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 高橋が所長を務める高橋調査事務所は、その名の通り調査を主とする会社だ。会社と言っても所長ひとり事務員ひとり雑用ひとりの内情なので、名称としては事務所と言った方がしっくりとくる。調査をするのも所長である高橋がひとりで行うのだ。

 依頼の内容は多岐に渡るが、多いものは探査だった。失くしたものをもう一度手に入れたいと思う人は案外と多く、だが探偵に頼むまでもないような些末な事が高橋の事務所に持ち込まれる。高橋は探すのが上手かった。大抵のものは探し当て、依頼人に渡してきた。そうして口から口に事務所の評判は広まっていき、最初こそ訪れるものは一週間に一人もない日もあったが、今では毎日何かしらの仕事が舞い込んでくる。

 そろそろもうひとり調査員が欲しいと高橋がこぼしていたことは、真琴の知らない事実だった。

「えーと、…篠原さんは、電話では捜し物があるということでしたけど…?」

 差し出された名刺を受け取りながら、真琴は言った。

 シノハラはやっぱり「篠原」だった。

 篠原了嗣しのはらりょうじ、商事会社の課長とある。

 会社の人事など真琴にはよく分からないが、この若さで課長とは、きっと優秀な人なのだろう。

「はい」

「捜し《物》って言うには、人じゃないですよね。どういったものですか?」

 篠原はじっと真琴を見下ろした。座ってはいても上背があるため、どうしても彼のほうが目線が上になる。

「…これです」

 篠原は持っていたビジネス用の鞄の中から封筒を取り出して、テーブルの上に置き、そっと真琴のほうに指先で滑らせた。

 真琴はそれを手に取った。

「開けてもいいですか?」

「どうぞ」

 封筒の中にはノートサイズの紙が2枚、綺麗に折りたたまれて入っていた。開いてみると、丁寧な字でびっしりと文字が書き連ねてある。

「えーと…?」

 見れば上から順番に数字が割り振られていた。1で始まり全部で11、数字の横にはタイトルと作者名、出版社名が分かりやすく記されている。これはどう見ても…

「本、ですか?」

「はい」

 篠原は頷いて茶を飲んだ。

「私の妻が私に無断で売り払ってしまったものを取り戻したいと思ってます」

「無断で、…奥さんが?」

「ええ、まあ、正確には元妻ですけど」

「どうしてまた──」

 あ、と思って真琴は口を噤んだ。あまり立ち入ったことは聞かないほうがいいんだっけ。

 けれど篠原は何でもないといったふうにあっさりと言った。

「私の気持ちが自分にないと知って、その腹いせに」

 気持ちがない──つまり、冷めてしまったということか。

 はあ、と真琴は相槌を打った。

「そ、そうですか…それはまた」

 お気の毒に、と危うく言いそうになったのを何とか真琴は堪えた。

 中途半端に切れた言葉の端が気まずい。

 なにか、なにか言わないと。

「でも燃えるゴミに出さないで売っただけマシって言うか──」

 はたと篠原と目が合った。

「え?」

 しまった。

 いや、違う違う。違うっ。

「いやその、ちょっとは良心的って言うか、優しい? ってか、いや、ご、夫婦のことなんで、あれですけども…あの、えとっ」

 うわもう俺どうしよう。

 思っているような言葉が全く出てこなくて焦り、真琴の背筋を冷や汗が伝った。無表情でこちらをじいっと見ている篠原が怖い。表情から感情が全く見えない。怒らせたかもしれない。

 こういう人はすごく、すごく苦手だ。

 どうしよう。

「そうそう、ドラム缶に放り込んでガソリンかけて燃やしたって人もいましたもんねえ」

 はっと横を見ると、増村がお茶のおかわりを持って立っていた。

 どうぞ、と篠原の湯飲みを取り換える。にこっと笑い、ね、と真琴に言った。

「あれは大変でしたよねー」

「あ──はい、うんっ、そうでした」

 助け船を出してくれたのだと真琴は大きく頷いた。

「あのときは服でしたねー」

「……」

 服、と篠原が小さく呟いた。

「浮気に逆上した奥様が旦那さんがコレクションした服を全部燃やしちゃったんです」

 それは半年ほど前に持ち込まれた依頼のことだ。その夫から燃やされた服と同じものを手に入れたいと言われ、高橋があちこち走り回ったのを覚えている。

 夫の燃やされた服は全てアンティークやビンテージものだった。一本80万もするジーンズがリストの中にあったときは、真琴は開いた口がふさがらなかった。

 5千円のジーンズだって俺は買うのためらうのに!

