4
時々真夜中に見る夢は、決まっていつも同じ場面だ。
雪だ。
雪が降っている。
ただそれだけの光景。
それだけの景色。
「──」
シャッターが下りる音が、車の走行音で掻き消えていく。
ファインダーを覗いてもう一度、真琴は夜空を撮った。
心地よい充足感が胸を満たしている。篠原の依頼を受けてから2週間が過ぎ、真琴はそれなりの成果を上げていた。
背負っているバックパックの中には、今日見つけた8冊目の本が入っている。
ファインダーから目を離した。眺めるいつもの景色。街の喧騒がこだまのように聞こえる。真琴は首に掛けたストラップを外して、カメラを仕舞った。
通り過ぎていく人たちの足音。
風が髪を揺らす。
巻き上げられた銀色の髪。毛先が目に入る。そろそろまた染めに行く頃になっていた。
あっ、と声が上がった。
「真琴くーん、返信来てますよー」
「はーい」
事務所の給湯室でカップラーメンに湯を注ぎながら真琴は増村に返事をした。昼食時はもうとうに過ぎていて、事務所にはいつものように真琴と増村だけしかいない。高橋は昼前に出て行き、夕方には戻る予定だった。
湯を淹れた容器に蓋をして、真琴はこぼれないように自分のデスクまで運んだ。急いでマウスを握り、かち、とクリックすると、流れていたスクリーンセーバーが消えメール画面に切り替わる。
事務所共有のメールアドレス、一番上の未開封のメールは少し前に来た新着だ。
件名は『昨日お問い合わせの件について』
──よし。
「増村さんありがと」
「早くてよかったね」
「うん」
笑いながら、今度は増村が給湯室に入って行く。
真琴はメールを開いた。それは都外にある古本屋の店主からで、簡素な文章で分かりやすく箇条書きにされた文面には、篠原の本を買って行った人が分かったと書かれていた。
「ふーん、じゃあ明日そこに行くのか?」
夕方、珍しく予定通りに戻って来た高橋に、真琴は昼過ぎに届いたメールを見せた。高橋は画面を見ながら、帰る前に増村が淹れたお茶を慎重に啜っている。猫舌のくせに飲み物は熱くないと駄目らしい。
「うん、店主の井上さんとは連絡ついたから、よかったら明日行こうと思って。買い取った人は井上さんの知り合いだって言うし、結構簡単に買い戻せるかも」
「ふーん」
投げ出すように、高橋は椅子の背にもたれ掛かった。ぎし、とリクライニング機能のある椅子が軋む。この椅子は下の階の設計事務所が出て行くときに粗大ごみに出そうとしていたのを高橋が引き取ってきたものだ。
「そうか」
「え、なに?」
寄りかかってもパソコン画面から目を離さない高橋を、横に立っていた真琴はデスクに手をついて覗き込んだ。
「なんか駄目?」
「いいや」
湯飲みを口に当てたまま、うっすらと高橋は笑う。
「楽しそうだなあと思って」
真琴は目を見開いた。
楽しそう?
