3


「ったく、本当おまえはどっか抜けてるよ」

 翌日高橋と共に、真琴は指定された店で篠原が来るのを待っていた。

「だからごめんって」

 昨夜篠原に言えなかったことを高橋にからかわれ、真琴は素直に謝った。高橋が電話すると言ったのを止めさせ、自分がすると言ったくせに、本当に一体何をやっているんだか。

「まあいいさ、普通はこういうのは所長の役目だからな」

 ぽん、と高橋は真琴の頭を叩く。

 そのとき店のドアが開き、篠原が入って来た。

「篠原さん」

 立ち上がって手を上げた真琴に篠原が気づいた。

 高橋も立ち上がる。

「お待たせしました」

「とんでもない、お仕事中にわざわざすみません」

「いえ、こちらこそ」

 篠原に身振りで座るように促され、彼を待って着席した。

 オーダーを取りに来た店員に全員がコーヒーを注文する。ひと息ついてから高橋が名刺を取り出した。

「昨日は失礼しました。所長の高橋です」

「篠原です」

 高橋が差し出した名刺を篠原は受け取り、小さく頷いた。

「お引き受け下さると聞きましたが」

「はい」

 ですが、と高橋は続ける。

「篠原さんの依頼の調査は、こちらの水戸岡が行います」

「──」

 すっと、篠原の視線が横に座る真琴のほうに向いた。一瞬目が合って、真琴は思わずテーブルの上に視線を落としてしまった。

 無表情な目が怖い。

「…水戸岡くんが、ですか」

「はい。申し訳ないのですが、今調査中の依頼にもうしばらく僕の手が空きそうにありません。けれど終わるのを待ってからでは遅すぎますので、そうならないよう水戸岡に僕に先行するという形で調査を始めてもらっておくのがいいかと思います」

 少し間があった。空気を読んだかのように、そこに注文したものが運ばれてきて、それぞれの前に置かれた。

 店員がいなくなると、そうですか、と篠原が言った。

「分かりました。それでお願いします」

「えっ」

「真琴」

 無意識に出た声に、高橋が真琴をちらりと見て苦笑する。

 慌てて真琴は口を閉じた。

「こう見えて水戸岡は優秀ですから」

 高橋の言葉に居心地が悪くなる。篠原を安心させるためとはいえ、優秀とか言わないで欲しい。

 すぐに失望させるかもしれないのに。

「…改めて、よろしくお願いします」

 真琴は篠原に自分の名刺を差し出した。事務所で働き始めてすぐに作ってはもらっていたけれど、実際に人に手渡すのはこれが初めてだ。

「こちらこそ、どうぞよろしく」

 真琴の名刺を受け取って、相変わらず平坦な声で篠原は言った。



 ふたりで打ち合わせをと言い残して高橋は先に店を出て行った。

 来る前にそうしろと言われていたこととはいえ、篠原とふたりで残されて、真琴はひどく落ち着かなかった。

 打ち合わせって、いつもどうやってたっけ。

 でもとにかく、喋らないと。

「あの…篠原さん」

 カップを口に運んでいた篠原が、目だけを上げた。

「調査をするのが俺で、所長じゃなくてすみません。本当は、昨夜ちゃんと言うつもりだったんですけど…」

 かた、とカップをソーサーに戻す音がやけに大きく響いた。

「構いません。私はどちらでも」

 感情の籠らない声だ。

 この人は本当に気持ちが読めない。

 どちらでも、か。

「そうですか」

 本当はがっかりしているんじゃないだろうか。

 篠原がどうやって事務所のことを知ったかは知らないが、高橋の評判は良い。彼を頼って来たはずなのだ。それなのに。

 するりと、思っていることが口から出た。

「こんなですけど、俺、頑張ります」

 篠原と目が合った。

 しまった。

 言ったとたんに真琴は後悔した。

 頑張るのは当たり前だ。これは仕事なのだから。

 これで報酬を得ているのに、いちいち宣言するなどどうかしている。

 篠原と合わせた目が逸らせない。

 怖い。

 その目が怖い。

 ざあ、と血の気が引いていく。

「あ…、いや、あの、すみません…! 頑張るのは当たり前っ…」

 ぎゅっと目を閉じて真琴は俯いた。

 穴、穴があったら入りたい。

 どうしてこうなんだ。

 頭を抱えていると、くすっと笑う気配がした。

「そんなに緊張しなくてもいいですよ」

 そろそろと目を上げると、篠原が持ち上げたカップの向こうで可笑しそうに目を細めて笑っていた。

「……」

 ──そんなふうに笑うんだ。

 笑うと切れ長の目尻が下がって、雰囲気が優しくなる。

「ああ、すみません」

 真琴の視線に気づいて篠原は言った。

 はっとその声に我に返り、真琴は慌てて視線を逸らした。

「いえ、そんな…」

「面倒ですが、よろしく頼みます」

「はい」

 見惚れていたのに気づかれただろうか。

 誤魔化すように真琴はカップを掴んでぐっと煽った。コーヒーは冷めきっていて、ただ苦いばかりだった。


***

 

 会社に戻る篠原と別れ、真琴は駅前の広場にいた。騒がしさから少し離れた場所で事務所に連絡を入れると、増村が出た。

『あ、真琴くん? どうだった、上手くいった?』

 うん、と真琴は言った。

「大丈夫でした」

『そう、よかったね』

「うん、あ──で今日俺このまま何軒か回ってみてもいいかな?」

『いいよー、大丈夫こっちのことは気にしないで。あ、所長から伝言で、逐一報告入れろって』

「ん、分かった」

『で、19時過ぎるみたいだったらそのまま帰ってもいいんだって』

「はは、うんそうする」

 真琴は苦笑した。

 高橋には真琴の行動はお見通しのようだ。

 それじゃ、と言って通話を切り、篠原のリストを出した。全部の住所を検索し、地図アプリに入れ、ここから一番近い古書店を目指して真琴は歩き出した。

 まずはひとつでも見つけていこう。

 駅ひとつ分離れたところにあるその店は商店街の中にある古い店だった。平日の昼間、外からちらりと覗いてみたが客はいそうにない。ガラスの嵌まったサッシの引き戸を開けて真琴は中に入った。ちりん、とサッシに付いていた鈴が鳴った。

 うわ、すごいな。

 古書独特のインクの匂いが店中に立ち込めている。

 いらっしゃい、と奥のほうから皺枯れた声がした。レジの向こうに店主と思わしき老人が座っていた。ちらりと真琴を見る。にこりともしない老人に軽く会釈を返して、店内を進んだ。

 天井まである高い書棚が狭い店内にひしめき合うようにして押し込められている。通路には人ひとりやっと通れるほどの隙間を空けてビニールに包まれた古い本が積み上げられていた。棚を見上げ、目の高さにある本の縁を真琴は指で撫でた。指先がざらつく。よく見れば、棚に収められた本も床に積まれた本も、全部うっすらと埃が積もっていた。訪れる人はあまりいないようだ。

 この中のどこかにあるかもしれない。

 とりあえず店主に聞くのは自分で探してからだと真琴は思った。ポケットからリストを取り出し、目当てのものをその目で探していった。

 ちらちらと視線を向けられているのが分かる。

 そのうち店主の友人らしき人が来て話が始まった。

 店の中は時間が止まったかのように穏やかだ。和やかなふたりの話し声は段々と遠くなり、やがて目の前のことだけに真琴は没頭していった。

「あ──」

 しばらくして、リストの中にあるタイトルを見つけた。ようやく一冊、手を伸ばして抜き取り、表紙を確かめる。埃はあまりついていない。最近並べられたものだ。

 間違いない。あとは──

 出版社と発行日が印刷されたページ。

 そこに赤い蔵書印があれば、これは篠原のものだ。

 さっきまでいた喫茶店で篠原から聞かされたことを真琴は思い出した。

『これを見てもらえますか』

 そう言って篠原は手帳を開き、真琴が見やすいようにと、くるりと回した。真琴は覗き込む。

 白い紙の中央に、朱色の印。

『えと…これは?』

『蔵書印です』

『蔵書印…ああ、図書館とかの本にあるやつ。所有者の印でしたっけ』

 よく見れば、切手大の印の中に文字に紛れて椿の花が咲いている。凝った印影だった。

『すごい。綺麗ですね』

『曾祖母の印なんですよ』

 手帳のそのページを切り離して、篠原はそれを真琴に差し出した。

『売り払われたものは、ひとつを除いて、他はすべて元は曾祖母の蔵書だったものです。それを私が貰い受けた。探してもらうものは、この印が押された本です』

 いわばそれは形見のようなものだ。だから同じタイトルの別の本では駄目だと篠原は言った。売られた本、そのものを取り戻したいのだと。

 思い出があるのだろう。

 紙を受け取って、真琴は頷いた。

『分かりました。この印があるものを見つけて来ます』

 商店街の通路に面したガラス窓から、陽の光が差し込み、きらきらと埃が舞っている。

 真琴は本を返して裏表紙を捲った。

 赤い花模様の入った蔵書印が目に飛び込んできた。

「…あった」

 こんなに早く見つかるなんて。

 これでひとつ目。

 幸先の良さに自然と真琴の顔が綻んでいた。



 報告のメールを入れて、ふう、と真琴はひと息ついた。

 テーブルの上に携帯を置いたところで、注文した定食が運ばれてきた。一番好きなミックスフライ定食だ。

「はーいお待ちどうさま」

「あー美味そう!」

 思わず声を上げると、運んできた年配の女性が笑った。この定食屋の女将さんだ。住んでいるアパートの近くなので、休日に真琴はよくここに来る。顔馴染みだった。

「珍しいねえ、いつもは休みの日しか来ないのに」

「うん、今日はいっぱい歩いたからさ」

 大抵は適当に食べて済ますが、今日はさすがに腹が空き過ぎて、しっかりしたものを食べたい気分だった。

「いただきます」

 箸を持つと、女将は笑いながら調理場へ引っ込んでいった。

 ヴン、と携帯が震えた。高橋からの返信だ。

 二、三口かき込んでから指先でタップして確認すると、お疲れ、とあった。

『初日にしてはよくやった。明日簡単な報告書を作成すること』

 と続き、それに了解と返して真琴は携帯を置き、食べることに専念した。

 一軒目で早くも一冊見つけることが出来た真琴は、あれから歩いて行ける範囲にあった三軒の店を回った。二軒目と三軒目では何も見つからなかったが、四軒目で二冊の本を見つけることが出来た。ちょうど店主の女性が前の週に買い取ったものを店に並べているところに行き当たったのがよかったようだ。

 一日で三冊。

 この分で行けば案外早くに全部を回収できるかもしれない。

 久々の心地よい疲労感の中で、真琴は満たされた気持ちになっていた。

「ごちそうさまー」

「はーい、まこちゃん、またね」

「おやすみ」

 女将に手を振って店を後にする。

 アパートは目と鼻の先だ。

 今日はこのまま帰ってもいいが、くるりと真琴はアパートに背を向けた。歩道橋に向けて歩き出す。

 定点観測をやめるわけにはいかない。

 そう、これは自分にしか出来ないこと、やるべきことのひとつだ。

 歩きながら、そうだ、と真琴は携帯を取り出した。覚えていた篠原の携帯に掛ける。きっとまた留守電だろうから、見つかった報告だけをしてすぐに切ればいい──そうだ。

 留守電なら慌てないし。

『はい』

 だが、予想を裏切って聞こえてきた低い声に、え、と真琴は固まった。

 アナウンスの声じゃない。

『篠原です』

 繋がった。

 ──え?

 繋がった?

『篠原ですが──』

 繋がってる!

 もしもし、と篠原が言って、真琴は焦って声を出した。

「あ、も、もしもし、あのっ」

『ああ、水戸岡くん?』

「そう、です」

 俺は一体何やってるんだと座り込みそうになりながら真琴は答えた。

「お仕事中にすみません」

『いえもう帰るところなので』

 車のドアが閉まるような音が、篠原の向こうから聞こえた。

 自動車通勤か。

『昨日貰った電話と番号が違うみたいですが、じゃあこれは水戸岡くんの?』

「あ──」

 しまった、と真琴は思った。うっかりして自分の携帯でかけてしまったのだ。篠原に渡した名刺にもプライベートの携帯番号は載せていない。

「すみません、俺間違えちゃって…」

『大丈夫、こちらも登録しておくよ』

 かすかに笑いを含んだ声に真琴はどきりとした。

 昼間とは違う、少しくだけた言い方に意味もなく心臓が跳ねる。

『水戸岡くん?』

「あ、はいっ」

『何か用だったんじゃないですか?』

「あ」

 そうだった。ちゃんと言わないと。

「そう、そうです。あの」

 真琴は今日の成果を報告した。話しながら、戻ってしまった口調が少し惜しいと思っていた。

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