 世の中にはそういう人種もいるのだと、改めて思い知らされた気がした。

 結局、高橋が奔走したにもかかわらず、何着かは揃わなかった。完全には依頼をまっとうすることは出来なかったが、今でもまだ高橋は暇を見つけては同じ服を捜しているようだ。

「だからって比較するわけでもありませんけど、売られたのならまだ見つけられる可能性が大きいです。そうですよね、水戸岡さん」

「は、はい、そう──そうですっ」

 話を振られ真琴は大きく頷いた。

「売りに出された店なんかから、ある程度は追えるかと…」

「そうですか」

 おかわりのお茶を篠原が手に取ったところで、そっと真琴に目配せをして増村は出て行った。ありがとう、と心の中で手を合わせて、真琴も自分の湯飲みに手を伸ばした。

 一口飲んでテーブルに戻すと、篠原も同じタイミングで湯飲みを置いた。

「売られた本は私の大事なものです。貴重なものも含まれていて、もう手に入らないものもある。ずっと大事にしてきて──本当は自分で見つけるべきでしょうが、生憎と時間が取れない」

「お仕事されてますもんね」

「はい。今は少し──忙しい時期なので」

 役職がついていればそうなのだろう。

 篠原がスーツの上着の内ポケットから紙片を取り出した。

「これが売った店の名前です。何軒かに分けて売り払ったようですが」

 先ほどと同じ丁寧な字で店の名前が書かれていた。

「聞き出せたのはそこに書いたもので全部です。もう何軒かあったようですが、本人は思い出せないとのことで」

「そうですか…」

「私は諦め切れない。今手放したくはないんです。どうか、お願い出来るでしょうか」

 真琴は紙片に目を走らせた。

 書かれていた店は4軒、どれも都内にある古書店のようで、疎い真琴でも耳にしたことのある店名だった。あの界隈にはまとまった古書店街があるから、そこからしらみつぶしに当たればどうにかなりそうだが…