「なにそれ」
「まあ、いいんじゃないか?」
背もたれから体を離し、高橋はデスクに片肘で頬杖をついた。それから体を傾けて真琴を見上げる。
「部下がお仕事楽しそうで上司はなによりだよ」
「…ああそう」
からかっているのが丸分かりな台詞に半目を返すと、高橋は可笑しそうに喉の奥で笑った。
「ま、行ってどうにもならないようだったら相談しろよ。あと報告は忘れないように」
「はーい」
デスクに戻ろうとすると、なあ、と高橋が言った。
「今日なんかメシ食って帰る?」
「ええ、なんで? 要らない」
「冷たいなあ、たまには一緒に食おうぜ」
「ひとりで食えよ」
そう言って、真琴は肩を竦めて高橋に背を向けた。やることはまだあるのだ。さっさとデスクに行こうとする真琴の背中に高橋の声がぶつかった。
「先輩と後輩の仲だろ」
「今は上司と部下ですー」
「同じじゃねえか」
「ちーがーう」
高橋がけらけらと笑う。それを肩越しに振り返って、真琴は思い切り顔を顰めてみせた。
翌日、真琴は朝早くに起き、電車を乗り継いで都外に向かった。古書店の井上とは昨夜メールで連絡を取り合い、昼前に古書店の最寄り駅で落ち合うことになっていた。
通勤の時間帯ではあったが中央から離れて行っているので、それほど込み合っていることもない。難なく座ることが出来て、真琴はほっとした。目的地までは2時間ほどだ。篠原の別れた妻は、本当に手当たり次第に本を売り払っていったようだ。
なんでそんなことしたんだろうな。
面倒だったろうに。
高橋に今向かっている旨をメッセージで送った。
ぼんやりと窓の外に目を向けながら、真琴は仕事とはいえ、こんなふうに電車に乗って遠出をするのは何年振りだろうと考えた。
窓の外の景色にふっと重なる記憶。
雪だ。
目を閉じてその残像を消す。
もうすぐ春だというのに──あれから随分経つというのに、いつまでもあのときからまだ動けずにいる自分が、心底恨めしかった。
駅の改札を抜けると、ロータリーのベンチの傍に30過ぎほどの男が立っていた。真琴を見て一瞬目を見開くと、壁に預けていた背をぱっと浮かせた。
「水戸岡さん?」
はい、と言って真琴は駆け寄った。
「あの、井上さん?」
井上はにこりと笑った。
「そうです。すいません、わざわざ来てもらって」
「いえそんなっ、こちらこそ色々…、迎えにまで」
メールの文面からてっきり年配の男性だろうと思っていた真琴は、予想外に若い井上に驚きながら頭を下げた。今まで行った古書店の店主はどこも皆年配の人ばかりだったので、そう思い込んでしまっていた。
こんな若い人もいるんだ。
真琴の視線の意味を読み取ったかのように、ああ、と井上が笑った。
「僕は息子です。水戸岡さんにメール返したのうちの父親なんですよ。予想と違ってびっくりしたでしょ?」
「あ、いやっ、あの」
ふふ、と井上は駅の外を指差した。
「じゃあ行きましょうか」
「はい」
ロータリーの駐車スペースに停まっていたワゴン車に案内される。助手席にどうぞと言われ、真琴はそれに従った。
「ここから20分ぐらいで着きますから」
「はい、お願いします」
駅の周りには少し新しめのスーパーとその先には小さな商店街が見える。街路樹をぐるりと迂回して車は県道に入り、まっすぐに進んだ。
少し走ると景色はすぐに住宅街に変わっていった。
当たり障りのない会話のあと、真琴は今から会いに行く人のことを井上に聞いた。彼の父親が返してきたメールには、篠原の蔵書を買って行ったのは知人とだけあった。尋ねると、井上はそれは僕の友達だと言った。
「まあ友達って言っても中学の時部活が同じで仲良くしてて、うちにも入り浸ってたんだけど卒業してからは疎遠になって、今はもう全然」
「そうなんですか」
うん、と井上は頷いた。
「うちは父親が始めた店で、僕は2代目なんですよ。今は父親も歳だしふたりで店に出てるんだけど、そいつが来たとき、ちょうど僕は休みだったから」
そうか、それで。
真琴が出した問い合わせのメールを最初に見たのは井上の父だったようだ。仕入れたばかりの珍しい古本を買って行ったのが、久しぶりに見る息子の同級生だったと思い出してすぐにメールを寄越してくれた。出来るだけありのままに事情を説明したが、胡散臭いと思われなくて本当に助かった。
「ほんとはちゃんとお店に行くか電話でって思ってたんですけど、メールなんかですみませんでした」
「いやいや、逆ですよ。メールでよかったんです」
