第五幕 男の子にさよなら?

32.正直に申します。

 街を見下ろす窓辺に、物憂ものうげにたたずむ潤子じゅんこを見つけて、かえでは頭をかいた。


 憂鬱顔ゆううつがおにも我慢してつき合う、と約束した手前、ここで知らないふりはできない。隣に立つと、潤子じゅんこは、少しだけ姿勢を変えた。


 かえでは、そのまま待った。女性の悩みごとに、先回りは無用だ。静かに呼吸を二つ、三つ数えた後に、潤子じゅんこが、留袖とめそでえりに手をあてた。


かえでさん、私は……正直に申します。撫子なでしこちゃんと彼の交際がうまくいかないよう、自分のねらう方向へと、運命に干渉かんしょうしました。百三十八億年の昔からそうしてきたように、いつものように、です」


「相変わらず、スケールの大きな話ですな」


 かえでが苦笑する。


「まあ、いろいろ直接、見聞きしましたし。あなたが女神というのも、もうそのまま納得するしかないですよ」


恐縮きょうしゅくです。ですが……今は、どうやら思考も、人の身に近くなっているようです」


 潤子じゅんこが、視線をさまよわせる。かえでも同じ方を見た。窓の外、高層階から見る晴れた昼下がりの街が、まぶしかった。


「こうして、人の身でながめてみると……自分の及ぼした影響が、恐ろしくもなります。私の、運命への干渉かんしょうが……撫子なでしこちゃんと彼の交際を破綻はたんさせようとした因果律いんがりつが、薬物の使用などという形で表面化したのだとしたら」


 潤子じゅんこの手が、えりを握った。


「彼の人生をあのようにゆがめ、おとしめてしまったのは……私の意思なのではないか、と、不安になっています」


「想像できないことも、ありませんがね」


 かえでの声は、いつもと同じ調子で、軽かった。潤子じゅんこが責めるような目を向ける。かえでが、両掌りょうてのひらを顔の横に上げた。


「少し気になっていたのですが……潤子じゅんこさんはどうして、撫子なでしこ撫子なでしこのままにしておいたんです? ねらった相手とくっつけたいだけなら、あんな野放図のほうずじゃなくて、もっと従順な性格にしておけば楽だったでしょうに」


「そんな細かい調整ができれば、苦労はしません。天変地異ならともかく、運命干渉うんめいかんしょうというのは、もっと迂遠うえんなものなのです」


「つまり、運命なんてその程度ってことですよ」


 かえでが笑う。今度は苦笑ではなく、微笑ほほえみだった。


「人間一人一人の行動、全部に干渉かんしょうできるもんじゃないでしょう。百三十八億年も失敗してきた潤子じゅんこさんなら、その辺は、誰よりも身にしみてるんじゃないですか?」


「まあ……!」


「そりゃあ俺だって、うまくいかなかった恋愛なんて、それこそいくらでもあります。運命だったかも知れませんが、その都度つど、人生をゆがめるほどひまでもなかったわけで。ドラッグに手を出す奴の行動なんか、結局は自己責任でしかありゃしませんよ」


 かえでが肩をすくめた。


 一斉摘発いっせいてきはつは成功して、都内の複数の大学を巻き込んだ脱法ドラッグ騒ぎは、なんとか大スキャンダルになる前に収束した。


 サークル活動に名を借りた販売ルートの構築は、不思議にも被害にあった、というか自発的意思の曖昧あいまいなまま加担かたんしていた学生たちの全員が、関連する記憶を一切合切いっさいがっさいなくしていて、霧消むしょうした。


 肝心かんじんのドラッグの方は、原材料の植物が新たに薬事法を始めとする関連法の規制植物に加えられ、また、なぜかすべての実物と精製記録も完全消滅して、暴力組織の側も興味を失った。


 学生の火遊びにしては、危ないところだった。いずれは都市伝説にでもなって、忘れ去られるだろう。


 事件の主犯として逮捕された菅野月かんのづきのぞむは、記憶障害がもっとも大きかった。


 ここ十年間の記憶をすべて失い、警察病院で目を覚ました時、高校の出席日数と大学受験の心配を口にした。事件前の、関係者の供述きょうじゅつからはほど遠い素朴そぼくな性格になって、自分の罪状ざいじょうを説明された時は卒倒そっとうしそうな顔色になっていた。


 遡及そきゅうして薬事法違反にはならないものの、傷害、誘拐ゆうかい、監禁、暴行未遂は現行犯だ。いきなり十年後の犯罪者になったのぞむの現人格にとっては、地獄だろう。


 心神耗弱しんしんこうじゃくは、犯罪が成立した時点での責任能力のなさを立証できなければ、適用されない。肉体的、戸籍的に成人しているのだから、少年法も適用外だ。


 いささかこくかも知れないが、まあ、真摯しんしな気持ちがあれば、すべてはこれからだ。


 潤子じゅんこが窓を離れて、かえでに向き直る。


「運命とは、いわば、無数の命を運ぶ大河の流れ……女神でさえ、自由に操ることはできません。恐ろしいとは思いませんか?」


「外から見ればそうかも知れませんが、中で泳いでいる魚の方は、これで結構のんきなものでして」


 かえでも、潤子じゅんこの目の奥を見つめた。


潤子じゅんこさんも、せっかく中に飛び込んでこられたのですから、今生こんじょうくらいはのんびり構えられたらいかがです? 神さまレベルであれこれ考えてたら、女性でもハゲますよ」


「……こう見えて、五十路いそじに入りました。冗談に聞こえませんね」


「まったくもって冗談です。いつも変わらずお綺麗なので、年齢など、ついつい忘れてしまいます」


 潤子じゅんこの口が、まんざらでもなさそうに、への字に曲がる。かえで微笑ほほえみながら、自分の胸の真ん中を人差し指でつついた。


「誰だかの言葉ですが、人は自分の人生しか生きられない、その人生と、自分の外にある運命を正しく認識した時、初めて心が自由になるそうで……まあ、正確なところは、そのうちミツヒデに講釈たれてもらうとしましょうか」


 かえでが、潤子じゅんこに手を差し伸べた。


「女神さまや魔王さまのやらかしが、あってもなくても、現世の人間の功罪は、現世の人間が手をつなぎ合って責任を持ちます。そういうもんでしょう」


「なんだか少し、不遜ふそんなようにも聞こえましたが」


「それは失敬」


「許します。女神の心は寛大かんだいです」


 潤子じゅんこが、ふん、と鼻息をついて胸を張る。への字に曲がった口が、すぐにかえでと同じ、微笑ほほえみに形を変えた。


 待合ロビーに、会場係員の声がかかる。スーツ、和装、フォーマルドレスに着飾った招待客が、開いた扉にそぞろ歩く。


「式が始まるようです。俺たちも行きましょう」


 折り目正しいライトグレーのスーツを着たかえでの手に、黒留袖五くろとめそでいつもん潤子じゅんこが、手を重ねる。そしてちょっとだけ、悪戯いたずらっぽく目を細めた。


「それはそうと、慎一郎しんいちろう撫子なでしこちゃん、驚くかしら?」


「でしょうね」


 かえでは肩をすくめて、もう少しだけ、と、自分の口に内緒話ないしょばなしの一本指をあてた。

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