Ⅰ.

 西と東が戦争を始めて長い。ざっと50年は争っているという話だから相当だ。


 直接的な原因が何だったのか、ミスローリルド・ミスリルと呼ばれる人間は知らないし、興味もない。


 ただ事実として現在、西と東の諸国は冷戦状態にあり、境界にあたる場所に『鉄壁のカーテン』と呼ばれる巨大な壁を築き上げることで仮初めの平和を保っている。そのことさえ知っていれば、ミスリルの日常はつつがなく営まれていく。


 強いて言うならば、東西戦争に端を発する東と西、独自の魔術の発展や、暗殺に用いられる毒物の発展の歴史にならば、多少の興味はある。ミスリルの生業なりわいにも多少関係があるので。


 ──しかし所詮しょせん、その程度だ。


 ミスリルは胸中にぎった独白を淡々と締めくくると、手にしていた本のページを指先で繰った。


 気持ちの良い青空が広がる下。己の居住域にある尖塔の屋上。広げられたパラソルの下に置かれたアイアンの猫足テーブルと揃いの椅子。足を組んで椅子に腰掛けたミスリルの前には、紅茶が注がれた愛用のティーカップが置かれている。


 いつも通りの心安らぐ空間で本を片手に午後の休息ティータイムを楽しんでいたミスリルは、本から手を離してティーカップを手に取った。


 唇をつける前に一度カップを止め、馥郁ふくいくとした香りを一度鼻で楽しむ。それからカップの縁に唇をつけ、改めて舌で香りと味を堪能してから嚥下えんげした。


 そして本から視線を上げることなく、正面の席に座す己の弟子にして養い子に向かって口を開く。


「ミーネ」

「はい!」


 低く、感情が感じられない声で名前を呼ばれただけなのに、弟子は至極嬉しそうに頬を緩めた。


 ミスリルの一番弟子ファーストレディは、容姿だけで言えば『可憐な少女』の一言に尽きる。


 丁寧にくしけずられた髪は、透き通るような淡い金色。


 ミスリルを見上げる瞳はパッチリと丸く、パラソルが揺れて光の入り方が変わるたびにみどりと青の間をユラユラとさまよっている。


 両肘を机につき、握った両の拳で細い顎を支えてミスリルを見上げるかんばせは、美の女神の寵愛を一心に受けた妖精のごとく麗しい。彼女がまとえば何の変哲もない『学院アカデミア』の制服も、特別にあつらえられた夜会服ドレスのように輝いて見える。


 そんな美しい少女が恋人を見上げるかのように熱烈な視線を向けているというのに、当のミスリルは一切少女に関心を向けていなかった。口元から離されたティーカップがソーサーに戻され、微かに硬質な音を響かせる。


 その音を合図にしたかのように、ミスリルは再び唇を開いた。


「今日の茶葉は、フロアッサンの一番茶葉か」

「さすがです、お師匠様マイロード! 取引先から頂いたので、さっそく淹れてみました! いかがですか?」

「まずまずだな」


 ミスリルの言葉に少女……ミーネは嬉しそうにはにかむ。


 それを一切視界に入れず、ミスリルは本のページをめくった。


「ミーネ」

「はい!」

「紅茶に入れた毒のレシピを聞かせてくれないか」


 そして、茶葉について質問した時と一切変わらないトーンで、実に淡々とそう言った。


 第三者が聞いていれば、間違いなく目を剝いたことだろう。あるいは腰を抜かして椅子から転げ落ちたか。


 だがミスリルとミーネの師弟にとって、このたぐいの発言は『おはよう』や『おやすみなさい』と同類にあたるものだ。現に問いを受けたミーネは、まるで一番星が乗り移ったかのように表情を輝かせる。


「はい! 今日は先日手に入った東渡りの呪石『セッショウセキ』から抽出した怨念を解析、精神を破壊していく過程を再現した魔術毒をベースに、同じく東渡りの呪物である『フコ』の理論式を上乗せてみました!」


