空の掌

神群俊輔

空っぽの手を持つ者同士

序章 空っぽの頭、震える膝

 無心で描いていても、すらすらと動かしていた手が止まる事が多くなった。

 ふっ、と、消えてしまうのだ。筆を握る手や指から力が、頭の中で思い描いていた構図が、霧か靄にでもなってしまったかのように。


 空っぽの手だ。何かを生み出す為の、才能だとか技術だとか、創意も個性もない、肌色で乱雑に塗りたくられた空虚な手だ。


 だから画室を出た。気分転換だ。一応毎日清掃はしてるし、備品や画材も整頓しているけど、やっぱこういう時は外の空気を外で吸うのがいい。晴天だし。

 そうやって色々と考えて、いや、言い訳を思い浮かべながら歩いていたのだが、数分後、全力疾走で校舎内や校舎周りを移動する羽目になり思考なぞ完全に吹き飛んでいた。


「やっと……捕まえた……!!!!」


 結局俺の画室がある棟の壁まで追い立てられてしまった。両腕で俺の頭を挟むように壁に手を突いてくるものだから、思わず変な悲鳴を上げてしまう。手を突いた音も結構デカかったし、耳元だったし。

 額や鼻に降りかかってくる吐息が生温かい。男子だったら気色悪いと跳ね除ければいいのだが、二つの理由でそれができないでいた。

 一つは相手が女子だという事。光の当たり具合で綺麗な薔薇色に見える一纏めに結った茶髪、紅潮した頬、黒真珠のような瞳。可愛いよりも綺麗や美人という表現が適切な女子高生。確か一個下の後輩だった筈だ。

 そしてもう一つが、


「逃げないでくださいよ……話、できないじゃないですか……」


 女子の割に鋭すぎる眼光を向けながらそう言ってくるから、美人だ何だと思っていても兎角怖い。

 一応高校男子の平均身長より少しだけ高い俺なのだが、この女子、そんな俺を平然と。俺高2だぞ、先輩だぞ、しかもしゃがんでないぞ。どんだけ背丈あんだよ……!!

 というかこっちはぜぇぜぇ息切れしてるってのに、もう息切れ回復してるし。お陰でこっちは追っかけられた恐怖と相俟って真面に返事すらできないってのに。

 追いかけられる理由なんぞ全く覚えがない。その剛拳でもって血袋に変えられるんじゃなかろうかと怯えていたら、一層眉間に皺を寄せて……。


「私に、絵を教えてください!!!!」


 …………。

 疲労と緊張と恐怖で頭が空っぽだった俺は、今の言語を理解する機能が抜け落ちていた。全力疾走の弊害で膝が笑ってるんだから、心身共に手一杯な訳で。


 兎に角、だ。


 冗談みたいな状況で冗談みたいな事を言われたこの俺、荒画辰巳あらがたつみの春頃の話である。

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