5



 課長、と声を掛けられて、篠原は振り向いた。

「どうやって帰ります? タクシー呼びましょうか?」

 部下の言葉に篠原はいいよ、と言った。

「駅まで近いしこのまま帰ります。大野くんも遅くまでお疲れさまでした」

「なんとか話がついて良かったですよね」

「そうだね、どうなることかと思いました」

 出向いていた支社ビルを出て、駅前の通りを部下の大野と他愛のない話をしながら駅に向かって篠原は歩いた。今日は午後から本社と支社間での定例会議が執り行われ、本社からは篠原と部下の大野が出席していた。会議は予想を上回って大幅に長引き、定時はもうとっくに過ぎている。

「それじゃ、お疲れさま」

 大通りの交差点まで来て篠原は言った。彼とは帰る方向が違うので、ここが分かれ道だった。

「お疲れさまでした」

「また来週」

 頭を下げる大野に軽く手を上げて歩き出すと、携帯が鳴った。

 こんな時間に掛けてくるのは、思いつく限りひとりだ。

 携帯を手に取った篠原の顔が緩んだ。それは、自分でも気がつかないほどの変化だった。

 メッセージ──思った通り、水戸岡真琴からだ。

 別れた妻が当てつけに手当たり次第に売り払ったものを買い戻すために依頼した、調査事務所の所員だ。

 彼の姿が浮かんだ。

 銀色の髪をした彼は、その派手な見た目とは真逆の性格をしている。

 どうしてあんなふうに髪を染めてしまったのだろう。

 あれはあれでとても似合っているけれど、本当の彼の髪は茶色掛かった黒色だった。

 そう。

 そうだったのに。

 まさかこんなふうに再会するなんて。

 篠原は道の端に寄り、メッセージに目を落とした。

 今日彼は9冊目の本の買い戻しに行くと言っていた。依頼をしてから2週間が過ぎ、成果は順調だった。いつも夜に受け取る報告は真琴の頑張りを示していたが、あまり無理もして欲しくなかった──上手くいっただろうか。

「……」

 メッセージを読む篠原の目がふと止まり、かすかに顰められた。


***


 上がっていたホームを駆け下りて改札に戻り、外に出ると、篠原はもうそこに立っていた。

「こ…、こんばんは…!」

「こんばんは。偶然ですね」

「ほ──ほんとに…」

 驚いた。まさか篠原がこんな近くにいたなんて。

「今日は仕事でそこの支店に出向いていて、ちょうど帰るところだったので」

「そうだったんですか」

 通りの向こうを指した篠原に真琴は頷いた。

 なんだか気まずい。

 買い戻しが上手くいかなかったことをさっきメッセージで送ったばかりで篠原に会うなんて。

「今日はお疲れさまでした」

 その言葉に真琴は首を振った。

「いえ、そんな──俺、上手く出来なくて…、ほんとすみませんでした」

 真琴は頭を下げた。

「相手の人を怒らせたみたいで」

「水戸岡くんのせいじゃないでしょう? 頭を上げてください」

 高橋が一緒だったならこんなことにはならなかったかもしれない。自分じゃなくて、高橋だったら。はじめからそうだったなら、篠原の期待に応えられた。

 今日もきっといい報告が出来たに違いないのだ。

 俯いていると、篠原が言った。

「水戸岡くん、なにか食べましたか?」

「…え、まだ…ですけど」

 顔を上げた真琴を見下ろして、かすかに篠原が目を細めた。

「そう。私も夕飯まだなので、よかったら一緒に」

 一緒に。

「え?」

 ──一緒に?

 俺と?

「いや、えと…っ」

 無理、無理すぎる。

 無理だ。

 この人と一緒に俺何食ったらいいの?

「店はすぐそこですから」

「え、ええっ?」

「じゃあ行きましょうか」

 そう言うと、篠原は真琴の腕を取って通りを歩き始めた。 



 連れて行かれたのはいたってごく普通の居酒屋だった。

 半分個室のような奥の小上がりの席に通されて、篠原と向かい合って座る。篠原の雰囲気からこういうところを避けて通りそうだと思っていたが、篠原はとても自然にくつろいだ感じで店に馴染んでいた。

 意外だったと、真琴は思った。

 もっと、高いものしか食べないような人だと思っていた。

「あの…よく来るんですか、こういうとこ」

「来ますよ。帰って作るのも面倒でほとんど外食ばかりだから。水戸岡くんは?」

「俺は、定食屋が多いかな」

「そう」

 当たり障りのない会話をしていくうちに、落ち込んでいた気持ちがふわりと浮上する。何も食べたくないと思っていたのに、メニューのお品書きを篠原とふたりで眺めているだけで食欲が少しずつ戻ってくる気がした。

「あ、これ美味しそう」

「じゃあ頼みましょうか。お酒は? 水戸岡くんは今何歳?」

「25です。飲めるけど、でも今日はお酒はいいかな」

「そう」

 酒は、飲むと体質的にすぐに眠くなってしまうので、外ではあまり飲まないようにしていた。家でひとりのときにたまに飲む程度だ。篠原とはこれが初めてだし──最初で最後にしても──飲む気はまるでなかった。

