第8話 暗雲





 木の匂いが漂う静かな部屋。

 灯だけが揺れる殺風景な黒い世界に、ベッドの軋む音が響いた。




 ――オウルに会えるかもしれない!




(何で……)


 その声が、どうしても離れない。

 両腕を枕代わりにし、言葉を発することなく呟く。

 点在するシミを映していたオウルの瞳が、不意にその焦点を合わせられなくなった。




 ――クランにも入ってないって聞いたし何回も話せばきっと仲間になってくれるはず!




 理由が、わからない。

 夕焼けの美しかったあの日。

 確かにその日、オウルはミリアの伸ばした手を振り払った。

 クランに入れない理由があったから。

 いや、クランに理由があったから。

 だから。

 痛む心を無理に押し込め、その手を振りほどいたはずなのに――




「……やめだ、やめ」


 寝返りを打ったオウルは、雁字搦めになりそうな思考を追い払うように吐き捨てた。

 いくら考えたとしても、心の全てを理解することなぞできるわけがない。

 それが他人の心ならばなおさらのこと。


「『水よウォート』」


 ポチャン、と何かの濡れる音。

 一瞬にして暗闇に支配された空間。

 大きく息を吐き出し、離れていた硬い枕を手繰り寄せたオウルは、重くないまぶたをゆっくりと下ろした。


 まるで、何かから逃げるかのように、ゆっくりと――




 ☆☆☆




 痛みと眩暈を覚えそうな程に強い光を放つ朝日が、眩しかった。

 おもむろに起き、何を思うのでもなく安宿を出立したオウルは、人気の少ない道を歩いてギルドへと向かっていた。


「……ちょっと贅沢し過ぎたか」


 強い風が、小さく体を押した。

 臨時収入を得てから約二日。

 まだ、二日しか経っていない。

 それにも関わらず、軽く空へ放り投げても緩やかに落ちてくる程に財布は軽くなっていた。

 目に付いた肉を買ってはそれに舌鼓を打っていたことを覚えているオウルは、小さく溜息を吐いた。


「もしかして俺って……結構な浪費家か?」


 そう呟いてから、すぐさま頭を振った。

 そんなはずはない。

 飢えた人間に金を渡せば食費ですぐになくなるのは当然の摂理。

 つまりは、不可抗力なのだ。


(そう、これは仕方ないことなんだ。悪いのは飯一つで金を要求してくる商人達であって俺じゃない。そうだ。俺は悪くない。俺は悪くない!)


 第三者が聞けば白い目を向けそうな言い訳を吐きつつ、寂しくなった財布をポケットへ突っ込む。

 思っていたよりも広くないこの街は、中心にある広場へ向かうのに何時間も必要としない。

 広場からギルドまでに至っては行くのに数分も必要ない。

 そんなこんなであっという間にギルドへ辿り着いたオウルは、見慣れてしまった両開きの扉に触れ、押し退けた。


「さーて、依頼依頼っと」


 珍しく人気の疎らなギルドの依頼があるボードの前。

 近くの椅子を掴み寄せたオウルが、いつものように背もたれへ両腕を乗せつつ仕事探しを始めた。


「仕事は一週間に一回で仕事時間は三分。仕事の間は好き放題できて、ちゃんと給料も貰える。……そんな感じの依頼ねえかなぁ」


 相変わらず、働き手の苦労を感じさせる不並びな依頼。

 それを一つ一つ読み込んでいたオウルは、目を上から下まで動かしたところで、ふと首を傾げた。







(……あれ?)






 何かが小さく引っ掛かる。

 オウルは、もう一度依頼のボードを見回した。


「『水汲み』、『ドブさらい』、『ゴミ拾い』、『荷物の運搬』、『護衛』…………」


 小さな声量で音読するのは、一つたりとも見落としをしないため。

 上から下へ。

 そして、下から上へ。

 一通りの依頼を読み込んだオウルの目から、明るい光が消えた。


「…………ないな」


 あることに気付くや否や、黒い光をたたえた浅葱色の瞳が鋭く細められた。

 オウルの抱いた違和感。

 それは些細な変化なのかもしれない。

 だが、ここヒルグリフという街のことを考えれば、その変化はものだった。


(行くか)


