誰よりも強い願い、あるいは無謀な挑戦②

 しかしどんなにクーガーが辺りを慎重に見渡しても、少女の他に人影は一つも見当たらなかった。


 安らかな寝息を立てて、少女は眠っている。しばらく観察していてわかったことは、彼女が腰からぶら下げているひょうたんが、おそらく水筒になっていて、それはもう空っぽだということだった。蓋もついていないのに、少女が寝返りを打っても一滴も水は落ちてこない。カランコロン、と空洞を伝える乾いた音が響くだけだ。

 他に少女が持っている物は、背丈に似合わない刀だった。ちょうど両腕で抱きかかえるようにして眠っている。東洋の刀に詳しくないクーガーであっても、その刀が安物でないことくらいは察しがついた。芸術的な反りを持ち、錦色の鞘に収まっている。鞘には何やら見慣れない文字が書き記されており、煌びやかな金色の紐が巻き付いている。誤って刀が抜けないように、紐で固定しているのだろう、とクーガーは思った。


 本当にこの砂漠を越えてきたのかもしれない。服のはだけた部分から覗く素肌は、驚くほどに白い。それが浅黒く見えるということは、それだけ日を浴びてきたということだ。

 それだけではない。唇はかさかさに乾いているし、良く見れば爪も割れている。


 クーガーはしばらく少女を助けるかどうか悩んだ。気持ちとしては、助けてやりたい。しかし彼はウェルとともに隠れ住んでいる身であったし、この少女がどういう事情を抱えて砂漠を越えてきたのかもわからないのだ。

 せめて水のある場所にまで誘導してやろうかと悩んだが、クーガーの知る限り、山の反対側にしか水源はない。そこまで彼女を誘導するのはとても困難に思えた。


 それに何よりの問題は、自分の姿がいま、白いカラスであることだった。

 彼女を助けることに成功すれば、間違いなく彼女は麓の町で「白いカラスに助けられた」という話をするだろう。そうなれば本当に珍獣ハンターたちが、山に探索に来ないとも限らなかった。主人の施した結界を疑うわけではなかったが、危ない橋を渡るのもどうかと思ったのである。


 クーガーは小一時間ほど、枝を咥えたり離したりしながら悩んでいたが、やがて非情な決断を下した。


 少女に背を向けて、翼を広げて飛び立ったのである。


 この時を待っていたのは、モレアーの樹である。そろそろ移動したくてたまらなかったというのに、クーガーがずっと見ている物だから動けないでいたのである。

 モレアーの樹の幹に、可愛らしい真ん丸の目玉が二つ浮き出た。地中に埋め込んでいた根っこが盛り上がり、移動する態勢へと変化する。


 これに驚いたのは、モレアーの樹の根っこを枕にして眠っていた、和装の少女である。


 移動するところを見られたモレアーの樹は、一瞬硬直し、それからすぐに攻撃態勢へと移った。

 根っこを振り上げ、少女を襲う。


「おのれ、妖樹であったか!」


 少女は目にもとまらぬ速さで刀に巻き付けていた紐をほどき跳躍した。抜刀の一閃を放ち、モレアーの樹を通り過ぎる。

 山の斜面を一メートルほど滑って止まり、抜いた刀をゆっくりと鞘に戻す。


 カシャン、と、刃をしまう小さな音の後に、巨大な音が続いた。少女の一閃で斜めに切断されたモレアーの樹が、山の斜面を転がっていったのだ。巨木が倒れる音に、枝が折れる音、さらに葉が土をこすりながら落下していく音と、葉の間に巣を作っていた鳥たちが一斉に飛び立つ音が連続する。


 上空に舞い上がっていたクーガーも、この音には驚いて振り返った。


「う、嘘だといってくれないカー」


 思わず、口から言葉が漏れた。咥えていたモレアーの枝を落としてしまい、大慌てて急降下して再度咥えなおす。

 クーガーも、まさかあんな少女が、細い刀一本でモレアーの樹を斬り倒すなどとは夢にも思っていなかった。助けようなどと、おこがましい考えだったようだ。可愛い少女の皮を被っているだけで、なかなかの傑物……いや怪物だったようである。


 関わらない方がいい。クーガーは斜面を転がっていくモレアーの樹を見ながら、激しくそう思った。

 行き倒れかもしれないなどと、とんでもなかった。もしかすると、主人の命を狙いに来た暗殺者かもしれないのである。


 少女が、空を見上げた。前髪は綺麗に眉毛の位置で切り揃えていて、整った顔立ちをしている。まっすぐな瞳で、空を飛ぶクーガーを見つめている。


「白いカラス……?」


 少女が呟き、クーガーは恐怖した。

 あの少女は、一般的な人間ではない。自分の主人と同様に、規格外の人種である。


 必死で上空へと羽ばたき、少女の視界から外れたのを確認してから、高度を落とす。針葉樹の中に身を隠すようにして、ウェルの家へ向けてクーガーは飛んだ。日はもう沈みかけている。オレンジ色の光が、針葉樹の間からちらちらと漏れていた。


「お、遅かったね」


 ウェルは家から少し離れた小川で、のんびりと釣り糸を垂らしていた。


「いやさ、黒く戻す魔方陣を考えてたんだけど、お腹すいちゃってさ。ほら、日も落ちてきたし、先に夕飯を用意しなきゃいけないかなーと思って」

「主人! それどころじゃないんだガー!」


 クーガーは早口で、つい先ほど見かけた少女の話をした。


「モレアーの樹を、刀一本でね……。よほどの刀の達人なんだろうな」

「落ち着いてる場合じゃないと思うんだガー!」

「東洋の女性は、童顔に見えるっていうし、たぶん少女じゃなくてもっと年上で、何年も修行を積んだんだろうな」

「そ、そこじゃないと思うんだガー!」

「安心しなよ、結界が張ってあるって言っただろ。それに、山の反対側で死にかけてたんでしょ? こっちまで来る前にくたばるって」


 釣り針に魚がかかった。ウェルは釣竿を引き上げていく。広げた手のひらほどの大きさの魚が、水面から顔を出す。


「よし! 今日の夕飯」


 ウェルはもうクーガーの話など気にも留めていなかった。日が暮れるまで魚釣りに精を出し、日が落ちてからは魔法で火を起こして料理を楽しみ始めた。


 取れた魚の一匹をクーガーにあげると、残りはすべてモレアーの葉で包み込んで蒸し焼きにする。ぴくぴく、とまだ動いていた魚たちはもう反抗する体力も失い、火の上で恨めしそうにウェルを見つめている。

 程よく焼き上がったところで、ウェルは火を弱めた。魔方陣にいくつかの文字を書き足すだけで、簡単に火の調整ができるところは、魔法の良いところだった。


「主人……本当にそれ、美味しいのカー?」


 モレアーの葉は、火にあたると燃えるというよりは溶けてどろどろになる。緑色の粘着質な液体が、魚に染み込んでいくのだ。焼き上がった魚の姿は、まるでスライムに巻き付かれて殺された魚の姿である。涙すら浮かべてそうな魚の姿を見ても、まったく食欲はそそられない。


「これが美味しいんだって!」


 見るからに嫌そうな顔をして、クーガーは自分の魚を咥えてウェルから少し距離を取る。

 ウェルはクーガーに構わず、焼けた魚に頭からかじりつき、美味しそうに咀嚼した。


 その時、チクリ、と針で刺されたような痛みがウェルの頬に走った。


「……前言撤回」


「や、やっぱり不味カーったのカー?」

「ううん、違うよ。魚は美味しい。……そうじゃなくて、さっきのクーガーの話さ。結界、破られたみたい」

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