6
長く、深く、重くぬるまった泥の中で眠っているような日々だった。
思い出すのはただ、何もない空っぽになってしまった手の中と、それを手放してしまうことになった自分の愚かさだけだ。
「あー、もう…」
目覚ましを止めて、真琴は唸った。
ずるずるとベッドから這い出して歩き、洗面所の蛇口をひねる。
夢見の悪さで朝から体が思うように動かない。
高橋があんなことを言うから、思い出してしまったのだ。
冷たい水を両手に掬って顔を洗う。何度か繰り返して、真琴は顔を上げた。鏡の中には、くしゃくしゃに寝癖のついた銀髪の、顔色の悪い自分がいる。
「…馬鹿か」
水滴のついた濡れた指先で鏡の中の顔を撫でると、ぽつりと真琴は呟いた。
「えーと、こちらが今日までに買い戻し出来たものになります」
それから1週間ほどして事務所を訪れた篠原の前に、真琴は今日までに買い戻せた篠原の蔵書を並べて置いた。全部で十点。その中には井上から買い取ったものも含まれている。高橋の知人が井上から受け取り、事務所宛に送って来てくれたのだ。椿の花模様の所蔵印も確認済みで、篠原のものに間違いはなかった。
「篠原さん、確認お願いします」
篠原は頷いて、ひとつひとつを手に取り、裏表を返してじっくりと確かめていった。もちろん裏表紙を捲り、内側に押された印を見ることも忘れない。
一冊一冊を大事そうに触れる指が、案外長いことにふと気づく。黄ばんで所々染みの浮いたページを、愛おしそうな目で繰っていく。今日の篠原はスーツではなく普段着だった。黒いゆったりしたセーターに濃い目のデニムを穿いた姿は、いつもよりもずっと篠原を若く見せていた。
悟られないようにそれを眺めながら、真琴は妙に落ち着かなかった。
なんだろう、これ。
「間違い…ないですか?」
事務所の奥の給湯室から、コーヒーのいい匂いがしていた。今日は土曜日なので増村はいない。高橋が淹れているのだ。
手に取っていた本をテーブルの上に戻して、篠原は言った。
「はい。確かに、どれも私のもので間違いありません」
ほっと、真琴は息を吐いた。
「…あー、よかったあー」
前のめりになっていた体をソファの背に投げ出した。それを見て、かすかに篠原が目を細める。
「大変だったでしょう、お疲れさまでした」
「いえ、所長が手助けしてくれましたし、俺はあんまり…役に立たなくて」
「でも十冊も、ちゃんと戻って来た」
真琴は苦笑した。
戻って来た十冊目は、篠原のリストにはなかった都内の古書店をしらみつぶしに当たって見つけたものだ。篠原の元妻が全部を覚えていないと言っていたという篠原の言葉を思い出して、もしやとそうしたのだが、六軒目で早くも行き当たった。珍しい装丁の限定出版本だったので店主がよく覚えていた。個人出版だったその本は古書としての価値はあまりなく、知人の雑貨屋の装飾品として譲ったと古書店の店主は言った。
『それ、どこですか? 教えてください』
聞き出したその店にすぐに真琴は出向いた。そして店の店内ディスプレイとして飾られているのを見つけ出したのだ。
雑貨店の店主に事情を話すと──今度は井上の二の舞は踏まなかった──店主は快くショーケースから取り出して確認をさせてくれた。裏表紙の内側に印を見つけると、店主は真琴にそのまま持って帰れと言ってくれた。
『どうせタダで貰ったものだし、いいよ』
ほら、と紙袋を手渡される。
『えーと…、でも』
高橋とそう歳も変わらないような店主は、戸惑う真琴に可笑しそうに笑った。
『あー、逆にタダとか気が引ける? じゃあさ、なんか買ってってよ。五百円以上買ってくれたらおまけにつけてあげる』
『え、いいんですか?』
五百円で、と言うと彼はまた笑った。
『いいから早く選びなよ。気が変わらないうちに』
『はい、それじゃ…』
小さな雑貨店はこまごまとしたものが綺麗に並べられている。
ゆっくりと時間をかけて真琴は商品を眺めていった。
