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 ざわめきの中で目を覚ませば、そこは事務所の中だった。

 ああ眠っていたのかと目を擦る。

 ぼんやりとした視界。窓の外は下から見上げる角度で青空が広がっていて、蟻ほどの小ささの飛行機が横切っていた。

 いい天気だ。

「おい、仕事しろよ」

 声に目を上げると、逆さまに覗き込んでいる雇い主の顔があった。

「んー」

「いつまで寝転んでる気だ? そのソファは俺んだぞ」

 ふああ、と欠伸と共に大きく伸びをして真琴まことは体を起こした。

「しょうがねえなあ」 

 起き上がった頭の上に、ぽん、と何かが乗った。額をずらして上目に見れば、束ねられたレシートの束だ。

「ほら、これ入れといて」

「はいはい」

 ぞんざいに受け取って指先でぱらぱらと捲る。そうして真琴はようやく大儀そうに重い腰を上げた。



 高校の先輩だった高橋の元で仕事を始めてから2年が過ぎた。覚えた事務作業はほとんどが与えられた数字をパソコンに入力するだけというものだったが、これがなかなか思うようには行かず、真琴は未だに四苦八苦する日々だ。もともとそれほど機械にも詳しくはない。

「あー、またミスったっ」

 最期の数字を入れようとしたところで帳尻が合わなくなってはじめて真琴は自分の間違いに気がついた。指でひとつひとつ遡れば、どうやら最初に入力する箇所を間違えていたようだ。

「またイチからやり直しかよお…」

 カタカタとキーボードを叩いて削除するのが虚しい。

「真琴くん、またですか」

 横からひょいと先輩事務員の増村ますむらがパソコンの画面をのぞき込んでくる。肩同士が小さく触れる。やたらと距離は近いが、彼女は既婚者なので真琴はまるで気にしない。若い見た目だが増村は10歳も上だった。

「あー、もう、ここからだってこないだも言ったのにー」

「分かってるんだけどさあ、全然慣れないんだよ。なんなのこのエクセルって、頭おかしいの」

「おかしいのはおまえの頭だボケ、いい加減慣れろ。増村さん、駄目、教えなくていいから」

 真琴の横から手を出してキーボードに触れようとした増村を高橋が止めた。

「でもこれじゃ終わりませんよー」

 いいの、と高橋は渋い顔で言った。

「終わんなかったら給料無くなるだけの話。──真琴」

 所長のデスクから高橋が目だけを上げて真琴を見た。

「甘ったれないでやれ」

「…はいはい」

 増村が自分のデスクに戻って行くのを見ながら、仕方なしに真琴はまたキーボードを押した。

「じゃあお疲れ様でしたー」

 17時になり、増村は帰り支度をして立ち上がった。子供を保育園に迎えに行くので彼女には残業はなかった。

「はーい、お疲れさまでした」

 にこやかに帰って行く増村に手を振って、真琴は終わらない仕事を続けた。高橋は人に会うために外に行ってしまった。今日の分が出来たら先に帰っていいと言われていたが、この分だと高橋が事務所に帰って来るほうが早そうだ。

 ひとりきりの事務所内に拙い指運びのタイピング音が途切れ途切れに響く。

「…んー、と」

 渡された書類をきれいに清書するだけなのに全く進まない。

 いつまでたってもちっとも慣れる気がしない。

 悪戦苦闘しながらも真琴はなんとか清書を仕上げた。時刻はもう19時近い。プリンターに送信したところで高橋から事務所の電話に連絡が入った。

『おー、おまえまだ事務所か?』

「そうだけど」

 プリンターから吐き出される紙を眺めながら、真琴は言った。

「もう終わった?」

『いや、まだちょっとかかりそうでな、俺は終わったらそのまま帰るから、おまえ事務所の戸締り頼むな』

「はーい」

 高橋のデスクを振り返る。鍵は引き出しの中だ。

『あんまり夜遊びすんなよ』

 かすかに笑いを含んだ声と同時に通話は切れた。受話器を電話に戻して、真琴はプリントアウトされた書類を取り上げた。



 荷物の入ったバックパックを背負い、戸締りをして真琴は事務所を出た。事務所の入っているビルは築五十年は経っている古い三階建ての建物だ。昔は地方銀行だったというが、その名残は外見に見合っていない重厚な木製の階段の手すりにあるだけで、他はどこもかしこも傷んで手入れが必要だった。どの階もワンフロア、三階が高橋の事務所で一階は菓子店、二階は少し前までは設計事務所が入っていたのだが、少し前に出て行った。今は貸事務所と大きく書かれた紙が貼られているだけだ。

