第一話 今日も同じキャンバスに向かう

 今日は朝から、何となく厄日になりそうだと思ってたんだよ。そんな事を考えながら、俺は今朝からの行動を思い出していた。


――――


     1



 俺の朝は早い、時もあれば遅い時もある。授業が基本選択式で、どの時限の何の授業を受けるのかは自由なので、早朝から最寄り駅へダッシュしたり、あるいは学校の正門まで自転車を漕ぎ倒す必要もない。

 カーテンの隙間から日射しが入り込み、俺に向かって瞼越しにモーニングコールをかましてきやがった。『太陽めぇ、俺の春眠に暁を覚えさせるつもりはないのか』、と我ながら阿呆な事を思いつつ、ヘッドボードに置いてある時計を確認する。

 デジタル表示で6時51分……。ちなみに今日の授業開始は13時からだ。


「損した気分……」

「起きろー、タツミ。起きねーと永眠させるぞー」


 この物騒なモーニングコールも毎朝の事ながら、もっと可愛げのあるセリフにしてほしいといつも思う。

 頭を起こして自室の扉を見ると、案の定、妹がいた。

 荒画未織みおり。3つ下の中学生。制服姿で朝から不機嫌そうな顔をして、ズカズカ部屋に入ってきたと思ったら勢いよくカーテンを開け放ちやがった。がっつり太陽光が直射してきたので、俺の目もがっつり冴えてしまう。


「未織……俺学校午後から……」

「関係ない。今すぐ起きるか、窒息死か頭蓋骨陥没か好きなの選べ」


 チクショウ、わざわざ選択肢を用意してくれるなんて、我が妹ながら慈悲深すぎて涙が出る思いだぜ……。

 仕方がないのでぬくぬくの布団から起きる。動作が緩慢だったのが気に入らなかったのか、更に不機嫌になった妹から早く来いと手振りで催促されてしまう。


「ほら、朝ご飯できてるんだから早く食べちゃって」


 そう言って部屋から無理矢理追い立てて、1階のリビングまで歩くよう強制される。とりあえず転倒の危険性があるので階段で背中押すのはやめてくれませんかね妹よ。


「母さんと父さんは?」

「もうとっくに出てる。あとはタツミの分だけなんだから、いい加減自力で早起きしろ」

「いやちゃんと自力で起きてたしさっき」

「はいはい言い訳乙」


 はぁ……。朝から塩分過多の対応されると心どころか心臓にクるんだっての。

 愚痴を心の中で圧し潰して飲み込み、潔くいつもの席に腰を下ろした。もうテーブルには炊き立てご飯に味噌汁、ソーセージ3本にレタスのサラダ……あと変な目玉焼きが用意されていた。


「……何この中途半端なメレンゲは?」

「エッグインクラウドよ。知らないの?」


 いや存在は知ってたけども。へぇ、そんな名前なのかこれ。てっきりメレンゲ焼きとかもこもこ目玉焼きとか、シンプルなの想像してた。

 だがこれ、SNSで見かけたやつより若干萎んでるんだよな。普通ふわふわ部分が大きくて、まるで雲の上に半熟の卵黄が乗っかってるようなビジュアルの筈なのだが、メレンゲと卵黄の大きさ比率が逆転してるので、小さい煎餅に黄身が埋まってるように見える。振りかけられたあらびき胡椒が超小さい黒胡麻みたいだ。


「……初挑戦で失敗したな、妹よ」

「う……、っるさいわね、文句があるなら食べなくていいわよ」

「ないよ。ないから食べます」


 普通に腹減ってたし、慈悲深い妹君の手作りモーニングを頂かない訳にはいかない。

 ではいただきます。


「ごちそうさまでした」

「はや……。5分で食べ終わるとか……。ちゃんと噛んで食べなよ」

「美味しかったからついな」


 実際美味しかった。エッグインクラウド、見た目こそ不格好だったが味は濃すぎず薄すぎず、焦げも生焼けも一切ない(半熟黄身は除く、ってかその半熟具合も絶妙だった)。他の品目も言わずもがな。

