第三話 緊褌一番

     1



 顔を見た瞬間、身体が強張ってしまう。やっぱ初対面の時の印象が目に焼きついてる所為なのか、ただ相手が階段を上ってくるだけなのに身構えてしまった。

 部屋の場所を教えていなかったので迎えに行こうとしたら、丁度階段を上ってくる彼女と目が合う。相変わらず目つきが鋭い。別に睨みつけてる訳じゃないってのは何となく理解してる。目尻というかアイラインというか、元々そういう風に見えてしまう形をしてるんだろう。


「……昼時の件、大変失礼しました」


 目の前でそう言って一礼されるものだから、別の意味で気圧されてしまった。何というか、一挙手一投足が洗練されてる。

 改めて見ると、綺麗という言葉が本当に似合う人だと思った。

 まず脚が長い。引き締まってるが極端に筋肉質という訳ではなく、透き通る白絹のような肌だった。

 しかも自然体で背筋を伸ばして立ってる。人物画制作の過程で人体や骨格を勉強した際、道行く人の歩き方や立ち方を観察した事があった。大体半分の人が猫背か巻き肩で、自然に歩いてるようで重心が微妙にブレてるのが殆どな事に気づけた。

 だが彼女にはそれがない。矯正用ギプスか、背骨に鉄芯でも突き刺してるのかと思えるくらいに真っ直ぐ、綺麗な立ち方をしてる。

 ……って、結構変態染みた思考してるな俺。こんな時に後輩の女子を観察してる場合か。


「あ、まぁ、えっと……とりあえず気にすんな」

「ぁ……ありがとう、ございます」


 何に対するお礼なのかは気になるがひとまず置いとこう。いつまでも立たせておく訳にもいかないし、時間をかける理由もない。


「こっちに俺の画室があるから、そこで話そう」

「がしつ、ですか……?」

「ああ。……あー、そうか。画室ってのはアトリエの事だよ。スタジオって言うやつもいるけど」

「っ!! アトリエ……」


 あからさまに表情が変わった。絵とか描かない人間からしたら縁遠い場所だろうけど、あんま期待するようなものじゃないんだがなぁ。

 そんな事を思いつつ、俺は美術部から間借りしてる画室へと案内した。


「?」


 廊下の奥まで移動してる中で彼女の歩き方に違和感を覚えるが、あまりジロジロ見ないでおこうと考えた矢先にまた観察するのは不味いと戒めて前を向く。


「どうぞ。適当にかけてくれ」


 そう言って画室に入れると、用意してた椅子には向かわず部屋の中を観察し始めた。一応掃除はしてるので、床も黒板も綺麗にしてるし、保管してる画材道具も種別毎に分けて整頓してるんだが、変なとことかないよな。


「そんな物珍しいか?」

「ぁ、すみません。アトリエとか、初めて見たものですから。……綺麗、なんですね」

「ん? まぁ、毎日掃除してるからな」

「そう、なんですね」


 何か意外って思われてる感じだな。


「すみません。何と言いますか、そこら中に絵の具とか飛び散ってて、色んな絵が置きっぱなしになってるのかなって、想像してて……」

「どんなイメージだ。まぁ、俺が借りる前までは、確かにそんくらい汚れてたけども」

「そうなんですか?」

「ああ。そもそもここは美術部の部屋なんだけど、新しく部活動用の校舎棟ができるって時に拠点をそっちに移したんだよ。そんで、『清掃や備品の管理を請け負ってくれるなら好きに使っていいよ』って条件で間借りさせてもらってんだ」


 今までは市街にあるスタジオを賃貸で利用してたけど、無料タダで使えるってんならこっちの方が断然いい。空調設備も申し分ないし、日射しも部屋を程よく照らすよう計算されてるのか直射が奥まで届く事もない。


「……みんな、総合芸術科の人はみんな、個人でこういうの、持ってるんですか?」

「いや。殆どがデカい部屋をみんなで使うって感じだな。俺は先んじて部長に話通しておいたから優先的に使わしてもらってる」

「へぇ……。すごい、真っ白な部屋……」

「……そろそろいいか?」


 そう声をかけると、気まずそうに部屋の中央に用意した椅子に座る。いつまでも画室見学に没入してるってのは、言っちゃ悪いが迷惑だ。

 常備してある勉強机を2つ並べて、お互い挟む形で席に着く。何というか、生徒同士の進路相談室みたいな絵面だな。

 換気の為に開けていた窓から、生温かい風が入り込んでくる。特に匂いなどしない、春色のそよ風が首やら手の甲やら、剥き出しの肌を撫でてくる。

 じっと真っ直ぐ見つめてくる後輩女子に気圧されないよう、俺はまず昨日の件について軽く弁明した。


「あの時は勘違いするような真似して悪かった。あれは地図アプリで電車の時間を確認してただけで、盗撮しようとした訳じゃない。何ならスマホを直接確認するならしてくれ」


 嘘偽りなく説明したが、流石に信じてもらえるか微妙なラインだ。あの位置から窓越しに内部を撮影できないのは誰が見ても明らかなのだが、同時にこれから撮ろうとしてた、あるいは撮った後に逃亡しようとしてたと疑われたらアウトな位置にいたのも確かだった。スマホを見せると言っても、クラウドか別の端末に写真を保存してこっちの端末内のデータは全て削除済みなのでは、なんて言われるかもしれない。

 疑われた場合は包み隠さず全て見せればいいだけだが、向こうが弁解の余地なく感情的にくってかかってきたら不味い。十中八九力技で捩じ伏せられるし絶対勝てない。

 そんな感じで内心戦々恐々としてたのだが。


「ぇっ……その、大丈夫です。盗撮とか、は、疑ってないので」

「そうなの?」

「だって、昨日、盗撮じゃない、って、言ってたじゃないですか」


 いや、確かに言ったけども。


「嘘じゃないかとか疑わなかったの?」

「はい。嘘じゃ、ないんだろうなって、あの時の言い方でなんとなくわかりましたし」


 それに、と断言するように説明を続ける。


「バッグやポケットの隙間に忍ばせたり、道場内のどこかに隠せたりできるようなカメラじゃなくて、スマホのカメラで盗撮する人なんて、いないと思ったので」


 そう言われれば、そうなのか。

 ようするに、疑われても仕方がない行動をしてたから逆に違うと判断したって事か。まぁ確かに普通バレないような方法でやるだろうってのは分かるが、俺が盗撮じゃないって言ったから信じたって、人が好すぎないかこの子。


「何より、がそういうことをする人じゃないと思ったので」

「へぇ、嬉しい事言ってくれるけど師匠呼びやめろっつったよな」


 大体何で師匠なんだよ、俺は弟子を持った覚えはねぇぞ。


「では、先生とお呼びしても」

「いやだから。普通に先輩じゃだめなのかよ」

「それはなんと言いますか、違和感が……」


 それは何か、俺が先輩としての威厳とかが足りないとか思ってるって話か? いや、師匠やら先生って言いたいって事は、それ以上として見てるって思った方がいいのか。それはそれで困る。

 兎に角、一つ目の懸念事項が払拭できたからよしとしよう。続けてもう一つ、あの時の『頼み事』についてだ。


「……で、昨日の話の通りなら、俺に絵を教えてもらいたいって事でいいのか?」


 そう本題を切り出すと、向こうがいきなり立ち上がって深々と一礼してきた。


「はい!! 矢柄浜高校普通科1年、本渡琴美、これからよろしくお願いします!! 先生!!」


 ……元気がいいのは認める、だが引き受けるとは一言も言ってねぇぞ。



     2



 話の続きといこう。


「悪いが断らせてもらう」

「アトリエの掃除ならお任せください」

「君に教える事は何一つないんだ」

「その他の雑用も勿論、何でもします」

「こっちにだって時間はないし」

「先生の制作の邪魔はしません」


「今時書店とかネットとか、動画配信だとかで描き方調べられるんだし、そっちの方がいいと思うんだけど」

「先生の描き方を間近で見て学びたいと思ったんです!! お願いします、教えてください!!」


 こやつ人ん話いっちょん聞かん(こいつ人の話全然聞かねぇな)!!

 ってか昼に会った時はこんなハキハキ喋ってなかったよな。あれか、普段は大人しくて会話でも聞き手に徹するけど、いざ自分が主張する時はグイグイ行くタイプか?


「……とりあえず一旦座れ」

「あっ、すみません。つい」


 立ったまま言葉で詰め寄らないでほしい。ひとまず座らせて、興奮気味の空手女子を落ち着かせる事に成功する。


「大体何でそこまで教わりたいんだ? さっきも言ったけど、今日日絵の描き方なんてどこでも習えるし調べられるだろ」


 どこかの絵画教室に直接でもオンライン形式でもいいから通えばいいし、というか美術部に入る方が手っ取り早いだろう。流石に学科を変更するってのは、やった事がないから確かな事は言えないが難しい気がする。いくら総合学科とはいえ、普通科の生徒が途中参入するには専門性の高い学科系列ばかりだろうし。

 そんな風に考えていると、案の定というか、想定してた答えが返ってきた。


「先生の絵に、とても感銘を受けたからです」

「っ、……感銘ねぇ」

「はい。どの絵もまるで鮮明で素晴らしいと感じました。本物みたいな質感と存在感で……」

「…………」


 嬉々として語る彼女の目は、屈託などなく、屈折もなく、悪意も害意も感じられない。純麗、そんな言葉が浮かんできた。


「この前拝見した『朴訥な深緑』、素晴らしかったです。地面から隆起する太い根から青々と生い茂る葉の一枚一枚、樹皮の皺や葉脈まで繊細に描かれてて」


 語ってる時の表情は、晴天に浮かぶ雲のように形を都度変えている。口元も微笑していたかと思えば一文字に結び、次の瞬間には口角を可愛らしく吊り上げている。

 手振りも交えて、この絵が良かった、あの絵は荘厳だった、などと感想を述べてくれてる。その姿は初対面の時の威風さとは程遠く、年相応の少女然とした雰囲気だった。

 直射の届かない、しかし貼りたてのキャンバスのように白い画室によって鮮明に見える髪が、窓から無遠慮に入り込む風に靡いて淡い薔薇色に煌めいて見える。

 染めてるようには見えない。天然、なのだろうか。色艶が出せるヘアカラーもあるとネットで見かけた事があるが、そういうのには見えない。ポニーテールに結った髪が首の動きとは無関係にさらさらと靡き、しばらくして止まる。


「ですから、私は先生に絵を教えてもらいたいと思ったんです」

「…………」

「先生?」

「へ、あ、ああごめん。そう、絵、結構鑑賞したりするの?」

「はい。先生の絵を初めて拝見した日から、近くの美術館にも通うようになりまして」


 美術館、そういえば最近行ってないな。昔は後学の為だとか言って、によく行かされてたっけ。

 よく見れば本渡の手、女子にしては少し太くて、そんで長いな。何より指の第3関節辺りが盛り上がってる。少し曲げただけでも骨が浮き上がってるし。拳ダコってやつだったか。あれは皮膚も分厚い所為で盛り上がって見えてるのかな。


「それで、あの、先生?」

「…………えっ、何、どうした?」


「その、失礼ですが、怒ってますか?」


 そう指摘されて、指摘されるまで全く気がつかなかった。

 あからさまに不機嫌な顔をしていたらしい。

 確かに、さっきの矢継ぎ早な主張にはイライラしたが、怒る程のものでもなかったし、今では鳴りを潜めている。とても穏やかだった、筈だ。

 どうやら自覚してるよりも、俺は俺の絵に関して、不快な感情を抱きやすいのかもしれない。


「怒っちゃいないよ。それで、話の続きなんだけどさ」

「はい」

「断る。何度、どんな条件を提示されても、絶対に受ける気はない」

「……受講料等を支払うだとか、そういう条件でもですか?」

「金の問題じゃねぇよ」


 ……少し険のある言い方だったかな。

 向こうも向こうで、タダで教えてもらうのは図々しいだとか考えたんだろうが、そういう話じゃないんだよ。


「大体、絵を習いたいっつってもな、どのレベルを目指す話をしてるんだ? どっかの賞を取れるようにか? 個展を開ける程にか? それとも、そこそこの趣味でそこそこのレベルの絵が描ければ満足か?」


 それとも、『国際展覧会に何度も出展してる俺レベルになりたい』とかか?

 ……我ながら下卑た思考回路だな。こんなセリフ、阿呆すぎて口が裂けても言わないし言えない。


「まぁ理由がどうであれ、お前に絵を教えるなんてやりたくな」

「描きたい絵があるんです」


 俺のセリフを遮って、真っ直ぐな目を向けて主張してきた。


「えっと、正確には風景、なんですけど。あの風景を、覚えてる限りでいい、絵として描いてみたい、残したいって思ったんです」

「……それこそ、そこらの絵画教室に通った方がいいだろうに」

「先生の『写真や映像と見紛う程の写実性と技術』惹かれて、教わりたいって思ったんです。他の先生や、手段が嫌だという訳じゃないんです。が良いって思ったんです」

「別に俺は特別な技術を使ってる訳じゃない。技法を学ばないうちから描いてって、行き詰まったら色んな技法を学んで試してみたり、その繰り返しをしてただけだ。俺の描き方を知っても、上手く描ける保証なんてないぞ」


 絵は、描けば上手くなる。実物か写真か、あるいは誰かの絵を模写するでもいい。何を、どこを、何で、どのように、色合いや輪郭、陰影を表現してるか分析しながら描けばいい。その回数を重ねていけば、着実に進歩はする。

 だから正直、誰に教わるなんて重要じゃない、俺はそう考えている。


「ならせめて、描いてる様子を見させてください」

「は、はぁ!?」

「先生の筆の使い方、色の出し方、様々な事を学びたいんです。教えていただけないというなら、ここで見学させてください」


 本気だ、そう確信した。今更になってこの場所に案内した事を後悔してしまう。

 別に、盗まれて困る技術などないし、目で見て盗むというのなら、一々言葉や手振りで教える苦労はなくなる。まぁそれ以前に、制作の現場を誰かに見られながらやるというのが嫌で堪らないのだが。

 何故俺なのか。模写の仕方なんて、それこそネットの海にごろごろ漂ってるというのに。

 俺の心中の問いを察したかのように、ぽつりと彼女は語り出した。


「『小海こかい』、実際に見に行きました」

「……っ」

「海を一望できる場所にある小さな池で、ある地点から見ると、海との境目がなくなるんですよね。『静瀑』にあった滝にも行きました。その時は冬ではなかったので凍ってませんでしたから、静止した滝ではありませんでしたけど、轟々と落ちる滝も湖も、岩や木の根一つ一つ、絵の通りの光景でした」

「……」

「『朴訥な深緑』も『灼陽』も、全部、先生の手でしか描けないものばかり。そう思ったからこそ、私は先生に教えていただきたいと、思ったんです」


 そう言って、また立ち上がる。


「お願いします、私に絵を教えてください」


 頭を下げてくる女子を前に、もう最初に抱いてた畏怖はなくなっていた。

 何度も嘆願する姿に、何より、俺にしか描けないものばかりだった、という言葉が、俺の心にストンと挿入されていた。

 存外、俺は人の言葉に踊らされやすい性格らしい。


「……1つ、聞いていいか?」

「はい」


 断る事ばかり考えてた俺の中に、この静かに燻ってる火種のような女子への興味が湧いてきていた。


「そんなに頼み込んできて……俺に絵を教えてもらえなかったら、死んじまうのか?」


 そしたら、だ。一礼したままの上体を思い切り起こして叫びやがった。


「はい!!  きっと後悔しすぎて死んじゃいます!!!!」


 ずっと溜め込んでいた感情を吐き出したって感じだった。とっとと教えてほしい、なんて言いそうな顔で。

 彼女の火種が、いつの間にか俺にも延焼してたみたいだった。


「わかった。わかったよ俺の根負けだ。平日は基本的にこの部屋にいるから、好きなタイミングで来い」

「っ!!!!」

「お前の言う『描きたい風景』ってのが描けるようになるまで、付き合ってやるよ」


 途端に、だ。

 ありがとうを連呼して、何度も頭を下げてきた。何というか、感情の振り幅が本当デカいな。この時間だけでも百面相ばりに表情を変えていて、今は晴天のような笑顔を浮かべている。


 さて、冷静に考えて、前途多難だな。

 人に何かを教えるのは俺も初めてだし、緊褌一番で頑張ってみる事にした。

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