『あ』
目に付いたそれを真琴はそっと手に取った。
どうしてそれに惹かれたのかは分からない。でも、欲しいと思った。これがいい。
『これにします』
レジに持って行くと、店主は綺麗に包んで本と一緒に紙袋に入れてくれた。
『こういうの好き?』
『んー、なんか、目に止まったから』
そっか、と店主は言った。
『あ、領収書いる?』
『いえ、これは、自分で』
実際それは千八百円したが、篠原の調査の経費に上げるつもりはなかった。自分が欲しいと思ったから、自分で払うのは当然だ。
『ありがとう。また来てね』
にこりと笑い返して真琴が断ると、そう店主は嬉しそうに言った。
探している十一冊の内の十冊までが目の前にある。
あとひとつだ。
残りの一冊については他のものと同時に探していたのだが、まだ何も情報がない。その一冊だけが所蔵印のないものだった。
一番見つけにくいものが最後に残ってしまった。
「見つけられるといいんですけど」
「見つかりますよ。水戸岡くんなら。そう私は思ってます」
高橋が淹れたコーヒーを飲みながら、3人で雑談を交わした。休日の午後の穏やかな時間だ。
電話が鳴り、高橋がそれに出たのを合図に、篠原は立ち上がった。セーターと同じ色の黒いコートを羽織る。
「じゃあ、そろそろ」
「あ、はい」
並べていた本を大きめの紙袋に詰めて持ち、真琴は篠原を見送ろうと後ろをついて行った。途中篠原と高橋が軽く会釈をする。
「下まで送ります」
「ありがとう」
事務所のドアを閉め、階段を下りようとした真琴の手から、すっと篠原が紙袋を取り上げた。
「貸して」
「え」
驚いた真琴に構わず階段を下りていく篠原を真琴は追った。
『篠原さん、それ俺が』
「自分のものだから自分で持ちますよ」
伸ばした手をやんわりと断られて、あ、と真琴は立ち止まった。
「篠原さん、敬語」
やめて欲しいと言ったはずなのに、口調が元に戻っている。
ああ、と篠原は笑った。
「事務所の中ではやめた方がいいかと思って」
う、と真琴は返答に詰まった。
「──まあ、そうです、ね」
確かにそうだ。高橋の前で依頼人と友達のように話すわけにはいかない。
きっとまた余計なひと言をもらうだけだ。
それが心配からきているものだと分かっているだけに、真琴には反論が出来ない。
「水戸岡くん」
一階に着くと、篠原は真琴を振り返った。
「今日は何時まで?」
「え?」
「仕事、何時で終わる?」
「19時ですけど…」
朝が遅い分、真琴の上がりも遅かった。
「じゃあ迎えに来るから」
え?
迎え?
「この間の約束」
「え…」
「予定があった?」
約束──また食事をしましょうって、あれ?
「ないで…ない、けど」
慌てて言い直すと、篠原が言った。
「よかった。それじゃ19時に」
篠原はビルの前の通りを歩いて行く。車で来たと言っていた。近くのパーキングに停めてあるのだろう。
「…19時」
思わず呟くと胸の奥がじわりと熱を持った。
あれ、本気だったんだ。
あんな口約束、てっきり社交辞令だとばかり思っていた。
真琴は人波の中に消えていく篠原の背中をしばらくぼんやりと見つめていた。
***
「あら、真琴くん」
事務所を出て一階に下りると、渡瀬とちょうど出くわした。
「こんばんはー」
「お疲れさま、今上がり?」
「うん」
看板をいじっていた渡瀬が、よいしょ、と立ち上がる。
「なに、また調子悪いの?」
「そうなのよ。やっぱり修理頼まないともう駄目ねー」
「そうなんだ」
看板はちかちかと瞬いては消えるということを繰り返している。渡瀬はビルの壁についている屋外コンセントからケーブルを引き抜いて、看板を脇に寄せた。
「あれ?」
そばに立ってじっと自分を見ている真琴を不思議そうに渡瀬が振り返った。
「どうしたの、──あ、誰かと待ち合わせ?」
「まあ、うん」
三階の事務所の窓を渡瀬が見上げる。
