幕間 千里の道も何とやら
えーっと、とりあえず呼吸も落ち着いて脚から乳酸が抜けてきたところで、本題に入りたい訳なんだが。
「最ッ低」
古橋さんから超弩級の罵倒を賜ったところから話をスタートさせないといけないみたい。いや、これ俺謝罪とか釈明とかいる?
というのも、昨日俺から絵を習いたいと言ってきた本渡琴美が、あろう事か画室に保管してあった絵を天日干ししてたのだ。
百歩譲って筆とかの道具を乾かしてたなら分かる。湿気ったりカビが生えたりしたら大変だしな。でも何で絵? そりゃあ怒りたくもなるでしょうよ普通。
と、思っていたのだが。
「君さ、限度ってもの知らないの? 後輩の女子脅して泣かせてさ、恥ずかしくない訳?」
仁王立ちで俺を見下ろすのは古橋芽衣さん。セミロングの黒髪に、シルバーのハーフリムの眼鏡をかけている、俺の同級生。総合学科芸術系列、美術コースの建築デザインクラス在籍の、俺達
そんな彼女に、こうして非難されまくってる状況なのです。
「俺、そんなヤバい事言ってたか?」
「本気で言ってる? どうせまた方言で怒鳴り散らしたんでしょ。いい加減頭に血が上ると訛る癖直したら? 流石に何て言ってるか分かんないと言い分聞く事も間違い指摘するのも大変なんだから」
申し訳ないと思いつつ、これでも改善した方なのだと言い訳したくもなってしまう。
俺は小学生まで地方の田舎に暮らしていた。しかもすぐ近く、それこそ小学生の足で歩いて行ける距離に爺ちゃん婆ちゃんの家があったので、平日休日関係なく泊まりに行ったりしてた。
割と当たり前の事だが、近所の人達も、小学校の友達や先生も、みんな方言で喋るのが普通だったから、自分が訛ってるかどうかなど気にしなかった。
父さんも母さんも訛りが強い。爺ちゃん婆ちゃんなんて俺や両親以上に、だ。なんせ俺の訛った喋り方を聞いたその4人から、『なんば標準語ばまぜくって喋っとっとね(なに標準語と混ぜて喋ってるの)?』、と冗談半分本気半分で笑われた事があったからだ。
それ自体はどうでもいい。別に家族内で話が通じない訳じゃないし、父さんの仕事の都合で引っ越して会う機会が減った爺ちゃん婆ちゃんとも、偶に電話で話したりしてるし。
ただ、こっちだとそうもいかなかった。だからなるべく標準語で喋るよう心掛けてるんだけど……気が動転したりさっきみたいに怒ったりすると無意識に出てしまう。
「と、とりあえず本渡、落ち着け。俺が悪かった」
「…………」
あーあ、しゃがんで何とか古橋さんの背に隠れようとしてる。そんな怖かったか? 正直最初に会った時の本渡の方が絶対怖かったと思うんだけど。
「本渡さん、一応確認するけど、彼になんて言われたの?」
「……すって」
「え?」
「殺すって、言われたんです……。掃除してただけだのに、ひどいです……」
いや俺一言も殺すなんて言って……。
「あー。えっと、それ多分、『うちころす』って言われたんでしょ? それ意味違うから」
「え……。そう、なんですか?」
「ええ、そうよ。私も言われた事があったからよく覚えてるわ、ねぇ、あ・ら・が・く・ん?」
「……その節は本当にすみませんでした」
あったなそんな事も。制作に行き詰まってイライラしてるとこに古橋さん達が心配で来てくれたってのに、変な意地張って追い返そうと口論になって……。
「だからまぁ、怒ってたのは事実かもだけど、別に殺すとかそういう意味じゃないか」
「そ、そうだったんですね……」
「ちなみに意味は確か、『ぶっ叩く』とか『ぶん殴る』だったっけ?」
「まぁ概ねその通りです」
「ど、どちらにしても物騒では……?」