『効きましたかっ!?』とミーネは上気した顔で両の拳を握りながら身を乗り出した。いささか熱が高すぎるが、その表情は『恋する乙女のよう』と形容できなくもない。


 ここまできてようやく、ミスリルは軽く溜め息をつきながら顔を上げた。


「残念ながら」


 指先の動きだけで読んでいたページに栞をはさんだミスリルは、不機嫌そのものに見える顔をミーネに向ける。パタリと音を立てて閉じられた本の表紙には『魔術薬学百科』というお堅いタイトルが刻まれていた。


「イチミリも効く気がしないな」

「さすがです、お師匠様マイロード! そこらの一般人なら、理論上この紅茶一滴で100人は殺せるはずなのに、それがちっとも効いていないなんて!」


 少女はほぅっ、と熱い吐息を吐き出しながらうっとりとミスリルを見上げた。


「それでこそお師匠様。今日も殺し甲斐にあふれている……!」

「精進しなさい」

「はい!」


 音声をすり替えてしまえば、歳が離れた恋人同士の甘い午後のひと時でも再現できたかもしれない。


 だがこの師弟の間ではこれがまごうことなく通常営業で、他の流れなどあるはずがないのである。


「ミーネ、今度は毒を入れていないお茶をくれないか」

「無味無臭を目指したのですが、やはり味が変わりますか?」


 ミスリルがティーカップの縁をなぞりながら新しいお茶を要求すると、ミーネはコテリと首を傾げた。その意味するところは『お師匠様にとって無効で無味無臭であるならば、このままでも問題ないのでは? 案外致死量の問題で、量を積めば効果が出るかもしれませんし』といったところか。


「限りなく無味無臭ではあるが、やはり違和感はあるな」


 弟子に見識を求められれば、師は答えるべきだ。それが自分を殺すつもりで盛られた毒の実食結果であろうとも、だ。


「念を凝らせて作り上げるたぐいの魔術毒は、その性質上、どうしても経口だと妙なもたつきというか、雑味が出る。フロアッサンの一番茶葉のような味が柔らかくて素直な物と合わせるには不向きだ」

「なるほど!」

「ホットチョコレートのような甘ったるい飲み物や、いっそ甘味に練り込む原材料に術式を刻んだ方が向くかもしれん」

「了解しました。貴重な実食レポートをありがとうございます!」


 ミスリルが求められるままに答えると、ミーネはより一層顔を輝かせた。素直にペコリと頭を下げたミーネは、機敏な身のこなしで身を翻すと茶器一式が乗せられたティーワゴンを押して姿を消す。どうやらミスリルの求めに応じて、今度はごく普通の紅茶を用意してくれるらしい。


 ──私以上に紅茶に目がない彼女が、フロアッサンの一番茶葉などという珍しい茶葉を淹れたくせに自分のカップを用意してこなかった、という時点で、何かしら盛っていることは察していたんだがな。


 しかしこの点は、あえて指摘しなくてもいいだろう。ミーネが仕込んだ『魔術毒』の出来映えにその部分は関係ないし、ミスリルは暗殺者としてミーネを育てているつもりはない。


 ミスリルはこれでもミーネを娘として、そして弟子として育てている。


 よって『最初から挙動が怪しかった』という指摘は、ミスリルがすべきことではない。


 ミスリルはそう結論付けると再び読書に戻った。高い尖塔の屋上を抜ける強い風が、長く垂らされたミスリルの髪を揺らす。


『毒』


 それは何らかの方法で生体に取り込まれた時に、生体本来の機能を損なわせる作用を持つ物体全般を指して使われる。


 ある一定の生物は我が身を外敵から守るために、あるいは獲物を確保する一助として体内に毒素を精製、保有する。無機物からも毒は精製できるが、それはヒトが『ヒトを害するため』あるいは『ヒトを治療するため』という目的意識をもって探し出してきたものであるので、生体が備える毒とは少々おもむきが異なる。


 物質としての『毒』は、化学式での表現が可能だ。フグ毒として有名なテトロドトキシンならば、その化学式は『C11H17N3O8 』であるし、ボツリヌス菌が生成するボツリヌストキシンであれば『C6760H10447N1743O2010S32』が一般的な化学式として用いられている。