 違和感の元は掴んだ。

 あとは、聞くだけ聞けばいい。

 ボードから目を離し、椅子から立ち上がったオウルは、真っ直ぐにギルドの奥へと向かった。

 少しづつ人の出入りが多くなり、ギルド内の人口密度が増していく。

 それでも向かった先――ギルドの受付には、まだ並ぶような人数はいない。

 これ幸い、と空いていた受付窓口の前に立つ。

 そんなオウルを迎えたのは、三十代から四十代に見える男性の職員だった。


「おはようございます。どうかしましたか?」

「ちょっと聞きたいことがあって来た」

「聞きたいことですか?」

「あぁ」


 チラリ、と僅かに隣の相談窓口を見た職員の口から疑問の声が出た。

 最もだろう。

 男性職員はあくまでも受付の担当をしているのであって、相談の担当を受け持っているわけではない。

 しかし、顔に疑問符を浮かべた職員へ構わずにオウルは、口を開いた。







「『マギラの森』について聞きたい」

「っ!」







 些細な変化の理由。

 オウルが掴んだ違和感の正体。


 それは、『マギラの森に関する依頼がない』ことだった。 


 一昨日や昨日まではマギラの森での依頼も多々あったはずだった、とオウルは記憶している。

 それが今日になって、

 ここヒルグリフにとって戦争でも起きない限り、最も脅威になりえる場所はマギラの森以外にはないはずだ。

 なのに、そのマギラの森に関する依頼が『一つも』なかった。

 故に、オウルは断言する。


「何かあったのか?」

「え、えぇ」


 オウルの声色が少し冷たくなっていた。

 目の前の青年が放つ『圧』に、戸惑いと怯えの混じった表情を浮かべた職員は、オウルに気圧されながらも恐る恐る話し始めた。


「じ、実は、昨日の夕方頃に報告がありまして」

「報告?」

「は、はい。何でも森の中でヴォルフの『群れ』を見たとのことで……」

「……なんだって?」


 耳を疑ったオウルが訝しんだ。

 対する職員の男性も、怯えの代わりに不思議そうな色を混ぜた表情を浮かべていた。


「ヴォルフが、群れていたのか?」

「はい。そのように聞いております。ただ、その真偽が確認できたわけではないので……ギルド長から『念の為、マギラの森関連の依頼を外すように』と言われまして」

「なるほど……」


 一しきり頷いたオウルは、「ありがとう」という言葉だけを残して受付を離れた。




(ヴォルフか)


 足の向かう先は、ギルドの軽食コーナー。

 そこでテーブルにでも腰を落ち着けようとしていたオウルは、顎に手を添えたまま思案していた。


 狼の魔物である『ヴォルフ』。

 やせ細った身体と、それを覆う黒く縮れた体毛。

 牙や爪が鋭く、好戦的で、危機察知などの反応も早い。

 だが、基本的にヴォルフは単独で活動しており、低ランクの魔法使いでも討伐は不可能ではない。

 そこから、ギルド側の示した危険度は『Cランク』。

 なのに、


(『群れている』か。だとしたら……)


 オウルが戦ったオランザールは単体の強さで言えばその危険度は『Dランク』程度。

 それでも群れて集団となれば『Cクラス』にまで危険度が引き上げられる。


 ならば、ヴォルフはどうだろうか。

 単体であるにも関わらず、その強さは『Cランク』水準。

 そんな魔物が群れて集団を形成してしまったら、危険度は一気に『Bクラス』近くまで引き上げられることだろう――と、考えたオウルは、小さく溜息を吐いた。


「……あんまし、考えたくないな」


 足が空いていたテーブルの前で止まった。

 手を掛け、椅子を引く。

 そこに腰を重く押し付けると同時に、オウルは思い出した。


 否、思い出して、しまった。




 ――明日マギラの森に行かない?




 ――へ? 明日?




 ――そう。明日!




 ――なんかね。オウルがマギラの森に行ってたって昨日受付の人が教えてくれたの!




 ――オウルに会えるかもしれない!







 始めて言葉を交わしたあの日からずっと。

 オウルの耳にこびりついては離れない、アイリスとそっくりな少女ミリアの声。

 そういえば、







 ――あの子たちは昨日、『どこに行く』と言っていた?







「っ!」


 両手をテーブルに打ち付け、強く押し出された椅子が大きな音を立てて倒れた。

 焦燥に駆られたオウルの鼓動が、激しくうめき始めた。


 もしも、だ。


 仮に、ミリア達がこのことを知らなければ。


 このことを知らないまま、マギラの森に行っていたとしたら。




 ――彼女達は、どうなる?




 最悪な事態が、悪夢のような未来が、オウルの脳裏へ鮮明に映った。


 血の海に沈む少女の姿が。


 夕焼けの下で、血みどろになって倒れていた少女の姿と重なる――




「クソがぁっ!!」



 気付けば、椅子を蹴飛ばしていた。

 ギルドを飛び出したオウルの体に、薄っすらと魔力が包み込む。


(無事でいてくれ……っ!)


 朝、あれほど晴れ渡っていたはずの空が。


 今は、黒みがかった灰色の雲に覆われようとしていた。



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