 真琴の言葉に頷くと、篠原は通りかかった店員を呼び止めて注文をした。烏龍茶をふたつ、と言うのを聞いて真琴は驚いた。注文を取った店員が離れて行く。

「あの、お酒飲まないんですか?」

「ああ、ひとりで飲んでもつまらないですし」

 何でもないように言う篠原に、真琴のほうが焦った。

「え、それって俺が飲んだら飲むってこと? 篠原さん飲みたかったんだよね? じゃあ、えと」

「水戸岡くん」

 遠くにいる店員を呼ぼうとした真琴を遮って、篠原が言った。

 見れば、篠原は笑っていた。

 笑ってる。

 くすくすと堪えきれないといったように篠原が肩を少し揺らして笑っていた。

「大丈夫、そんなに気にしないでいいですから」

「で、でも」

「じゃあ今度」

 笑い混じりの声で篠原は言った。

「今度また、私と食事してください。そのときは飲みましょう」

 笑いながら真琴を見つめる目があまりにも優しかった。普段無表情な篠原だけにそれは強烈に真琴の目に焼き付いた。

「……」

 どきりとした。

 見惚れてしまって返事をしないでいると、水戸岡くん? と呼びかけられて慌てて真琴は首を縦に動かした。

「は、はい、じゃあ…今度」

「楽しみにしてます」

 まだ最初の食事も運ばれてきていないのに、もう次の約束をするような会話がなんだか可笑しくて真琴も思わず笑ってしまった。

 食事を終えて店を出たのはそれから2時間ほどあとのことだった。

 すっかり長居してしまった。

 思うよりもずっと話は尽きなかった。途切れることなく弾んだ会話に、真琴の中にあった篠原のイメージが随分と塗り替えられていた。

 無表情で冷たい印象に、とっつきにくい人だとばかり思っていたけれど、実際の彼は優しい人だ。それが人よりも全然、表に出ないだけで。

「ごちそうさまでした」

「どういたしまして」

 店から出たところで真琴は頭を下げた。自分の分は出すと言ったけれど、誘ったのはこっちだと篠原が譲らず結局全部篠原が支払ってしまったのだ。

 駅まで歩きながら、ぽつぽつと会話の続きをする。話が途切れたところで真琴は切り出した。

「ごめんなさい、あの──今日は」

 店の中では穏やかな雰囲気を壊したくなくて、言えずにいた。

「俺、もっと分かってもらえるように説得しますから」

「ありがとう」

 でも、と篠原は横の真琴を見つめた。

「あまり無理をしないでください」

「はい。でも、仕事だから」

 そこで真琴は足を止めた。

「あの、篠原さん」

 篠原が振り返る。

「俺に敬語使うの、やめませんか?」

 虚をつかれたように篠原が少し目を瞠った。

「嫌ですか?」

「嫌じゃないけど、なんか違う気がして。俺のほうが年下だし、篠原さんは依頼人だし、俺は、…」

「…俺は?」

「時々どうしたらいいのか分からなくて困ります」

 見上げると篠原はじっと真琴を見返していた。

 夜の柔らかな風が篠原の上着の襟を揺らしていた。

「そう」

 静かに篠原は言った。

 再び歩き出した背中を真琴は少し後ろからついて行った。

 怒らせたかな。

 それぞれの家は同じ駅から二手に分かれた違う路線だと、さっきの居酒屋で知った。

 会話もないまま、やがて駅の改札が見えてきた。

 前後に並び、改札を抜けたところで篠原が振り向いた。

「私が敬語をやめたら、水戸岡くんもやめますか?」

「…は?」

「僕が普通に話したら、水戸岡くんもそうするならいいよ」

「えっ、なんで?」

 俺が普通に話したら意味なくない?

「何でそうな…っ、ちが、俺は、俺は敬語のまま!」

「じゃあやめます」

「ええっ駄目!」

 くるっと背を向けた篠原の上着を咄嗟に掴んで引っ張ると、肩越しに篠原が真琴を見た。

 くす、と笑う。

「どうしますか?」

 かあ、と真琴は自分の顔が赤くなったのが分かった。

 からかわれた。

 からかわれた!

 ぎゅう、と無意識に真琴は上着を握りしめた。

「ど…、努力します」

「そう」

 篠原が真琴に向き直る。手の中の上着が引っ張られた。慌ててぱっと真琴が手を離すと、篠原がまたかすかに笑った。

「それじゃまた、水戸岡くん」

「は…、うん、また」

 はい、と言いそうになって言い直す。

 なんだかおかしなことになってしまった。

 いや、こんなつもりじゃ…

「おやすみ」

「は、う、んっ、お──おやすみなさい」

 俯いたままどうにか返すと、ぽん、と頭に軽く触れるものがあった。

「帰り、気をつけて」

 え。

 なに?