 ならば『ノロイ』を毒と同じように紐解いた時に、化学式と同じように具体的な記号……例えば魔術式として表現することは、果たして可能であるのだろうか。


 ──両者の存在は、一見解離しているようにも思われる。だがしかし実質、両者の性質はそこまで遠いわけではない。


 ヒトを害する目的で放たれる魔術……呪いは、いわば魔力によって生成された毒である。精神や魔力回路に標的を絞った毒とも言えよう。


 この考え方はやがて東西戦争に軍事投入されることにより、『いかに効率的に呪いの真髄のみを取り出すか』『それをいかに相手に気付かれずに投与し、いかに必要最小限の力で発現させるか』という方向に昇華された。つまり物質としての毒と同じく、魔術の『毒』として用いられることになったのだ。


 毒のごとき魔術式を研究する学問。


 現在、この学術分野は総称として『魔術薬学』という名を冠している。


 ミスリルの生業は、この魔術薬学の研究だ。ミスリルが属している西域最大の魔術結社『学院アカデミア』は教育機関を兼ねているため、『学院』の本拠地として活用されている要塞のごとき古城に住み込み、教師として教鞭もっている。


 元はと言えば、己が生まれ持っていた『あらゆる毒が効かない体質』が一体どういったモノなのか知りたくて足を踏み入れた世界だった。その探究の道の先に行き着いたこの場所を、ミスリルはそれなりに気に入っている。


 ただひとつ、気が乗らない事柄について述べるならば。


お師匠様マイロード、新しいお茶をお持ちしました」


 思考を巡らせていたミスリルは、不意に響いたミーネの声に顔を上げた。


 いや、正確に言うならば、聞き慣れない足音が増えていることに気付いて顔を上げた、と言った方が正確であるのだが。


「そして申し訳ありません、お師匠様マイロード。お客様がいらしているのですが、お通ししても良かったですか?」

「そういう断りは、実際にお通しする前に入れるものだ、ミーネ」

「言われてみればそうなのですが、私では到底お断りできない相手でして」


 ティーワゴンではなくトレイにポットとカップを乗せて運んできた弟子の後ろには、お茶時に限らず終始顔を会わせたくない相手が従っていた。その姿がチラリと視界に入った瞬間、ミスリルの額には深々とシワが刻み込まれる。


 絵に描いたような老紳士だった。


 真っ白な髪。上質な衣服。手にはステッキが握られ、頭に帽子が乗っていないことに違和感を覚えるくらい完璧な紳士がそこにいる。


 ただし『完璧な紳士』であるのがうわつらだけであることも、ミスリルは嫌になるくらい知っているのだが。


 ──これで中身まで完璧な紳士だったら、私も特に不満はないのだがね。


 毒づくミスリルを相手はどう思っているのだろうか。


 ミスリルの内心に気付いているのか、あるいは気にしていないのか、突如押しかけてきた相手はにこやかな笑みをミスリルに向けている。


 ──確かに、断れる相手ではない。


 ミスリルは重く溜め息をつくと、珍しく感情がうかがえる瞳でミーネの後ろに立つ『お客様』とやらを見上げた。ちなみに見える感情は『不機嫌』や『諦め』と表される類のものだ。


「お茶時に事前の伺いもなく現れるなんて、無粋にも程があるんじゃないですか? 学長マジェスティ

「事前の伺いを立てたら、君はいつだって私の来訪を断るし、何ならわざと出張や特別講義をバッティングさせるだろう?」


 険のあるミスリルの声に機嫌よく笑った老翁は、そのままの穏やかさでミスリルに用件を切り出した。


「出番だよ、魔術薬学研究室のミスロード・リル


 その穏やかさは、さながら今日の青空のようで。


「城内で死体が発見されたのだがね、死因が分からないときた。解析してやってくれないか」


 紡がれた言葉は、この穏やかな午後にどこまでもそぐわない物騒な代物かつ、ミスリルが『ただひとつ気が乗らない』と評する類の代物であった。

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