間、左頬が激しく痛んだ。
「──っ」
「ふざけんなよ」
舗道に背中から倒れた真琴をきつく睨みつけ、男ははっとしたように顔を上げると、踵を返して通りを走って行った。
「い、つぅ…っ」
口の中に広がる血の味。
手をついて起き上がろうとしたとき、ふいに誰かに背後から体を抱き起された。
「大丈夫か?」
その声に振り返ると、息を切らした篠原が肩越しに真琴を見ていた。
「なんで…?」
「鍵が──車に落ちてたから戻って来たんだ」
そうか。
助手席に乗ったとき、足下にバックパックを押し込んでいたから──慌てて降りて、それで…
「あ…俺、荷物」
手に何も持っていないことに真琴は今さら気づいた。
車を降りたときは確かに手に提げていたのに。
篠原は自分の脇に置いた真琴のバッグパックを見せた。
「上にあった。行こう──おいで」
「上…」
ああ、そうだ。
あの人を追いかけるのに邪魔で、投げ捨てたんだった。
どれだけ必死だったんだ。
どれだけ余裕がないんだよ。
結局は人違いだったんじゃないか。
俺、何してんの?
何してるんだよ。
「…痛むか?」
気がつくと、息がかかりそうなほど近くに篠原の顔があった。その表情は険しい。怖い顔だった。覗き込む目は優しいのに、なんで? と思ってしまう。
篠原の指が真琴の唇の端に触れる。ぴりっとした痛みが走った。
「切れてるな」
その指先に血がついていた。
「手当をし…」
篠原の言葉がふと途切れ、真琴に向けている顰めた目がかすかに見開いたのが分かった。
「おこ、んないで…」
言葉が零れ落ちた。
滲んだ視界の中で篠原の顔が歪む。
「怒んないで、俺、おれ…っ」
黒いコートの袖を握りしめると、真琴、と名前を呼ばれた気がした。よく聞こうと耳を澄ますが、自分の嗚咽で世界がいっぱいになる。
止めようとするほどに駄目だった。
どうして、どうして、とそればかりを思ってしまう。
どうして──
どうして、あいつを間違えてしまったんだ。
「怒ってない。…怒ってないから」
心配しているだけだ、と篠原が言った。
涙が零れ落ちていく。
しゃくり上げ始めた真琴の体を篠原は抱き締めた。真琴が落ち着くまで、冷たくなったその背中を篠原は長く、撫で続けていた。
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