 呆れながら俺の喰い終わった食器を片付けようとするのを、俺は先んじて手に取ってキッチンに持っていった。洗い物くらい俺だってできるし、自分の分だけなんだから手間もかからない。


「これくらい自分でやるよ。それよりお前時間大丈夫か? 部活の朝練は?」

「朝練とかは、ないけど……」

「なら早起きしてわざわざ朝食作ってくれなくてもいいって」

「いいの。私が作りたいんだし、3人分も4人分も変わんないから」


 さいですか。俺も料理上手なら家族の分も纏めて作ったりするんだが、両親妹共々から全力て止められる程の腕前だからなぁ……。

 洗い終わった食器をナプキンで拭いて棚に戻すと、まるで見届けたかのようなタイミングで未織が部屋を出ようとした。


「あー、今日日直だったわ。もういくね」

「ああ、気ぃつけてな」

「……」


 いくね、そう言った筈の妹がリビングの扉の前で立ち止まり、振り返って念を押してきた。


「ちゃんと学校、行ってよ」

「行くに決まってんだろ。何を心配してんだよ」

「……そっ。いってきます」


 心配そうな顔がすぐに引っ込み、スタスタと玄関まで行ってしまう。

 ……まぁ、に心当たりはある訳で……。朝早く起こしに来るのも、ちゃんとした凝った朝ご飯を作ってくれるのも、その心当たりが原因だ。


「……さて、昼まで何しようかな」


 とりあえず部屋の掃除でもするか、昼飯どうしようか、を同時に考えながら冷蔵庫を開けると、中にタッパーと密閉袋と手紙が置いてあった。


――お昼ご飯、甲斐甲斐しい妹に感謝して食べやがれタツミ――

――みおりより――


「……ありがとうごぜぇます」


 キーマカレーとシーザーサラダ。どっちも俺の好物だ。



     2



 そんで昼まで自分の部屋も含めて、家の掃除に勤しんでいたのだが、『上から落ちてきた箱の角が頭に直撃する』、『蛇口のレバーの力加減間違えて噴射した水を顔から被る』、『仕舞おうとした顔料を床にぶちまけちまう』、と嫌な出来事が連発した。

 今日は厄日だ……きっとそうだ。男の厄年っていくつだったけ、と割と本気で考えながら、ひとまず11時までに終わらせる事はできた。

 昼食後、食器と保存容器、それと丁度空になった炊飯器の内窯を洗っておく。米粒とか白い膜を放置しておいていい事はない、母親と妹を怒らせるだけだからだ。

 寝る用のジャージからブレザーの制服に着替えて、ようやく俺も登校する。

 徒歩十数分で着いた駅から電車に乗り、二つ先の駅で降りる。(危険なのでやるつもりは毛頭ないが)イヤホンで音楽聞きつつながらスマホで漫画を読みながらでも辿り着けるくらい、この道順も慣れてしまった。


 矢柄浜やがらはま総合高等学校――商業、工業、様々な学科系列を設置する公立高校。


 正門から続く煉瓦を敷き詰めた道を歩くと、硝子張りの校舎にかなり大型の体育館、講堂、武道場、学科毎の専門の実習棟など、色んな建物が並んでいる。陸上競技用のグラウンドもあったり、行った事はないがスポーツジムみたいなトレーニング施設なんかもあるらしい。

 授業体制は基本全日制なのだが、1年の段階で1時限毎に何の授業を受けるかをある程度自由に設定できる。だから今日の俺みたいに、午前中の授業を全部受けずに午後だけという事も可能ではある。

 まぁ午前中受けられない科目があったり、出席日数やレポートの提出率、定期テストの点数如何で強制的に出なければならない事態になるので、完全に自由という訳ではない。

 俺はその辺ちゃんとしてるので、こうして悠々と午後登校をしている。全面硝子の校舎棟の群れを横目に、俺と同じ午後登校組とすれ違ったり追い越されたりしながら目的の場所まで歩いていった。


「……ん」


 途中、鼻頭が擽ったくなって指を当てると、ピンク色の花弁が付いていた。

 もう青々とした葉が混ざっているが、正門や今通っている道の脇に植えられている桜はまだ溌溂とした感じで咲き誇っている。今も散り続けているが、もう少しだけこのピンク色の景色が続きそうな気がした。


――――


 さて、そんなこんなで着いたのは芸術系の系列の実習用に設けられた校舎棟。こっちはコンクリートの建物なので通りすぎてきた硝子張りの校舎みたいにギラギラはしてない。

 5階建てで冷暖房の空調設備も充実している。俺はその4階にある一室まで靴のまま向かっていた。

 一応美術部の保有している部屋なのだが、特別に俺専用の部屋として使わせてもらっている。カーテンを閉め切っている、丁度一学年一組分の広さはありそうなの真ん中に机を移動させて、常設おきっぱなしにしているノートパソコンを立ち上げる。


『……えーっと。全員出席してるな?』


 立ち上げと同時に起動したアプリに映像が映し出され、同時にスピーカーから音声が聞こえてきた。


『数学担当の朝倉あさくらだ。出席してるヤツはさっさとチェック入れろよ。授業開始5分前だぞ』


 明らかに染めてます感満載の茶髪をガシガシ掻きながら、朝倉先生はに向かって画面越しに呼びかけている。かと言って不潔感とかは一切ない。格好の整った仕事人間って感じだ。まぁ、実感雰囲気が『ヤの付く御職業の方』っぽくあるけど……。

 言われた通り急いでウィンドウ内にある『出席』の項目をクリックし、いつもと同じように授業で使う参考書や提出用の問題データを画面上に出しておく。


『はーい、13時になったので授業開始するぞ。ちなみに山笠は2秒遅れでチェックが付いたから遅刻扱いな』


 映像にはホワイトボードの前に立つ朝倉先生しか映っていない。

 現在この授業という名の映像を80の生徒が同時に視聴し、授業に『出席』している(ちなみに何で人数分かるのかというと映像の端に出席数80人と表示されてるから)。恐らく今頃、質疑応答用に先生が開いているチャットルームで山笠なる生徒が抗議しているのだろう。『お前なぁ前回も前々回も前々々回も遅刻したよなぁ?』と喋ってるので間違いない。


『じゃあ前回渡した課題、全員提出しろ。今日は前半で課題の解説、後半で複素数と方程式をやってくからな』



     3



『新しい生活様式』だとかが世間で言われ始めた頃より以前から、この学校はリモートによる通常授業を導入している。その為のライブ配信用アプリも、出席したかどうかを一目で判断できる管理システムも、それらに必須となる情報端末の全生徒への配布も、この学校では常識となっていた。

 今となっては『新しい生活様式』の新しいも校内外の常識から完全に無くなっている。それでも、それまでに築き上げた利便性というのは、手放すには惜しい代物ばかりだった。

 この授業体制もその一つ。他の学校はどうだか知らないが、少なくともここでは、同じ学年の同じ組の人間が雁首揃えて一つの教室に集まるといった方法はほぼ消滅している。

 例えば先程の朝倉先生や、今受けてる世界史の授業の場合、出席してる生徒の大半は恐らく、新幹線を使わないと通学できない場所に住んでる人だろう。

 通いたい学校、受けたい科目、習いたいカリキュラムが、様々な理由で受ける事ができない。そんな人達にとって、この方法は打って付けだった。


『では、今日の授業はここまでです。授業内容をレポートにまとめて、来週の午前10時までに提出してくださいね。わかりましたか山笠くん?』


 世界史の弓花ゆみはな先生にまで釘を刺されるとか、山笠とかいう人、どんだけ教師陣に信用されてねぇんだよ。全体的にいつもふんわりしてる美人教師の弓花先生が、ニコニコしてるのに目が全く笑ってないし。

 俺は本日最後の授業を終えると、レポートの下書きをせっせと作っていく。下書きくらいまでの段階で、残りは家でやってしまおうとメールに添付して私物のタブレットに送信しておく。


「……よし」


 時刻は15時12分。この後は何の授業も入れていない、実質放課後。

 何をするのか? その答えは既に開示されている。画室……要はアトリエでやる事と言えば決まってる。


「えっと、確かあの辺に……」


 俺は部屋の隅に並べてあるキャンバスとイーゼルを取り、部屋の中央に立てる。まだ何を描かれていない真っ白なキャンバスを目の前に、じっと椅子に腰かけた。


 総合学科芸術系列。


 系列の中にも色々あるが、大きい括りだと『音楽』、『書道』、『美術』の3つ。俺はその中の美術コースに在籍している。

 それぞれのコース専門の科目があって、さっきみたいな形式の授業を受けたり、あるいは実際に教室まで出向いて実習も交えた授業を受けたり、本当に色々ある。


「…………」


 そして、今日も同じキャンバスに向かう。

 昨日、一昨日、一昨々日と、全く変わらない真っ白なキャンバスに……。

 別に描けない訳じゃない。正直、風景画も人物画も、なんなら水墨画だって描けると言い切れる経験と実績を持ってる。


 ただ、描きたい絵にならない。


 こうだ、と思考した通りに描こうとすると、どうしても違和感を覚えてしまう。一度抱いたその違和感をそのままにしておきたくなくなる。

 景色、物品、現象、生物無生物問わず、色も形もそのままで描くのなら問題ない。だが、

 いっその事、最初に目についた物を描いて、そこから新たに想像してみるか、などと考えデッサン用の鉛筆を走らせる。

 だが、ぴたりと止まってしまう。

 勿論自分の意思で止めた。手が勝手に止まったのだと自分自身に言い訳しない。したところで馬鹿らしいし意味がない。

 そうやって目の前のキャンバスや、部屋に常備してあるスケッチブックに黒鉛色を足していく作業を続けていく中、聞き慣れた音が耳に届いたので思わず時計に視線を向ける。


「……18時」


 正しくは17時52分だが、この際18時と大差ないだろう。体感では30分くらいしか経過してないと思ってたのに。

 こんな事なら朝早くから登校して、授業開始まで制作に勤しめばよかった、などと考えて即座に否定する。

 本当なら出展用の作品を完成させなきゃいけないのに、完成させる気がない。完成させなくても構わないと思っている自分がいる。とっくに気づいていた。

 

「あぁ〜もうやめだ。帰ろ」


 流石に下校時刻過ぎてまで居残る必要はない。せっかく出した画材を全部元の場所に仕舞って部屋を出た。

 ずっとこの調子だ。2年に上がる少し前から、ずっと。

 わざわざリモートで受けられる授業を登校してまで出席するのも、自室にいたら『本当に描けなくなってしまうのでは』と考えないようにする為だ。そうやって何度も登校しては何も描かず帰り、登校しては描かずに帰りの繰り返し。

 履修してる科目の最終課題の作品はちゃんと提出できてるので成績は問題ない。あんなの、惰性と妥協でいくらでも量産できる。

 でも……。


「…………ちっ」


 下校途中、登校時とは別の場所を通ったので、そこらの学校にもあるであろう掲示板の前まで来てしまった。

 そんで、見ちまった。


『秀才!! 文部科学大臣賞受賞 荒画辰巳!!』


 デカデカと貼られた校内新聞と、地元新聞と全国紙の新聞それぞれの記事がいくつもある。どこもかしこも似たような内容で荒画辰巳荒画辰巳。そう、俺の事だ。


「いい加減剥がしてくれよ、何年前の話だ」


 自力で剥がそうにも鍵付きの硝子戸で守られてるし、流石に器物破損の罪まで背負って剥がそうとも思わない。今度新聞部に直談判して剥がしてもらおう。


 俺は『俺の描いた絵が気に入らない』。


 描きたい絵じゃないから、惰性と妥協で完成させたから、理想とは程遠いから、と色々理由はある。どれも我が儘で舐め腐った理由。俺が賞を逃した他の出展者や、日夜懸命に努力してる絵描きだったら今頃殴り殺してるだろう。

