第2章 五年前のこと

誰よりも強い願い、あるいは無謀な挑戦①

 話は、五年ほど昔にさかのぼる。


 隠遁生活を送るウェルは、暇を持て余していた。

 クーガーと話すことも特にもうなかったし、美しい自然の鑑賞にもあらかた飽きていた。魔法の天才ではあったが、特に考えてみたい魔方陣もなかったので、最近は研究という研究もしていない。せいぜい掃除や洗濯といった家事を自動でやってくれるような魔法を開発したり、クーガーの羽根を真っ白に変えて遊んでみるというくらいの使い道しかしていなかった。


 ちょうどクーガーの羽根を白くしてしまったところから、話を始めよう。


「主人、白いカラスは珍しいカーら、すぐにつカーまってしまう! 黒に戻してくれないなら、もう町まで行カーない!」

「それは困るな」


 たまにクーガーが町に行って収集してくる噂話や、咥えて帰ってくる小道具は、ウェルにとって数少ない新しい楽しみになっていた。それをやってもらえなくなると、ウェルも困る。

 しかし、とにかく黒色に戻してほしそうなクーガーを見ていると、どうにもいじわるしたくなってしまうのが、ウェルテイン=リンドハットという魔法使いなのであった。


「でもさ、私の使い魔なんだから、そんじょそこらの人たちに捕まることはないでしょ」

「いやいやいや! 珍獣ハンターたちガーこの山を上ってきたらどうするつもりなのカー!」

「結界張ってあるから大丈夫でしょ。クーガーがこの家まで誘導しちゃうようなポカやらなければ」

「それは十分に気をつけるガー、主人、前にも言ってたじゃないカー。強くねガーえばカーなうこともあるって……」

「うん、言ったね」

「つまり、つまりなんだガー。白いカラスを獲りたい! って強くねガーわれてしまえば、結界の内側に入ってこられてしまうんじゃないカー?」


 クーガーは必死に訴えた。黒い光沢のある翼は力強そうな感じがしてとても気に入っていたのに、白くされてしまうと何だか情けなく思えたのだ。


「いいかい、この結界を破るってことは、私の『ここに入ってこないでほしい』という願いを上回る、強い思いを持っていなきゃいけないんだよ。そんな強い思いで、白いカラスを追いかけようなんて人はいないさ。お、珍しいなー。白いペンキでもかかったのかなーって、そんな程度じゃないかな」

「そ、そうカー?」

「まあ可能性はゼロとは言わないよ。そうは言わないけれど、限りなく低いね。そのくらい、私はここに入ってきてほしくないという思い強い思いを込めて、結界を張ったんだから」


 ウェルは自信たっぷりに答えた。これでも災厄の魔法使いとまで畏れられる、超一流の魔法使いなのである。魔法にかけては自信があった。

 もう百年近くもこの山奥に籠っていて誰にも見つかっていない。それを、白いカラスが一羽飛んで行ったくらいのことで、見つかるはずがなかった。


「主人、戻してくれるつもりはないのカー?」

「そうだな。私としてはせっかく白くするのに成功したわけだから、このまま数日は戻したくないんだけど、どうしても戻りたい?」

「も、戻していただきたいのだガー」

「ふむ。ちょっと話は変わるんだけどさ、私はいま料理に凝っていてね。特に川魚の香草焼きにはまってる」


 家事のほとんどを魔法で自動化しておきながら、料理だけは絶対に自分でやるのが、ウェルと言う男だった。

 ちなみにその料理はゲテモノが多いのだが、本人はとても美味しそうに食べるのでクーガーはもうツッコミを入れることもない


「主人が料理に凝っているのは知っているガー……」

「で、このあたりに生えている香草は、ほとんど試してしまってね。モレアーの葉が手に入ると、より美味しく料理ができるような気がしているんだけどなぁ」

「と、取ってこいっていうのカー」

「いやいや、そんなこと言ってないよ。ただ、もし取ってきてもらえたら助かるなあって」


 クーガーは「カァー」と鳴いた。溜息に近い鳴き声だった。


「主人。普通に頼んでくれても取りにいくカーら、そういういじわるをしないでほしいんだガー」

「あはは、ごめんごめん。いじめすぎたか。本当のことを言うと、黒く戻すにはどうしたらいいのか、まだ私にもわかっていないんだ。白くできたわけだから、黒くするのも何とかなるとは思うんだけど、たぶん魔方陣の完成まで数時間はかかる。だから、その間に夕食の準備をしといてほしいんだよ」

「な、なんだ。そういうことだったのカー」


 クーガーは納得して頷いたが、すぐに思い直した。


「主人」

「ん?」

「……もしかして、なんだガー、戻し方もわからないのに魔法をかけたのカー?」


 ウェルは聞こえないふりをして、地面に魔方陣を描き始める。ふっふふーん、と鼻歌まで口ずさみながら、わざとらしく聞こえていないふりをするので、クーガーは「カァー」と再び溜息をつき、翼を広げた。

 こうして真っ白な羽根を持つカラスは、モレアーの葉を探すために飛び立った。


 クーガーは風を切って、上空にまで飛び立った。太陽が眩しい。羽根が白くなったためか、光を吸収してくれず、いつもより少しだけ肌寒いような気がする。

 やがて山脈全体が見渡せる高度にまで飛び上がったクーガーは、じっと眼下を見渡した。


 ウェルたちの住む家は、キサルピア王国の西の国境、ベルガー山脈の山腹に位置している。


 ベルガー山脈は東西でその姿を大きく変える。西側には背の高い針葉樹がびっしりと生えているが、東側はいかにも寂しい風景が広がっているのだ。

 木々の姿はほとんどなく、大小さまざまな岩石が、人を拒絶するように転がっている。そのさらに東側に広がるのは、見渡す限りの広大な砂漠である。


 クーガーは風に乗りながら、東側の山肌をじっと見つめていた。岩石と砂ばかりが広がる中にも、ぽつんぽつんと緑が見える。それが、モレアーの樹だった。

 高度を落とし、モレアーの樹に近づいていく。


(思ったより早く見つカーった)


 このモレアーの樹というのは厄介なことに、誰も見ていないと移動してしまう。今はこうやってクーガーが上空から見ているから動いていないだけなのだ。ちなみに動いているところを見てしまうと、襲い掛かってくるらしい。

 逆に言えば、動いていないモレアーの樹はただの樹でしかない。見つけてさえしまえば、葉を持ち帰ることなど、難しいことではなかった。


 クーガーは、一番近くのモレアーの樹にゆっくりと降り立った。両足でしっかりと枝を掴み、嘴を使って細枝の一本を噛み切る。あっさりと斬れた枝は、地面に落ちていく。


「う、ううん……」


 人間の声がして、クーガーは驚いた。ベルガー山脈の西側に、人がいるなんて考えてもいなかったのだ。

 枝葉の間からそっと下をのぞき込むと、十一、二歳くらいの少女が、木陰で休んでいるのが見えた。どうやら、木の根っこを枕にして眠っているようだ。顔はクーガーの位置からは見えなかったが、実に健康的な体形をした少女だった。長い黒髪に、浅黒い肌。着ている服は明らかにキサルピア王国の物ではなく、東洋の物である。元は白と紺色だったのだろうが、今は砂で汚れてすすけた茶色に見える。


(ま、まさカー、この砂漠を越えてきたのカー?)


 砂漠を越えてさらに東に行けば、東洋の国々があるという。しかし砂漠越えは困難で、商人たちもこのルートを使って物を運ぶことは滅多にない。だからこそ、ウェルはベルガー山脈に身を隠しているのだ。

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