「あー真琴さん、お疲れさま。帰り?」

 階段を下りきったところで菓子店の店長に声を掛けられた。三十代半ばの小柄な女性だ。菓子好きが高じて脱サラし、自分で菓子店を始めたと言う人だった。

「お疲れさまー、うん今日はもう上がり」

「試作あるんだけど持ってかない?」

「えっ、いいの?」

 いいのいいの、とエプロンで手を拭く。よく見れば、表の看板を直していたようだった。

「あれ、壊れた?」

「んーなんか接触悪いみたいだね。中古だから仕方ないね」

 両開きの扉をくぐりながら店長──渡瀬わたせが笑った。真琴も彼女の後をついて店内に入る。

 店番の女の子に会釈をするとはにかんだようにその子が笑った。

 レジの奥から紙袋を取り出して、はい、と渡瀬は真琴に渡した。

「春向きの商品なんだけど、あんまり色が綺麗に出なくって。あ、味は大丈夫だから」

「大丈夫。いつも美味しいよ」

 紙袋の中を覗いてみれば、緑やピンクの小さな焼き菓子がたくさん入っていた。ひとりでは食べ切れないほどだ。

「うわ、美味そう! ね、これ皆にもあげていい?」

「うん。どうぞどうぞ。食べてくれたらこっちは大助かりだよ」

「そっか、ありがとう」

 紙袋を手に提げて真琴は店を出た。木製の扉のガラスからこちらを見て手を振っている渡瀬が見える。同じように手を振り返した。

 明日ふたりにも食べてもらおう。増村は甘い物が好きだからきっと喜ぶだろう。

 通り沿いを歩き、途中のコンビニで適当におにぎりをふたつ選んで買った。そしてまたしばらく歩いてから真琴は道を折れ、その先にある歩道橋をいつものように上がって行った。

 


 夜はもう春の匂いがしていた。先月まではあれほど冷たかった風も、暖かくて、ほんの少し湿っている。

 歩道橋の欄干から下の道路が見える。ひっきりなしに通り過ぎる車。ヘッドライトの明かりが途切れることなく続いている。

 空と建物の境に向けて一眼レフのシャッターを切った。切り取られた夜空の下のほうはぼんやりと明るくなる。真琴はそれが好きだった。

 毎日同じ場所で繰り返す。

 夜景を定点観測するのが真琴の日課だ。

 夜を切り取っている。

 高橋は夜遊びと笑うけれど、やめられない習慣だ。

 コンビニの袋からおにぎりを取り出してパッケージを剥き、ひと口齧る。鮭だ。中身を見もしないで買ったけど、当たりだったな。

「…うま」

 三口で食べ終わってまたカメラを構えた。

 ファインダーの中をヘッドライトが線になり泳いでいく。

 この一瞬。

 カシャ、と心地よい音を掻き消すようにトラックが走り抜けた。下から巻き上げられた風に真琴の銀色の髪が揺れた。

 その後ろを家路を急ぐ人たちが通り過ぎていく。

 時折感じる視線。

 そうしたものを真琴は気にしない。目の前のものだけに没頭すれば何もかもが消えてしまう。

 人の声も音も、何もかも。

 自分が思うほどに人は他人を見ていないものだ。

 そう、誰もが通り過ぎた瞬間に忘れている。

 振り向いたのはたった一度きりだ。

 星のない夜空に向けて、真琴はシャッターを押した。


***


 事務所の電話が鳴っていた。

「あーはいはいっ」

 給湯室でコーヒーを淹れていた手を慌てて止め、走って受話器を取り上げた。

「っはい、高橋調査事務所!」

 焦っていたせいかがなり立てるように言ってしまい、しまった、と真琴は周りを見回した。幸い高橋も増村もまだ帰って来ていない。高橋は近くのコンビニに、増村は役所に遣いに行っていた。

 ほっと真琴は肩を下ろし、決められた言葉を言った。

「ご──ご依頼ですか?」

 はい、と相手が答えた。低く落ち着いた男の声だ。

「どういったご依頼でしょう?」

『捜して欲しいものがあるんですが』

「そうですか、捜し物ですね」

 メモ用紙に書きつけ、事務所を訪れる日にちを確認する。男は明日はどうかと言った。

「明日、はい──大丈夫です。時間は…」

 壁に貼られたカレンダーで高橋のスケジュールを確認すると午後が空いていた。その時間を指定すると、男は了承した。

「じゃあ、お名前お願いします」

『篠原です』

「シノハラさん」

 とりあえずシノハラは「篠原」だろうとメモに走り書きする。

 電話で事前に連絡をくれる人には連絡先を訊かなくてもいいと高橋に言われていた通り、真琴は日時の確認だけを繰り返した。

「では明日、お待ちしています」

『はい』

 相手が切るのを待ってから受話器を置いたところで事務所のドアが開き、高橋が帰って来た。

「あー今依頼ありました」

 へえ、と高橋はコンビニの袋をデスクに置いた。

「ちゃんと言えたか?」

 がさがさと袋の中から出しているのは昼の弁当だ。

「あたりまえだろ」

「そりゃよかったねえ」

 どれだけ子供扱いだとむっとした真琴に構わず、高橋は割り箸を割り、弁当の蓋を開けた。ふわっと立ちのぼる湯気、ハンバーグのいい匂い。

「いつだって?」

「明日、午後15時、シノハラさんって男の人だった」

「はいよ」

 ぱくりと一口食べて高橋は言った。

「真琴、お茶」

「はいはい」

 むすっと言い返して、真琴は給湯室に大股で戻り、淹れかけだったコーヒーと高橋のお茶を用意した。

 


