Ⅲ.

 カイン・アルザックが死体として発見されたのは、昨日の夜のことであったらしい。


 発見場所は『学院アカデミア』の地下。掃除夫が地下倉庫に保管されている物資を取りに行った際に発見したという。


 今朝、生物学教授ハーヴェイ女史ロード・ハーヴェイが検死した時点の推定で、死後60時間程度が経過していた。つまり死亡推定時刻は3日前の昼過ぎから夕方にかけて、ということになっている。


 ミスリルが検死に立ち会う前、死亡推定時刻が割り出せたタイミングで時流魔術を用いて時を止め、死体の保存に努めたという話だ。しばらく死体が腐ることは心配しなくても良いだろう。


 アルザックの姿が最後に目撃されたのは四日前の昼。学務課に『急なことだが翌日の講義を休講にしたい』という旨を伝えに来たのが最後だとされている。


「つまり、アルザックは何らかの急用があり、そのために姿を消した。その先で死んでしまったということですね」

「ああ。そういう経緯で姿を消していたから、学長マジェスティもひとまずアルザックの死を隠すことができたんだろう」

「死体が発見された現場までアルザックが自主的にやって来た、ということでいいのでしょうか?」

「そう決めつけるのはいささか早計かもしれん。他の場所で殺され、あの場所に遺棄されたという可能性もあるからな」


 ミスリルは手元にある資料をめくりながらミーネに答えた。


 革張りの椅子に深く腰かけたミスリルの肩越しに、ミーネが後ろから資料を覗き込んでいる状況だった。


 本来こういった資料は一学生に過ぎないミーネが見て良い代物ではない。だが捜査がミスリルに一任された以上、ミーネは何を言われようともミスリルの調査についてくるだろうし、その時になって一々状況を説明するのはミスリルも面倒だ。ミーネと言葉を交わすことでミスリル自身も情報が整理されることもあって、ミスリルはミーネが堂々と捜査資料を覗き見することを黙認している。


 ──学長マジェスティは、このことにあまりいい顔をしないだろうな。


 学長がミーネをこころよく思っていないことも、そのにもミスリルは勘付いている。


 だがミスリルに捜査を投げた以上、こうなることは学長もある程度は予想済みだろう。この資料にはミーネに知られてもいい情報しか記載されておらず、本当にミスリルだけに伝えたい情報は後々口頭で伝えられるはずだ。


「極秘案件扱いになっているはずなのに、周囲への聞き込みは中々丁寧にされているようだな」

「あまり大々的に動きすぎると、アルザックの不在について疑問を抱く者が出てきそうですね。期間が長くなっても同様です」

「現場を一度見ておきたいな。魔術物理学研究室の人間への聞き込みと、第一発見者に直に話を聞く必要性もある」

「魔術物理学研究室は、そこそこ大きな研究室です。所属している学生も多いでしょう。口が軽い人間を見繕えば、収穫は大きそうですね」

「任せる」

「はい!」


 ミスリルは淡々と捜査方針を固め、ミーネはいつものごとく嬉しそうに声を上げる。元暗殺者であるミーネにとっては、事件の調査もデートのようなものなのかもしれない。


「第一発見者への繋ぎは、あまり気が乗らないが学長マジェスティに頼むより仕方がない。検死を行ったそれぞれの教授にも、詳しい話を聞いてみたいところだな」

「解析された理論式についてはどうしますか?」


 存外やることが多いな、と溜め息をつくミスリルにミーネは問いかけた。


 その問いに資料をめくる指を止め、ミスリルはしばし考え込むように宙を眺める。


「……崩れていた、という話だったな」

「はい」

「ミーネ、君はそのことについて、どう考える」

「自然崩壊にしては不自然な崩れ方でした。恐らく、一定期間で壊れるように条件付けがされていると思われます。単純な時限式なのか、何か他に崩壊条件が定義付けされているのかまでは解析できませんでした。とりあえず死体を時流魔術で保存してあっても、あの理論式を保存するという点に関しては無意味かと思われます」


 ミスリルからの問いに答えるミーネの声音は滑らかだった。


 その言葉にミスリルは前を見据えたまま頷いて同意を示す。


 ──自然崩壊では、あんな形で崩れてはいかない。あれは明らかに隠蔽を目的とし、外部から力を加えて崩した壊れ方だ。


 ミーネが解析した結果については、学長から預かった資料を広げるよりも先に目を通している。結果、ミスリルが考えたことも、今のミーネの発言とほぼ同じだった。


 数式を解けば解が得られるように、理論式に魔力が通えば魔術が発動する。ミスリルやミーネのような『魔術を式で表す者』にとって、理論式は魔術を発動させるための手段であり、それそのものがもう『魔術』だ。