 でも、気に入らない。


 がきっかけで、俺は俺の絵を気に入らなくなった。


「……早く帰ろ」


 風と木の葉の音が敷き詰められた並木道を通って、見慣れた正門まで歩いていく。

 帰ったら、帰りが遅いだのなんだのってまた未織に怒られるんかな……。


「……ん?」


 そんな事を考えていると、近くから声が聞こえてきた。女子の声が多い。何かのかけ声だ。ヤーとかセイとか。

 声のする方向を見ると、他の校舎や体育館よりもかなり小さい建物が見える。確か武道場だった筈だ。小さいと言っても、大人200人とか300人とか余裕で入りそうな広さはある。

 武道系の部活動でもやってるんだろう。時折『押忍』なんてかけ声も聞こえてくる。当然女子の声だ。


「……いっそ練習風景描いてそれを提出しようかなぁ」


 いやいや、これじゃあただの覗きみたいじゃないか。『皆さんの練習風景を絵にしたいので見学してもよろしいですかぁ?』、なんて言おうものならたちまち犯罪者の仲間入りだ。ちなみにこの方法で了承を得られる確率はいくつか?  方程式などがあれば是非とも教えてほしい。

 既に数時間何も進展しないまま時間を浪費したのだ。これ以上人生の無駄遣いはしたくない。

 そういえば電車の時間把握しとくの忘れてたな、と思い至りポケットからスマホを取り出して地図アプリから電車の来る時間を調べようとした。

 その一瞬だった。勢いよく武道場の窓が開いて何者かが上半身を乗り出してこっちを睨みつけてきたのだ。


「っ!!!?」

「…………」

「え、と……?」


 本当にいきなりだったのでびっくりして固まってしまう。室内の照明の所為で顔はよく見えないが恐らく女子。女子用ブレザーと長い髪は目視できたので間違いない。

 ついでに言えば、影で見えにくくなっている顔の中で鋭い眼光だけはばっちり見えていた。


「あ、いやこれはその……」


 この時俺は痛恨のミスを犯した。

 電車の時間を調べようとスマホを持ってたのだが、裏側のカメラが丁度武道場側を向いていたのだ。これだと男子生徒が武道場内を窓越しに撮影してるように見えなくもない。


「……盗撮?」

「いや違うから!!!? 断じてちが」

「そう……違うんだ……」


 そこから相手方は迅速だった。窓から飛び降りたと思ったら地面を蹴ってこっちに迫ってきた。

 俺は窓に足をかけた段階でもしやと思ったので、すぐ様逃亡を図った。お陰で即捕縛されずに済んだのだが、そこからが地獄だった。

 振り返る間も惜しい思いで全力疾走し、並木道に差しかかったところで遠方の正門を確認する。このまま一気に駆け抜けよう、そう思った矢先だった。

 並木の間からさっきの女子が飛び出してきた。しかも目の前に。

 俺は咄嗟に方向転換してとにかく走った。もう肉離れとか筋肉痛とか心配してる場合じゃない。建物内外を適当に走り回り、陸上競技用グラウンドを横切ったり、とうとうどこを走ってるのかも分からなくなるまで兎に角駆け回った。


「ぜぇ……ぜぇ……!!!!  ここまで、来れば……もぉ、追って……!!!!」


 肺やら気道やらに激痛が走る。膝とか太腿も痺れるくらい痛いし疲労が溜まっていた。

 ふらふらの状態で硝子張りの校舎の裏まで来て、もう大丈夫だろうと辺りを見渡した。


 いた。しかも後ろとか前とかじゃない、だ。


「うをわぁっ!!!?」


 向かい側の校舎、恐らく3階辺りのベランダから跳躍し、その先に伸びている雨樋を掴みつつ、勢いを下半身に乗せて硝子窓の冊子を蹴って2階のベランダへ。すかさず跳躍したと思ったら身体を捻り、回転しながら俺の目と鼻の先で見事な着地を決めた。

 ついでに両手で俺に壁ドンしながら、だ。心臓に悪いったらない。人生初の生パルクールを目の当たりにしたが、感動も興奮も一切ない。

 そりゃそうだ。盗撮冤罪の恐怖と追われる恐怖、ついでに鋭い眼光への恐怖のトリプルパンチで全身ガクガクだったからな。


 ここでようやく冒頭に戻る。

 この神出鬼没の女子、本渡琴美ほんどことみに冗談みたいな嘆願をされるのは、この約30秒後の事である。

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