窓には明かりはない。高橋は電話を受けたあと依頼人に会うからと出掛け、まだ戻っていなかった。もう19時なので今日はそのまま家に帰るだろう。戸締りと火の始末をし、鍵を掛けて真琴は下りてきたのだ。もしも高橋が事務所に戻って来ても鍵を持っているし、大丈夫だろう。
「そっか。──あ、ちょっと待ってて」
そう言うなり、渡瀬は自分の店に入って行った。
もうすっかり日は暮れて、明かりの灯った通り沿いの外灯が遠くまで続いている。週末のさざめく人の流れを、ビルの壁に背を預けて真琴は眺めていた。
──あ。
その中に、篠原の姿があった。
まるで光を当てたように、そこだけが明るく見える。
「──」
目が合った。
篠原が小さく手を振る。
たったそれだけで、まだ肌寒く冷たい夜の空気が、ふわりと暖まったような気がした。
「お待たせ」
「どうも…」
何と返していいのか分からずそう答えたとき、菓子店の扉が開いた。
「お待たせ真琴くん、これいつもの試作なんだけどよかったら彼女と──、あ」
紙袋を下げて出て来た渡瀬が、真琴の前に立っている篠原を見て目を丸くした。
「あっ、ごめん! 待ってる人って女の子かと思っちゃった」
「ええ?」
どうやら渡瀬は勘違いをしたようだ。真琴は苦笑した。
「俺彼女いないよ」
「あはは、ごめんごめん」
真琴は篠原に渡瀬を紹介した。
「篠原さん、ここのお店の店主の渡瀬さん。渡瀬さん、篠原さんはうちの──、所長の、友達なんだ」
調査事務所の客などと紹介してしまったら篠原に悪い気がして、咄嗟に真琴は嘘をついた。
「そうなの。こんばんは、渡瀬です」
「どうも、篠原です」
真琴の嘘には何も言わず、篠原は渡瀬と挨拶を交わした。どうやら真琴の意がちゃんと伝わったようだ。
「あ、これ」
持っていた紙袋を、渡瀬は真琴に差し出した。
「女の子だと思ってたからアレなんだけど、試作で作ったケーキ、よかったら持ってって?」
「えっいいの?」
受け取った紙袋の中を覗いて見れば、小さなケーキ箱が入っていた。
うん、と渡瀬は頷いた。
「パターン変えていくつか作ったからたくさんあって食べ切れないし。試作で悪いんですけど、篠原さんも食べてください」
渡瀬が言葉の最後を篠原に向かって言うと、ありがとうございます、と篠原は返した。
「ありがとう、すごい嬉しい」
「ふふ、よかった。また事務所にも差し入れるから」
「うん」
「じゃあね」
失礼します、と篠原に会釈をして、渡瀬は慌ただしく店の中に戻って行った。
真琴は篠原を見上げた。
「篠原さん、甘いもの大丈夫なんだ?」
「ああ、好きだよ」
「──そ、なんだ」
何気ない言葉にどきりとして、上擦った声で真琴は頷いた。
でも、と篠原は少し考えるように紙袋を見て言った。
「せっかくのケーキだから、今日は店に行くのはやめようか」
「え?」
驚いて真琴は篠原を見た。
あ、そうなんだ。
そうだよな、ケーキ溶けるもん。
そうだよ。
気持ちが一気に下向いた真琴に、篠原が微笑んだ。
「うちで何か食べよう」
「…は?」
うち?
今うちって言った?
「あの」
恐る恐る真琴は訊いた。
「それ…篠原さんの家ってこと?」
「そうだよ」
「ええっ」
「行こうか」
「え、ちょっ…!」
「ケーキが溶けるよ?」
腕を取られ、促されて、真琴は篠原の横を歩く。篠原が来た道を引き返していた。
まさかこんなことになるなんて。
どうしよう。
「何が食べたい?」
「え、あ、なんでも」
急に聞かれても何も思いつかない。
じゃあ、と篠原は言った。
「僕が何か適当に作るよ」
微笑んだ篠原を見上げ、真琴は見惚れた。
俺──
どうしよう。
嬉しいなんてどうかしてる。
手に持った紙袋の中で、カサカサとケーキの箱が音を立てた。
「あの篠原さん、あのっ…待って」
篠原が真琴を見下ろした。
「歩くの早いよ」
と真琴は言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます