38.ちゃんと待っててくれた。

 式の翌日、スイートルームをチェックアウトしたその足で、準備しておいた婚姻届こんいんとどけを役所の休日窓口に提出した。そして、新居に帰った。


 慎一郎しんいちろうが先に入居して、生活できるように整えていた。撫子なでしこ慎一郎しんいちろう、二人で買ったインテリアもそろっている。とにかく諸々もろもろの準備で忙しかった撫子なでしこの荷物は最低限で、これから後追いの移動だ。


 新居は潤子じゅんこから慎一郎しんいちろうへの事実上贈与じじつじょうぞうよで、家賃がない。撫子なでしこも仕事は続けるので、なかなか気楽なものだった。


「んー。まあ、あたしとしちゃ姫さまとのあれこれも聞き出したかったけど、ヒカっちがそう言うなら、後の楽しみにしておくわ。ヘナチョコもこれにりて、乙女おとめっぽい自意識過剰を心がけることね!」


「おまえの丸投げも原因の半分なんだぞ! 自重じちょうしろよ!」


「聞こえないわー」


 満面の笑顔でシフォンケーキを食べる撫子なでしこに、アシャスはもう一度、内心でため息をついた。


「それにしても……思い出したら、悪寒おかんもぶり返してきたな。女神さま、まさかあいつまで、転生させたりしてないよな……?」


「しているぞ」


 リビングのすみ、天井てんじょうまで悠々とそびえるしん伏魔宮殿ふくまきゅうでんたるキャットタワーから、ミツヒデがあくび混じりに答えた。


「旧世界が熱的な死、拡散膨張かくさんぼうちょうによる熱総量ねつそうりょうの減少で崩壊に至るというのは、最終決戦でも話したな。万物は熱量を、形を変えて消費し、崩壊に向かう。生命も同じだ。環境に存在する熱量を吸収しながら活動して、個体死で終焉しゅうえんする」


「……いや、ちょっとわかんない。ミツヒデ、あんた、どんな本読んでんのよ?」


「エントロピーだね。お料理は放っておくと冷めて、あっため直すには、もっと熱い火や電気から熱を持ってくる、ってことだよ、撫子なでしこちゃん」


「生命やたましいも、同じ循環構造じゅんかんこうぞうにある、ということですね」


 撫子なでしこ慎一郎しんいちろう、ヒカロアが整理する。三人で猫一匹分だ。


「そうだ。生命が終焉しゅうえんまでに吸収する熱量は、発散する熱量に比較して、はるかに多い。世界の熱は、最終的に生命活動の消費としてたましい還元かんげんする。そのたましいが、熱として回帰する母集団ぼしゅうだんが、次の世界のみなもとだ。至極単純しごくたんじゅん模式化もしきかすれば、通気弁でつながった二つの容器だな」


 通気弁は方向性を持ち、熱は、一方からもう一方に移動する。冷える方の過程が、物質世界であり、生命活動だ。生まれ変わり、容器内の循環じゅんかんも繰り返しながら、総熱量が少しずつ不可逆ふかぎゃくに移動していく。


 容器内の循環じゅんかんをコントロールするのが<流転の宝輪ケルルパイル>、完全に冷却した容器を廃棄はいきするのが<破界の魔槍ザカーティウス>、新しい容器をセットして通気弁の方向を変えるのが<創世の聖剣ウィルギニタス>、一連の作業の管理人が女神というわけだ。


「え……じゃあ、本当に……?」


 青ざめたアシャスに、ミツヒデが、愉快そうにのどを鳴らした。


離散集合りさんしゅうごうは、ある。たましいは生まれ変わる過程で、一つに溶け合い、また新しい個を形成する。おまえたちや吾輩わがはいのように、同一の個として存在し続けるわけではない。安心しろ」


「そう言われても、あの女神さまのすることだからなあ……」


 アシャスのぼやきは、不遜ふそんもいいところだった。潤子じゅんこが聞いたら口をへの字に曲げるだろうが、撫子なでしこ慎一郎しんいちろう、ヒカロアもミツヒデも、しばらく無言になった。


「でも、そうか……みんな、いるんだな。ここに」


 アシャスは窓の外の空を見て、隣に座るヒカロアを見た。


「おまえの言う通りだった。みんな、ここで、ちゃんと待っててくれた。ありがとう……俺は、幸せだ」


 アシャスを見て、ヒカロアが微笑ほほえんだ。


 アシャスも微笑ほほえんで、キスをした。


「えー。こほん。なんかもう、このままエンディングに突入しても良いようなとおとさだけど。現実を生きるあたしとしましては、ここらで現実的な相談をしたいと思いますのよ」


「な、なんだよ? 急に、変な口調で」


 撫子なでしこのほくほくした声に、アシャスは少し慌てた。ヒカロアと慎一郎しんいちろうは、すずしい顔だ。


 ミツヒデはミツヒデで、もう他人事たにんごとなのか、のんびり毛づくろいを始めている。いつの間にか、タブレットがキャットタワーに移動していた。


「なんだよ、じゃないわよ。あんたもめでたく童貞卒業どうていそつぎょうしたんだし、ちゃんと夫婦のいとなみ的な、優先順位を決めときましょうよ! 偶数奇数の日で分担ぶんたんするってのはどうかしら?」


撫子なでしこ! いろいろ言葉もアレだけど、とにかく、つつしみ!」


「もちろん、いろんな都合で毎晩きっちりってわけにもいかないから、そこは臨機応変に相談するとかさ」


「なるほど。重要かつ、緊急の議題ですね。私に異存はありませんが、アシャスはいかがです?」


「お、お、俺に聞くなよ! 答えられないよ!」


「それじゃあ、決まりですね。ヒカロアさん、ぼくも撫子なでしこちゃんも見守っていますから、アシャスさんをよろしくお願いします」


慎一郎しんいちろうくんっ? 話の落とし方っ!」


 アシャスの顔が、林檎飴りんごあめのような色になった。


 四人の二人芝居もだいぶこなれて、合意形成の流れがスムーズだ。アシャスとしても、もうふくれっつらで飲み込むしかない。


 撫子なでしこ慎一郎しんいちろうが笑って、少し遅れて、アシャスとヒカロアも一緒に笑った。


 ちょうどその時、婚約指輪を買った宝石店からおくられた、建物をした卓上時計台たくじょうとけいだいのミニチュア・ウエストミンスター式チャイムのオルゴールが、正午を告げるメロディーをかなで始めていた。

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