 翌日、午前中の仕事が押してしまい、午後になっても高橋は事務所に戻って来なかった。シノハラとの約束の時間まであと30分というところで事務所の電話が鳴った。

「はい、高橋調査…あ、所長、…え? そうですか、はい」

 受話器を取った増村の顔が段々と曇ってくる。自分のデスクで伝票整理をしていた真琴は増村の声を聞きながら壁の時計を見上げた。

 14時42分。確か高橋の出先は二駅ほど離れたところではなかっただろうか。車で行ったはず。

 今から帰って来るのだろうか。

 間に合う?

「え? ええと、それだい…はい──はい、うんうん」

 しきりに首を捻りながら増村が頷いている。

「じゃあ、それで伝えておきますね。替わります? …ふふ、はい」

 それじゃ、と言って増村は受話器を置き、見ていた真琴を振り返った。目が合うと、にこっと笑う。

「真琴くん、15時からのお客様、お願いするって」

「え……、は?」

「所長まだ手が離せなくて帰って来れないから、真琴くんに頼むって」

 がたん、と真琴は立ち上がった。

「え、ちょっ、ちょっと待ってよ、俺出来ないよっ」

「あーだいじょーぶだいじょーぶ」

 へらっと増村は笑いながら手を振った。

「増村さーんっ」

「大丈夫、ここに来て2年も経つんだからちゃんと出来るって、所長が」

 青くなった真琴に、ね、と子供に言い聞かせるように増村は言った。

「私もいるから」

「……はい」

 泣き言を言ってももう時間はない。

 仕方なく、真琴は小さく頷いた。



 15時を1分過ぎて事務所のドアが開いた。

 スーツを着た背の高い男が、ドアの傍に設えてある小さな受付の前に立った。

「こんにちは」

 電話の声だ。

「こ、こんにちはっ」

 がたっと音を立てて真琴は椅子から立ち上がった。

「昨日電話した篠原ですが」

「はい、シノハラ様、承っております」

 受付から出て、真琴はこちらにどうぞ、と客用の応接スペースに案内した。手と足が強張って一緒に出そうになるのをなんとか堪えながら、数歩歩けば着いてしまう応接ソファを篠原に勧めた。パーテーションで簡単に仕切られただけの空間だが、意外と密閉感があって落ち着く場所だ。

「俺──あ、僕は水戸岡みとおかといいます。よろしくお願いします。どうぞ」

 立ったままの篠原にソファに掛けるよう促すと、篠原は少し真琴を見てからゆっくりとソファに腰かけた。革張りのソファが沈む音がする。真琴もローテーブルを挟んで向かいのソファに座った。

 篠原はまっすぐに真琴を見ていた。

「所長の高橋さんではないんですか?」

「あの、高橋は、午前の依頼人との面談が長引いてしまって──」

 じっと見続けられることに、段々と真琴の声が小さくなっていく。やっぱりまずかったかな、と気が重くなった。俺じゃ駄目だ。

 髪、銀色だしな。

 調査の依頼に来て、こんななりの若い男が出て来てはきっと気分を害したはずだ。自分のことはどう見られようとかまわないが、事務所の信頼を損なったかと思うといたたまれなくなった。

 とにかく、ちゃんと話さないと。

「シノハラさんとのお約束に間に合わなくなってしまったので、お、僕が代わりにお話を…」

「そうですか」

「…すみません」

 平坦な声に、俯いたまま真琴は言った。

「いえ」

 失礼します、と言って増村がお茶を持って来た。篠原の前に茶菓子とお茶を出し、真琴の前にもお茶を置いて、そっと篠原に見えないように真琴の背中を押して出て行った。パーテーションの向こうをかすかな足音が歩いて行く。

「髪、染めてるんですか?」

 え、と真琴が顔を上げると、篠原と目が合った。

「髪?」

 そこで真琴はようやくまともに篠原の顔を見たことに気がついた。

 こんな顔だったのか。

 年は30を過ぎて見える。落ち着いた印象──黒い髪。男らしい精悍な顔つき。

 焦って全然見えてなかった。

「あ……え? いや、…はい」

 ぎこちなく真琴が答えると、篠原は湯飲みを手に取った。

「綺麗な髪ですね」

 そう言ってゆっくりと飲む篠原は、まるで無表情だった。


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