「お気持ち、すごく分かります。…取り戻したいですよね」

 ゆっくりと真琴は顔を上げた。

「でも、僕ひとりでは決められないので、あの…所長に話しますので、少し待ってもらってもいいですか?」

 篠原は無表情な顔で真琴を見つめている。

「どれくらい待てば?」

「明日…中には」

 売られたものが貴重本ならすぐに転売される可能性もある。

 本当は今すぐにでも返事をしたい。

 けれどその権限は真琴にはなかった。

 もどかしいだろうな、と真琴は感じた。ここまでわざわざ出向いてきたのに、すぐに返事がもらえないなんて。

 じっと真琴を見たまま篠原は頷いた。

「分かりました」

 ちらりと腕時計を確認する。その仕草に、苛立った様子はなかった。

「…もう行かないと。それでは明日中には連絡してください。連絡先は」

「ここでいいですか?」

 渡された名刺に小さく書かれた携帯番号を示すと、篠原は手を伸ばしてその名刺を取った。

「いえ、これは社の携帯なので、こちらに」

 名刺を裏返し、何も印刷されていないそこに、ボールペンで数字を書きつけた。

「プライベートの携帯番号です。取れないこともありますが、メッセージを残してくれればこちらから必ず折り返しますので」

「はい、分かりました」

 名刺を受け取って真琴は頷いた。

 篠原の体温がかすかに残っている。

「それでは、私はこれで」

 そう言って篠原は立ち上がった。事務所を出て行く彼を真琴はドアの外まで見送った。



 高橋が戻って来たのはそれから1時間ほど後のことだった。

「あーもーまいった! まいったまいった、もー信じらんねえわ」

 帰って来るなりそう言ってソファに身を投げ出す高橋に、笑って増村がお茶を出した。

「大丈夫ですかー所長」

「あー…、死にそう…」

 お茶ありがと、と言って高橋は熱いお茶を啜った。

「大変でしたねえ」

 高橋が午前中に会いに行った依頼人は、寝たきりで動けない高齢の男性だった。資産家の彼は余命残り少なくなったのを知り、年若いときに離れ離れになった兄妹を捜してはもらえないかと高橋に相談していたのだが、ちょうどそこに息子夫婦と孫が見舞いと称して訪れ、ひと悶着あったようだ。揉める親子の仲裁に入ったが取りつく島もなく、あげくに息子に不審者呼ばわりされて嫁に警察を呼ばれたりなどして、それはもう大変な目に遭ったらしい。

「ちっくしょー冗談じゃないっての、誰が不審者だよ」

 ぼやきながら髪を掻きむしる。癖のある髪がぼさぼさに乱れて額に落ちた。高橋は目を上げて、その髪の間から向かいに座っている真琴を見た。

「で、おまえはどうだったの? 上手く出来た?」

「…まあ──うん」

 そう言って、真琴は篠原との話を高橋に聞かせた。出来るだけそのまま。自分の思ったことは口にしない。パーテーションの向こうでメモを取っていたのか、途中増村もいくつか補足を挟んでくれて、無事に高橋に報告を終わらせることが出来た。

「真琴くん、ちゃんと出来てました」

 増村の言葉を聞きながら、ふうん、と高橋は頷いた。

「なるほどねえ、蔵書か…」

「俺、明日中には連絡するって言ったんだけど」

「そうだな、ああいうものは流通するのもあっという間だからな…早いほうがいいだろうな」

「じゃあ、受ける?」

「ああ」

 手の中で弄んでいた篠原の名刺を、高橋はテーブルに置き、真琴の前に滑らせてきた。

「受ける。ただし動くのはおまえだ真琴、俺はもう手一杯だからな」

 え、と固まった真琴に高橋はにやりと笑った。

 俺?

 俺が動くの?

 弾かれたように真琴は立ち上がった。

「い、いやいやいやっ、ちょっと待ってよ! 何言ってんだよ!」

「俺が無理ならおまえしかいねえだろうが」

「いや、だってっ──俺素人だよ? 出来ないって、そんなのっ」

「じゃあ断るしかない」

「そっ──」

 それは嫌だ、という気持ちが即座に真琴の中に落ちてきた。

 その感情に当の真琴自身が驚く。

 なんで?

 それを見透かしているように高橋が言った。

「知ってるだろ? 本当に俺はもう手一杯なんだよ。また俺はあの爺さんとこに行かなくちゃならない。他にもあれやこれや山積みだ」

 真琴は俯いた。

「わ…分かってる、けど」

「だからおまえがやるしかない。受けるなら」

「……」

 落とした視線の先には篠原の名刺がある。

 諦め切れないと言った篠原の言葉がどこからか聞こえてきた。

 その気持ちを、真琴はよく知っている。

 自分ではない誰かから、ある日突然、有無を言わさずに奪われてしまったもの。それを求める気持ち。

 よく分かる。

「もうここに来て2年だろ、そろそろ外に出てもいいんじゃないか」

 そんな、何もしてないみたいな言い方するな。むくれた声で真琴は呟いた。

「……実家、手伝ったじゃん」

「ま、それは別として」

 肩を竦めて、高橋はどさりとソファの背にもたれた。

「どうする?」

「……分かったよ」

 真琴は小さく言った。

「俺がやります」

 よし、と増村が高橋の後ろでガッツポーズをした。

 にやりと高橋が笑った。まるではじめから真琴がそう答えるのを分かっていたような顔に、真琴は思い切り顔を顰めてみせた。



 明日を待たないで真琴は篠原に電話を掛けた。

 増村が帰宅したあとの事務所は静かだ。

 少し休憩を取った高橋は、あれからパソコンに向かってずっと何かを打っている。

「……」

 名刺の裏に書かれた番号に掛けた。掛けたのは事務所で契約している携帯からだ。真琴は自分のデスクに座り、篠原が出るのを待った。

 プツ、と繋がる。

「あ、もしも──」

 とたんに、ただいま電話に出ることが出来ません、とアナウンスが流れた。

 そっか、取れないって言ってたもんな。

 時刻は17時半を過ぎていた。

 留守録のサービスに切り替わる。通知音の後に真琴は用件を吹き込んだ。

「じゃあ先帰るね」

 19時過ぎ、作業が終わらないという高橋に、バックパックを背負った真琴は言った。今日はこのまま事務所に泊まるようだ。

「おう、気を付けて帰れ」

「うん」

 ドアを開けて振り返る。

「あんまり無理しないように」

 閉まるドア越しに高橋がかすかに笑ったのが聞こえた。

 階段で一階に降りると──古い建物なのでエレベーターはないのだ──菓子店の看板がちかちかと点滅していた。渡瀬が言ったように接触が悪いのだろう。ぽんと手のひらで叩くと、何度か瞬いて、目が覚めたように綺麗に点いた。

「お、いいね」

 菓子店はまだ営業中だ。窓越しに見れば、明るい店内に若い女性客が何人か入っていた。最近はSNSに菓子の写真を投稿し始めたとかで、それを見た客がよく来るようになったらしい。渡瀬とバイトの女の子が忙しそうに接客している。真琴はそれを見ながら歩き出した。

 篠原から折り返し電話が来たのは、真琴が家に着いてからだった。

 風呂から上がると、ベッドの上に置いておいた事務所の携帯が鳴っていた。慌てて真琴は手に取った。

「はいっ、高橋調査事務所、水戸岡です」

『…水戸岡くん?』

「はい、あの、こんばんは」

 言ったとたんに後悔した。

 いやさっき会ったばっかじゃん!

 何言ってんの俺…

「あ、いやあの、っ、違いますごめんなさいっ、えと」

 耳の傍で、かすかに篠原が笑ったような気がした。

『大丈夫、こんばんはで合ってますよ』

「そ…」

 そうですね、と真琴は真っ赤になって呟いた。

 何してんの俺、恥ずかしすぎる。

 ここが事務所じゃなくて、高橋がいなくてよかった。

 ベッドの端に腰を下ろしながら真琴は言った。

「あの、篠原さんのご依頼ですけど」

『ああ、聞きました。引き受けてくださるそうで、ありがとうございます』

 真琴が入れた留守録を聞いてくれたようだった。折り返し電話が来たらそう言えと言われていたことを真琴は続けた。

「いえ…あの、それで一度、お時間あるときに高橋がお会いしたいと…」

『そうですか』

「何度もすみません、こちらから伺いますので、都合のつくときを言ってもらえれば」

 いえ、と言う篠原の言葉の後に、わずかな沈黙が降りた。

『では明日はどうでしょう? 昼前に少し時間が取れそうですが』

「えっ、ほんとですか?」

 明日高橋が出掛ける予定はない。一日事務所にいるようだった。ちょうどよかったと真琴はほっとした。

『じゃあ11時に』

 篠原はそう言って、会社の近くの喫茶店を指定した。真琴はそれを手近にあった紙に急いで走り書きした。

「じゃあ明日、よろしくお願いします」

『こちらこそ』

 おやすみなさい、と真琴が言うと、わずかな間があった。

 静かな声で篠原が言った。

『おやすみなさい』

 それは深く心に残るような声だった。

 篠原が電話を切るのを待って、真琴も通話を終えた。すぐに高橋に連絡を入れて了解の返事をもらう。

『分かった。もう寝ろよ、おやすみ』

「おやすみ」

 そこまでしてほっと息を吐いたところで、この依頼を自分がやると篠原に言っていなかったことに真琴は気がついた。

「──あ」

 高橋じゃなく自分が連絡をしたのはそれが理由だったのに。

「なにやってんの俺…」

 肝心なことを言わなかったなんて。

 馬鹿か俺は!

 明日篠原に言ったら、それは嫌だと断られるかもしれない。

 あの無表情な顔で。

「うわ、…どうしよう」

 自分の迂闊さにほとほと呆れ返って、はあ、と深く真琴は肩を落とした。

 


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