そうかな? 母さんとかに叱られた時とか、割と言われてた気がする。実際にげんこつされた事もあったし。そう考えると、昨今の『この躾や指導は体罰、暴力では』云々言ってる風潮は(場合によるとはいえ)言い過ぎな気もゲフンゲフン。っと、心の声とはいえ、今は隅っこに置いとくとしよう。
というか、そろそろいい加減本題に入りたい。
「とにかく、ベランダに出してる絵、さっさと全部なおすぞ。古橋さんも申し訳ないけど手伝ってくれ」
「はいはい」
「あ、あの先生……」
「何? 天日干ししてた理由ならなおしながら聞くから」
「いえその……私が確認した限りじゃ、絵も、専用の台もどこも壊れてませんけど。修理が必要なんですか?」
は? 何を言ってるんだ、と思った瞬間我に返った。
「……すまん、つい」
「はい?」
「ああ、ごめん。私もう慣れちゃったからスルーしちゃってた。今のは『収納』、片付けるよ、って意味よ」
古橋さんが説明したお陰で、本渡も納得した様子で小さく何度頷く。
言い訳させてくれ。なんせここに入学するまで、ずっと『なおす』が標準語だと思ってたんだ。じゃあ『直す』とか『治す』とかはどう言ってたんだ、って? 同じ『なおす』だよ前後の文脈とか仕草とかで読み取るから通じるんだ悪いか。
気を取り『直して』、俺達はキャンバスとイーゼルを部屋の奥へ運んでいく。
「これ出してどれくらい時間経ったの?」
「えっと、15分くらいです」
「そ。そのくらい短時間なら問題ないわね」
「時間の問題じゃねぇんだけどな……」
「荒画くん?」
「はいはい」
部屋の奥にある扉の先に、画材道具や、絵画の種類毎に区分けされた保管棚がある。油絵、水彩画、日本画など、使用してる染料によって選り分けている。本渡が出してったのは油絵ばかりだったので、今回は収納する場所を一々探し出す手間は省けた。
「それで、何で天日干ししてたんだ? まさかホントに嫌がらせじゃないだろうな」
「ち、違います!! 私はただ、ここも掃除しておこうと思ったのと、それに合わせて湿気やカビを防止しようと思って。道着とか防具とかも、定期的に天日干ししておかないとカビとか菌とかヤバいことになるので」
「道着とキャンバスをいっしょくたに考えるなよ。だからって他にやりようがあったろ。窓開けて空調ガンガンにしてとかさ」
ひとまず全部部屋の中に運び込んだ後、元々あった場所を思い出しながら棚の中へ立てかけていく。大きめに作られた部屋なので運搬も収納もスムーズに進んでいき、棚そのものに取りつけてある固定用の敷居に合わせて入れていき、傷つけないよう落下防止用のネットをかけて固定する。
「それだけじゃ足りないと思ったんです。虫とかの問題もあると思って」
「いやだから、直射日光に当てたらそもそも退色や劣化が早まって台無しになるだろ。それじゃ本末転倒だろうが」
カラビナで棚の柱とネットを固定する作業を進めながら言葉を飛ばす。いくら十数分の短時間とはいえ、やらない理由の方が圧倒的に大きいってのに。
残り2枚の絵もちゃっちゃと片付けようと振り返ると、本渡がきょとんとした顔で棒立ちしてた。おうおう、まだ作業は終わってねぇのに、休憩はまだ早いぞ。
「そうなんですか?」
「ん、何が?」
「ですから、お日さまに当てたら、ダメだったんですか?」
「…………おいそこからか」
勘弁してくれ。直射日光、というか紫外線に当てたら色褪せる事から教えないといけないのかよ。顔料の化合物の式とか見た事ないのか? いや普通ないか。
俺が呆れた感じで溜め息を吐いたりすると、彼女の隣で古橋さんが会話に割り込んできた。
「荒画くん。彼女は素人なんだから、そういう事も色々教えるのも先生の務めでしょ」
「うっ……」
「まぁ、今回は目に見えて劣化する程放置しなかった訳だし、本渡さんだって100パーセント善意でしただけなんだし、そのくらいにしたら?」
「……分かったよ」
よく考えれば、絵描き関係に馴染みがなければそういう事も知らないし、気にもならないか。本当に知識ゼロの段階なんだって認識しながら、今後教えていく必要があるな。
「今後部屋の掃除とかはしなくていい。そういう気遣いするくらいなら少しでも練習の時間に充てる事。あと、その……怒鳴り散らして、悪かったな」
「い、いえ! こちらこそ、知らなかったとはいえ、本当に申し訳ありませんでした!」
深々と頭を下げた勢いで、後ろで一纏めに結っていた長い髪が正面に弧を描いて振り下ろされる。
本当、所作というか、こういう時の言動はきびきびハキハキしてるんだよな。
何かを知らない事そのものを叱責するのは間違い、頭では理解していても、いざ実行するとなるとこんなにも難しいものなのか。
それに少しだけ油断もしていた。勝手な言い分なのだが、空手経験者だからって事で『俺の事を怖がる』なんて微塵も想像してなかった。あくまで想像なのだが、空手の練習と聞くと、怒号飛び交う殺伐とした風景なんじゃないかと勝手に脳内再生していた。しかもそれが当然のような感覚で。
だから、こんな自分より背が低くて細い雑魚先輩がブチギレたところで、歯牙にもかけないだろう、と。勿論怒鳴り散らしてたあの時は、そんな事気にしてなかったし、考える余裕もなかった。
気にする、考える余裕ができた今だからこそ、余計に強く想起してしまう。
「ほら、あと少しなんだから、ちゃっちゃと運ぼ」
「は、はい!」
古橋さんに促されて、本渡が残りの絵を運び込む。流石に保管棚の絵全部を出してなかったのもあって、3人もいるお陰で10分程度の時間で済んだ。
それにしても、と俺は部屋の中を隅々まで見渡した。
筆やパレットなどの画材道具は綺麗に整頓されていて、道具の隙間に埃一つ見当たらない。元々使い終わったら洗ってたし、長い間使わないまま放置してたのもあったから特段汚れの酷い物はなかったのだが、だからこそ分かる。筆洗い用の水差しの奥に溜まってた埃もないし、細かいところまで掃除してくれていた。
「……本渡。階段傍にあった掃除用具のロッカーに掃除機入ってたろ。あれ使わなかったのか?」
「えっ、はい。掃除機の排気口の風で、埃とか舞って逆に絵とか汚くなるかなって思いまして。ドライシートをかけた後に濡れた雑巾で拭き掃除しました」
「……そっか」
ここに置いてるのは少し前の古い物で、今でもちゃんと使える優れものだが本渡が言ったのと同じ理由で俺もあまり使ってない。『排気口から出る空気をフィルターとかで綺麗にしてくれる掃除機』、であったとしても、床とかに積もったハウスダストとかを吹き飛ばして舞い上がらせたりするからな。
後、『乾拭きした後に濡れた雑巾を使う』のも知ってるみたいだし。抜けてるとろこもあるけど、案外生活面の素養はしっかりしてるんだな。
「おい荒画くん。『そっか』で終わらせないで、しっかりお掃除してくれた事褒めたり感謝したりしなさいよ」
「あ、ああ。ありがと。中々手ぇつけれなかったとこもやってくれてたみたいだし、助かった」
「っ!! はい、ありがとうございます!」
何度も思うが、表情コロコロ変わるなこいつ。
絵に関する知識はゼロ。これで技術とかセンスもゼロだったら大変どころの話じゃねぇな。そんな事を軽い感じで考えながら、俺は画材道具一式と鉛筆、それとストックしてあるスケッチブックを一冊持ち出した。
まずは、こいつがどこまで描けるかを知るところから始める。じゃないと何から教えればいいか分からないからな。
千里の道も何とやら。さて、描きたい絵を描く為とかぬかしやがったんだ。とことん付き合ってやろう。
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