 理論式というものには、発現する現象の種類を問わず、流入魔力に対する強度を条件付ける項が存在する。


 一般的に複雑な機構を発現させる理論式ほど繊細でもろく、単純な現象を発現させる理論式ほど強度が高い。そのため複雑な理論式には、おおよそ肝になる部分と同じくらい比重が置かれた強度付与条件が前項として添えられていることが多い。


 この理屈の説明には、よくオルゴールと太鼓が例えに用いられる。


 オルゴールを鳴らすための理論式と太鼓を鳴らすための理論式ならば、太鼓を鳴らす理論式の方が単純な分、強度が高い。大音量で両者を鳴らすために大きな力を注ぎ込んだ時、太鼓を鳴らす理論式はその力に応えてある程度まで大音量を響かせることができるが、オルゴールを鳴らす理論式はその大きさを受け止めきれずに理論式そのものが簡単に壊れてしまう。


 魔力を用いない場合でも、オルゴールを大音量で鳴らしたいならば、スピーカーを用意するなり、機械そのものを大きくするなりして何らかの対策を講じなければならない。同じように理論式も、大きな魔力の流入に耐えられるように新たな条件付けをする項が必要になる。


 ──魔術毒の理論式は、オルゴールはオルゴールでも、オーケストラの精緻な演奏をガラス細工のオルゴールで表現するような代物と言える。


 様々な理論式が存在する中、魔術毒を定義付ける理論式は一際繊細な物が多い。そうでありながら、魔術毒は例外的に強度付与条件の前項が添えられるのは稀だ。これはひとえに『魔術毒』という存在の特異性に由来している。


 ──何せ発現がごく小規模かつ短時間で済み、効果が現れた後には理論式が崩れていた方が都合がいいとまで言われるのだからな。


『毒の精製』という複雑な現象を、ごく小規模、短時間のみ発動させられればそれでいい、というのが魔術毒の理論式だ。理論式そのものは複雑かつ繊細だが、必要になる魔力はごくわずかで済む。物によっては行使者そのものが魔力を注がずとも、投与先の魔力を理論式が吸い上げることで発動が可能という省エネルギーな理論式まで存在しているくらいだ。


 結果、『使用後は理論式が壊れていても良い』という前提で理論式は組まれる。魔術毒で殺された魔術師の検体を改めても、魔術師の体内に残留した魔力にさらされ、魔術毒の理論式は自然崩壊している場合が多い。


 だが今回、アルザックの中に残されていた理論式は、それとはまた違う恣意を感じさせる不自然な崩壊の仕方をしていた。


「恐らくだが。万が一解析に掛けられてもいいように、重要な部分から崩れるように定義付けがされていたのだろう。今もう一度解析してみたところで、ろくな結果は得られまい」

「死体の保存は無意味であると、学長マジェスティにお伝えしますか?」

「いや、私達としては無意味だが、他の観点から見ればまだ有益な情報が残っているのかもしれない。まったくの無意味とは言えないだろう」


 アルザックが他殺だった場合、犯人は今回使った魔術毒の特性をきちんと把握していたということになる。


 おおよそ72時間程度が経過すれば、アルザックの中に残された理論式は完全に崩壊し、死体を解析にかけても死因が特定できなくなることを知っていた。だからあえて死体を処理することなく、適度に見つかりにくい場所に放置したという可能性を考えなければならない。


 現にあと一日でも発見が遅かったら、ミスリルをしてもアルザックの中から理論式を見つけ出すことはできなかっただろう。崩れ切ってしまった理論式の残滓は本人が保有する魔力の中に溶けて消えてしまうから、一定以上崩れてしまった理論式を発見して解析するというのは極めて難しいことだ。


 ──つまり他殺だった場合、相手は素人ではなく、魔術毒の扱い方を心得たプロだ。


 アルザックが東西戦争の戦局を変え得る可能性を秘めた要人だったことを踏まえて考えるならば、しかるべき場所から派遣されてきたその筋のプロという線も考えておかなければならない。


 ──面倒なのは……


お師匠様マイロード、自殺という線も消すことなく捜査をしますか?」


 ミスリルが内心で呟いた、まるでその声が聞こえていたかのようにミーネが問いかけてきた。


 ミスリルが養育したせいなのか、ミーネの思考の回り方はミスリルとよく似ている。あくまで理論的な方面でだけ、という話ではあるのだが。


「アルザックの個人的パーソナルな面が見えない以上、『これが自殺ではない』と断言できるだけの要素もないからな」

「了解しました。その辺りの情報は、研究室の人間に探りを入れることで、ある程度推測が可能になるのではないでしょうか」

「任せる」

「承りました!」

「君が解析した理論式については私が預かろう。魔法論文集ポータルを検索すれば、断片から一致する理論式を見つけ出すこともできるかもしれん」

「お願いします」


 これで一通り役割分担は終わった。人に接して情報を得るのはミーネの担当、ミスリルは人に接しない部分から解明に当たることになる。


 対人関係に難があることを自覚しているミスリルが養育したにも関わらず、ミーネは上手く人の中に溶け込むことができる人間に育った。もっとも、その技術は友好関係を温めるためではなく、効率よく周囲から情報を引き抜くために使われているようなのだが。