「え?」
井上を見ると、ハンドルを握ったままちらりと真琴を見て笑った。
「あのね、うちの父親、あんまり耳が聞こえないんですよ」
店には何度か電話を掛けてみたが、繋がらなかった。そこで真琴はメールに切り替えたのだが、それが返って幸いしたようだ。
普段店番をしている父親は元々聴覚に病を抱えていて、電話を取ることが滅多にないと井上は言った。
「だからメールもらってよかったんです。僕がいれば電話にも出るんだけど、うちあんまり電話鳴らないから気づかないことも多くて。父は聞こえないから電話は取らないし、常連さんはそういうの分かってるから、用があれば店にじゃなくて僕の携帯に直接掛けてくるんで」
はあ、と真琴は感嘆した。
「そっかあ…大変ですね」
「慣れればなんてことないですけどね。田舎だし、それで上手くいくっていうか──あ、もうすぐですよ」
脇道に車を入れて井上は言った。
ゆっくりと進んでいく住宅街の奥、行き止まりにその家はあった。
話はしてある、と井上は言ったが、チャイムを鳴らし出て来た男はひどく機嫌が悪かった。
「こんにちは」
男は真琴の全身を舐め回すように見つめ、鬱陶しそうに長い前髪を掻き上げた。
「なに、あんた? …よお井上」
真琴の後ろに立つ井上に、剣呑な視線を向ける。
「久しぶり、
「高橋調査事務所の水戸岡です、あの」
浅賀の体越しに暗い家の中が見えた。2階建ての一軒家の玄関は、物で埋め尽くされている。束ねられた雑誌が置かれ、その上にも雑に新聞やら雑誌が積み上がっていた。ろくに掃除もしていないようで、玄関から伸びる廊下の端に埃が溜まっている。浅賀の他に誰かがいる気配はなかった。ひとり暮らしなんだろうか。
「井上さんから聞いたかと思いますけど、先日浅賀さんが井上さんのお店で買われたものを、元の所有者が買い戻したいと──」
「はあ? 何言ってんのこいつ」
口元を歪めて笑い、浅賀は真琴の後ろの井上を見た。
「おまえこんなやつ連れてくんなよ」
「浅賀やめろ、昨日ちゃんと話しただろ」
「知らねえよ。買い戻したいとか何だよ」
「浅賀っ」
「い──っ」
いきなり、浅賀が真琴の髪を片手で鷲掴みにして力任せに引っ張った。頭皮に痛みが走り、髪の抜ける音がした。痛い、と思わず声を上げそうになって真琴は奥歯を食いしばった。
「馬鹿何してんだ!」
「ははっ、何この髪。すっげえ、本物じゃん」
「やめろって!」
ぐいぐいと遠慮なしに真琴の髪を引っ張る浅賀の手首を、井上が掴んだ。笑った浅賀が乱暴に突き飛ばすようにして髪を離した。よろけた真琴を井上がとっさに支えた。
「水戸岡さん!」
「大丈夫」
支えてくれた井上に真琴は頷いて、浅賀を見た。
「あの、浅賀さん。どうかお願いします」
頭を下げると、浅賀は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「そーんな髪して頭下げられてもさあ」
言われる覚悟はあった。真琴はより深く頭を下げた。
「お願いします。あれは間違って売られてしまったもので、所有していた人の身内の方の形見なんです。出来れば、買い取らせてもらえないでしょうか」
へえ、と浅賀は鼻で笑った。
「で、いくら?」
ぱっと顔を上げると、浅賀と目が合った。可笑しそうに目を細めている。
「いくらで買い取ってくれんの? 10万? 100万とか?」
「浅賀っ!」
「形見ならそれくらい出せるんじゃん?」
「あ──あの」
こうなることを想定していないわけではない。
篠原からは金は惜しまないと言われていたが、高橋からはもしも相手が法外な高値を吹っかけてきた場合、一旦持ち帰りますと言うように真琴は言われていた。
『えーでもそれじゃ篠原さんの希望と違うじゃん。いくらでもいいって…』
『いいから、真琴。そう言っとけ』
そう、そうだ。
真琴は息を呑んだ。
「一度依頼人と相談してきてもいいですか?」
「はああ?」
浅賀が大声で言った。
「なんだよそれ、買い取るとか形見とか言っといてさあ、結局おまえに決める権限なんかねえんじゃん? ガキの使いかよ、いいから今決めろよ」
「いえ、相談しますので、また来ます」
「ふざけんな!」
浅賀が足下の雑誌を掴み真琴に投げつけた。とっさに目を閉じることしか出来なくて、飛んできた雑誌は真琴の顔に直撃した。
「水戸岡さんっ、てめ、浅賀!」
「るせえ!」
