何かが起きそうな、特別な夜のこと③
これにはウェルも驚いた。
ウェルの家が防御壁を発動させるのは、外からの攻撃に対してだけである。外敵から、家にいる人を護る為の仕掛けなのだ。だから、家の屋根にまで上がってこられてしまうと、防御壁は発動しない。
「よく弱点を見抜いた……ガー」
クライブらが家の屋上に上がってくるよりも、ウェルが空中に魔方陣を描く方が早かった。
「知恵の女神よ、古き盟約と我が呼び声に応え、その力を示せ。――『ケリドウェンの大釜』」
ウェルの詠唱に応え、空中に大釜が召喚された。その中身はまるで溶岩のようで、どろどろと粘り気のある赤い液体が不気味な発光をして周囲を照らす。
「爆ぜろ!」
ウェルが描いた魔方陣に手をあてて命じると同時に、『ケリドウェンの大釜』から強烈な閃光が走った。
グオォォォォー!
地の底から何かが暴れまわるような音を立てて、『ケリドウェンの大釜』にひびが入り、爆発四散した。
大釜の内側に溜め込まれた溶岩が流れ出し、ウェルの周囲を真っ赤に染め上げる。
騎士たちの誰もがこれには驚いた。足元が溶岩に飲み込まれていくのである。
「退避、退避ーっ!」
騎士たちは、大慌てて手綱を引いて馬を旋回させようとする。急な方向転換に間に合わず、大きく嘶いてそのまま転倒する馬が後を絶たない。そうして馬から放り出された騎士の上を、別の馬が踏みつけるという有様で、あっという間に、ウェルを取り囲んでいた騎士たちは混乱に陥った。
そこへ、『ケリドウェンの大釜』から流れ出した溶岩が迫り、騎士や馬を次々と飲み込んでいく。
恐怖にひきつった表情を浮かべたまま、クライブたちは溶岩の中に沈んでいる。ウェルは「ちょっと、脅かしすぎちゃったかな」と呟いた。
「主人、ちょっとじゃないと思うだガー」
「そりゃ悪いことをした。長い隠遁生活で、どうにも加減がわかんなくなっているかも」
ウェルは魔方陣に再び手をあて、いくつかの文字を書き足した。
「大いなる知恵により、世の理を示せ」
周囲一帯を赤く染め上げていた溶岩が、その色を急激に失っていく。溶岩だったものたちは、いずれも土くれに姿を変えていた。
三つの月が、転がった騎士たちを映し出す。人馬はあっちこっちに倒れていて、土で埋もれている。
「な、な、なにをした……?」
体の半分以上を土の中に埋めたまま、クライブが訊ねた。喋るたびに口の中に土が入り込み、それがクライブを惨めな気持ちにさせる。
「土をぶっかけただけ」
「し、しかし……溶岩が……」
「溶岩が、こんな場所にあるわけがないでしょー。君たちが見ていたのは幻だよ。知恵の女神に、化かされたんだよ。知恵を持って、きちんと冷静に物事を捉えることができれば、そんなことはあり得ないって気づけたはずなんだけどね。そうすれば、ほら、泥もつかない」
ウェルはのんびりとそう答える。確かに、大釜の中心にいたというのにウェルの身には泥の一つもついていない。
騎士たちは立ち上がって、再び剣を構えようとするので、ウェルは頭をかいた。
「ムダムダ、やめときな。君たちが災厄の魔法使いを相手に勝てるはずがないって。命は大事に、人生は楽しく、幸せにね」
「主人、それは説得になっていないと思うんだガー」
「え、うそ?」
「逆効果と言うカー、挑発しているというカー、あるいは煽っているというカー」
ウェルはぽりぽりと頬を掻いた。
「それじゃあ、恨まれる前に退散しよう。エルダバの聖女にも会いにいかなきゃいけないしね」
「本当に『あの子』なのカーどうカー、わからないと思うのだガー」
「だから、確かめに行くのさ」
ウェルはおどけた調子で答えると、自分の三角帽子を押さえた。
次の瞬間、起き上がりつつあった泥だらけの騎士たちは、信じられない物を見た。ウェルの背中から巨大な翼が、バッと開いたのだ。
「ドラゴンの翼……?」
まだ若い騎士が、呆然と呟いた。
彼の言葉通り、ウェルの背中に生えていたのはドラゴンの翼だった。人間の身体には不釣り合いな大きさの翼が、ウェルの両肩から広がっている。あまりに大きすぎて、空に浮かぶ三つの月を隠してしまう程で、騎士たちはウェルの陰にすっぽりと隠れてしまった。
「ひるむな! さっきと同じ幻術に違いない!」
クライブは騎士たちを一喝し、自ら剣を構えた。
「本当に泣き虫アルテアから何も聞いていないんだね。――この翼は、嘘じゃない」
「化け物め!」
「良く分かってるじゃないか。そうさ、私はもう人間じゃない。『災厄』なんだ。この力は、人の世には必要ない。だからこうして山奥に引きこもっていてあげたんだ。……でも、それももう終わりにしよう。ツムギの名前まで出てくるってことは、どうしても私をこの山奥から引っ張り出したい人がいるみたいだし、ね……」
ウェルが翼をはためかせた。暴風が吹きすさび、クライブは吹き飛ばされないようにするので精いっぱいだった。武器を構えている余裕などない。撒き散らされた泥が、風を切って騎士たちへ襲い掛かる。
「わざわざ藪をつついて竜を出すこともないと思うんだガー」
「ほんとだよ。……あ、アルテアの曾孫さん、私の家をあんまり荒らし回らないでくれよ。じゃあ、そういうことで」
クライブが聞き取れたのはそこまでだった。風が強さを増し、やがて収まる。空を見上げると、ドラゴンの翼を広げた魔法使いとカラスの陰が見えたが、すぐに針葉樹の先に消えていった。
後には三つの満月が残った。綺麗な月明かりに照らされた静かな夜が、騎士たちの頭上に広がっていた。
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