 ──あるで特殊調査員スパイのようだな。


 事実、ミーネのそんな側面に助けられていることも多いミスリルなので、その点に関してとやかく言うことは控えている。だが養父として言わせてもらうならば、そういう技術は封印して、ごくごく普通の少女として学生生活を送ってもらいたいものなのだが。


 ──まぁ、無理か。


 自分達の成り立ちが成り立ちである以上、それもまた叶わぬ夢、なのかもしれない。


「何から取り掛かりましょうか、お師匠様マイロード。それとも本日はもうお休みになられますか?」


 嘆息とともに手元の資料を机の上に放り投げると、ミーネは背筋を伸ばして後ろで手を組んだ。ミーネの視線が自分からそれたことを気配で察したミスリルは、首だけで振り返るとミーネの視線の先を追う。


 ミーネは本棚の一角に窮屈に押し込められた置時計を見つめているようだった。


 研究室から続きの間になっているミスリルの書斎は、いつの間にか薄闇の中に沈んでいる。時間の経過に気付かなかったのは、気を利かせたミーネがミスリルの邪魔にならないようにひっそりと手元のランプに火を入れてくれていたおかげだったらしい。ゴチャゴチャと乱雑に研究資料が積み上げられた空間は、居心地はいいもののミーネと二人でいると少々手狭ではあった。


 ──最近まで、ここまで手狭には感じなかったはずなんだがな。


 いつの間にかミーネが成長して、体が大きくなっていたということか。それとも、共に研究室と書斎を使うようになったミーネの研究資料が幅を利かせているためなのか。


「……話を聞きに行くには、少々遅い時間になってしまったな」


 ミーネの視線の先で時を刻んでいる時計は、そろそろ晩餐が始まりそうな時刻を示していた。


 ミスリルやミーネにとってはまだまだ活動時間真っただ中だが、人をおとなうには少々時間が遅い。『学院アカデミア』の中で下働きをする者達はもう仕事から解放される時刻だし、教授陣にしても晩餐時を機に仕事を切り上げる人間は多い。


「教授陣に話を聞くのは、明日以降にしよう。繋ぎを頼む」

「承りました。どなたから伺いますか?」

「一番繋ぎが取りやすいのはベーヴェン教授ダッチェス・ベーヴェンだろう。ハーヴェイ女史ロード・ハーヴェイにはベーヴェン教授から繋ぎを頼むのが一番早くて確実だ」

「では明日さっそく、そのようにご連絡いたします」

「それと、今からの行動だが」


 言葉を続けながら、ミスリルは椅子を引いて立ち上がった。成人男性の平均よりはるかに背が高いミスリルが立ち上がると、ミーネとは頭ひとつ半以上、ほぼ頭ふたつ分の距離が開く。


 その高さ分キッチリ顔を上げてミスリルを見上げたミーネに視線を落とし、ミスリルはいつものごとく感情が抜け落ちた声で己の意思を伝えた。


「現場の検分に行くことにする」

「関係者に迷惑を掛けず、かつ人がいない時間帯に行動した方が都合がいい場所ですからね」


 ミスリルが行動を決めた理由を絶対の理論をそらんじるがごとく口にしたミーネは、後ろ手で指を組んだまま微かに首を傾げた。サラリと美しい金の髪が揺れ、ランプの光を受けた宝玉の瞳が笑みの形に緩む。


「当然、私もお供します、お師匠様マイロード。……いえ」


 みどりと青が溶け合って躍る瞳は、いつ見ても美しい。だがこうして暗がりの中、ランプの光を受けている瞬間のミーネの瞳は、一際美しさが際立つ。


「この場合は『ご主人様マイロード』とお呼びした方が、正しいのでしょうか?」


 その美しさが宝石的価値による美しさのみで形成されているわけではないことを、ミスリルは知っている。


 知っているからこそ、ミーネの瞳が一番美しいのはこの瞬間だと思うのだろう。


「……『ご主人様マイロード』と呼ばれる事態に遭遇しないことを、切に願っている」


 ミスリルの答えに、ミーネは微笑みだけで答えた。


 そんなミーネに向かって、ミスリルは次の指示を出す。


「来なさい、ミーネ。転移魔術陣で目的地の近くまで移動する」

「承りました、お師匠様マイロード。全ては貴方あなた様のご指示のままに」


 研究室へ続くドアの傍らに無造作に引っかけられたローブを取り上げながら、ミスリルは書斎を出る。


 その後ろに続くミーネはやはり、恋する乙女のように嬉しそうな笑みを浮かべていた。

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