割って入った井上を浅賀は突き飛ばした。井上の体が真琴に倒れかかり、そのままふたりして玄関先に倒れ込んだ。ガチっと何か嫌な音がした。真琴は砂利敷きの前庭に尻餅をつき、浅賀を見上げる格好になっている。
「いいから金出せよ、おらっ、その中に入ってんだろ!」
「ちょっ」
仁王立ちになった浅賀が肩からずり落ちた真琴のバックパックを掴んだ。
まずい。
「やめ、やめてくださいっ」
取り縋るが振り払われる。
ファスナーを乱暴に引き開けて、浅賀が片手を突っ込んだ。
「おいおまえ、いい加減にしろよっ」
井上がバックパックを取り返そうと飛びかかるが、一足遅く、浅賀が中から黒い塊を掴みだした。
「へえ、なにこれ、カメラじゃん」
「ちょっと…! 返して──」
伸ばした真琴の手から遠ざけるように浅賀はカメラを高く掲げた。悔しいが、上背のある浅賀の腕は長く、どんなに伸ばしても真琴には届かない。
「大事なもんなんだ? へえ」
「浅賀さんっ」
「うわ一眼じゃん、たっかいやつ、凄えなあ」
カメラを掲げたまま、そのカバーを浅賀は外してしまった。砂利の上に落ちたカバーを見つめ、真琴は青くなった。あんな持ち方をして、落ちてしまったら──
考えただけで倒れそうだ。
「やめろ、返せ!」
思わず真琴は叫んだ。
「浅賀、ふざけんのも大概に──」
真琴の横から井上が手を伸ばしてカメラを奪った。だが、掴み方が甘かったのか、その指からするりとカメラは落ちた。
「あっ」
はじめに声を上げたのは誰だったのか。
ガッ、と重い音を立てて、三人の足下に真琴のカメラは転がった。
浅賀が投げつけた雑誌が傍に落ちていた。風に捲れ、ページが開いている。
よりにもよって──
見たくもないものがそこに載っていた。
***
帰りの電車の中で、流れていく夜の景色をぼんやりと眺めていた。線路に沿って走る道路の外灯が、遠くにあるほどにゆっくりと通り過ぎていく。
手の中で握りしめていた携帯が震えて、真琴は視線を落とした。
高橋からだ。
事務所に帰って来るか? と表示された画面に、ああもうそんな時間だっけ、と真琴は思った。
今日はこのまま帰る、と気持ちのままに文を打って送ると、了解とすぐに返って来た。
今日はもう何にも考えずに寝ろ、と続くメッセージを既読にして、真琴は窓の外を見た。
壊れてしまったものは、もう仕方がない。
あのあと、必死に謝る井上を尻目に、浅賀はさっさと家の中に入って行った。
ばたん、と玄関のドアが激しく閉まる。
カメラを拾おうと伸ばした真琴の手が止まった。カメラのすぐ横に落ちている雑誌が嫌でも目に入る。
どうして、こんなときに。
見るな。
見ちゃ駄目だ。
真琴はぎゅっと目を瞑り、カメラを拾って立ち上がった。
取り残された玄関先で井上は真っ青になっていた。
『ごめん…水戸岡さん、本当にごめん…!』
『いえ、いいから、そんな──頭上げてください』
『でもそれ』
『大丈夫、修理すればいいから』
レンズは割れていた。
修理に出しても直る見込みはなかったが、無理やりに真琴は笑った。
井上が悪いわけではない。
そもそもカメラを持って行ったのがいけなかったのだ。
家に置いておけばよかった。
自分がもっと気をつければよかっただけの話だ。
簡単に上手くいくと思っていた自分が情けない。
「あーあ…」
がらんとした車内、深くため息をつくと、窓が白く曇ってやけに自分の声が大きく響いた。閉じた目の奥に残る残像を追い払う。
何も考えないで寝よう。
都内に着いたのはいつもの帰宅時間よりもずっと遅かった。
家に帰るための乗り継ぎの電車を待つ間、真琴は篠原に報告をしようと携帯を取り出した。今日行くことも伝えてあった。掛ける携帯を間違えてしまってから、篠原とはプライベートの携帯のほうでやり取りをしている。メールよりも手軽に送れるメッセージが、篠原との連絡には助かっていた。
あの人との電話はいまだに緊張する。
真琴は、簡単に今日のことを纏めた短いメッセージを送った。
金曜日の夜、人の流れは絶え間ない。篠原はまだ仕事をしているんだろうか。
構内にアナウンスが流れ始める。
ふいに携帯が鳴り出した。
「…?」
ポケットに仕舞ったばかりの携帯を取り出して、真琴は目を瞠った。
着信だ。
しかも──篠原から。
ためらいながらも通話を押した。乗り換えの電車がホームに入って来た。
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