 顔を上げると、篠原はもうこちらに背を向けてホームへの階段を上がっていた。

 それをぼんやりと見送りながら、頭を撫でられたのだと真琴が気がついたのは、それから少し後、篠原が階段を昇りきり姿が見えなくなって、電車がホームに入って来る音が聞こえたときだった。

 赤くなった顔を手のひらで擦った。通り過ぎる人が訝し気な目で真琴を振り返って行く。

 なんだろう。

 あの人──

 奇妙な既視感に胸の奥がざわついていた。


***

 

 月曜日の朝、事務所に井上から電話がかかって来た。

 高橋が電話を取り、真琴に引き継いだ。

 浅賀と交渉が上手くいかなかったことを高橋に伝えたのは金曜日、帰りの電車に乗る直前だった。そのあとすぐに高橋は浅賀のことを調べたようだった。翌日真琴が事務所に顔を出したときには、真琴のデスクの上に出来上がったその調査報告書が置かれていた。

『これって…』

 真琴がそう言うと高橋は肩を竦めた。

『ま、そういうことだ。よくあることだな』

 その報告書は今真琴の手の中だ。

 書かれてあることは何度も読んで記憶していた。

「おはようございます、水戸岡です」

 少し緊張したような井上の声がした。

『おはようございます。あの、先日はすみませんでした』

「いえ、こちらこそ。色々お世話になりました」

 それで、と井上は言った。

『浅賀のことなんですけど』

 真琴はちらりと目を上げて高橋を見た。

 真琴のデスクの前に立っている高橋が小さく頷いた。

『あの、買い取りって、どうなってますか?』

 来た、と真琴は思った。

 高橋と言うべきことはもう打ち合わせていた。

 あとはそれを言うだけだ。

 落ち着け、と真琴は自分に言い聞かせた。



 増村の淹れたお茶を啜りながら、まあ要するに、と高橋が言った。

「あのふたりはグルだったんだよ」

 高橋が調べたところ、浅賀には借金があることが分かった。真琴が訪ねて行った家の建つ土地は代々浅賀家のものだったが、両親の死後、すぐに抵当に入れられたようだ。疎遠だと言っていた井上とは今も懇意であり、頻繁にあの家に出入りしているところが目撃されている。ふたりの間でも金銭の貸し借りがなかったとは言い切れない。

 真琴のメールを見て返事をしたのは確かに父親だったのだろうが、その後のことはすべて井上が立てた筋書きだった。井上が言う以上に彼の父親は店のことをほとんどすべて息子に任せきりにしていたようだ。

 調べた事実を元に井上をじわりと攻めると、恐ろしいほどにあっさりと彼は認め、今日中に本を返すと言い出した。その買い取り額は妥当なもので折り合いがつき、近くに住む高橋の知り合いが取りに行くことで話は終わった。

「そうなんだあ、真琴くん災難だったね」

「うん。でも、元はと言えば俺のせいなんだと思う」

「そうそう、手の内をはじめから晒してたもんなあ」

 真琴が何もかもほとんど、こちらの事情を井上に教えてしまったのが事の発端だったのだろう。

「ああやってごねれば金を引き出せると思ってたんだよ」

 相手の言葉をその場で受け入れずに持ち帰れと言った高橋の言葉が胸に痛い。

 あのときは買い戻すことばかりが頭にあって、そう言われていなければ、真琴はあの場で浅賀に言われるがままに承諾してしまっていたはずだ。

「所長、ごめんなさい」

 所長のデスクの前で頭を下げると、ぽん、とその頭に高橋の手が乗った。

「ちゃんと俺の言うこと聞いてよかっただろ?」

「うん…」

「ま、今回は大事にならずに済んでよかったって、そう思うんだな」

「はい」

 自分のデスクに戻ると、増村がコーヒーの入ったマグカップを持って来てくれた。

「ありがとう」

「元気出しなさい、真琴くん」

「うん…」

 マグカップを両手に抱えてひと口飲む。少し甘くしてくれていた。その心づかいが嬉しくて、落ちていた視線がふと上向き、駅まで迎えに来てくれた井上の笑顔を思い出してしまった。

「いい人だと思ったんだけどな」

 つい呟くと、傍にいた増村が困ったように笑った。

「真琴」

 デスクの向こうで、高橋が書類に目を落としながら言った。

「人の見た目に騙されるな。いい加減、学習しろ。それくらい分かってるだろ?」

「……ん」

「2度目は嫌だろ?」

 返す言葉が見つからなくて、真琴はコーヒーを飲んだ。

 高橋が顔を上げて、そんな真琴を見つめる。

 そして、仕方がないというふうに、ふっと笑った。

「俺はもうおまえが引き籠ったって、引きずり出してやったりなんかしないんだからな」

「…わかってるよ」

 そんなことはよく分かっている。

 嫌と言うほどに、身に染みていた。

 それでもそう簡単に自分の根底は変えられない。

「もうわかってる」

 目を逸らしてふてくされたように言う真琴の髪を、増村がくしゃっと撫でた。

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