31.なんだったんだよ!

 滅んだ世界が戻らないように、転生した生命いのちも、他の何物にも戻らない。


 今ここに存在する肉体も、意思も、同一の状態に存在し直すことは二度とない。進むしかなかった。その概念を時間と定義するのなら、時間は進むだけで、絶対に戻ることはない。


 アシャスのくちびるを、ヒカロアの指が、そっとなぞった。


「今のあなたは、か弱い女性です。衣服を脱がされ、お尻をかじられて、笑って済ませるわけにはいかないでしょう」


「いや……それは昔だって、笑えなかったけど」


「私は笑いました」


「おい」


「ですが、今のあなたでは笑えません。先刻までの私が、どんな気持ちでいたか……おかしいですね。男性だろうと女性だろうと、あなたには変わりないはずなのに」


 その言葉が、アシャスの胸に響いた。


 もちろん、アシャスにもわかっていた。なにもかもが変わって、自分も変わらなければならないことは、とっくにわかっていた。


 それでも、それだけ、言って欲しかったのだ。


「私は……あなたを愛しています。それが私のわがままでも、あなたを守りたい。私が守れる、手がとどく私のそばから、もう離れないで欲しいのです……アシャス……」


「うん……わかってる。ごめん、ヒカロア……」


 アシャスは目を閉じた。動けない身体を、ヒカロアにあずけた。


 触れ合った身体が暖かかった。意識のすみっこで観葉植物っぽいなにかが身悶みもだえしている気もしたが、この際、無視した。


 長いような、短いような呼吸が交わって、ヒカロアがアシャスのほおにキスをした。そして、立ち上がった。


「さて。この感触も大変に名残惜なごりおしいのですが……あなたは少し、そのまま反省していてください。後始末をしてきます」


「え……? あ、おい……」


 離れるなら手か足か、どっちかほどいてくれ、と言いかけて、アシャスは息を飲み込んだ。


 慎一郎しんいちろうは、明るい色のオフィスカジュアルだった。


 退勤してまっすぐ、約束していた撫子なでしこの部屋に行ったのだろう。猫っ毛の黒髪も、少し乱れていたが、さっぱりとして短い。


 その輪郭りんかくがぼやけて、黒髪が長く伸びた。


 身体中から無数の翼のように、紫に輝く炎が広がった。


 吹き上がる紫炎しえんになびく黒髪が、闇を生んで天地をつらぬいた。収束していく闇が、禍々まがまがしいあぎとを開いたような、黒曜こくよう長槍ちょうそうを形成する。


 万象輪廻ばんしょうりんねの三神器、神の御業みわざを代行する、世界より先に存在していた原初げんしょ神性遺物アーティファクト一柱いっちゅう、滅びをけられない終末世界に福音ふくいんをもたらす破壊のことわり、<破界の魔槍ザカーティウス>だ。


 長い黒髪と紫炎しえんの幻像に身体を包んで、<破界の魔槍ザカーティウス>を右腕にたずさえ、アシャスを背中に守ってヒカロアが立っていた。


「ええええええっ? おま、それ……ッ? どうして……っ?」


 仰天ぎょうてんするアシャスをひらりと飛び越えて、ヒカロアの横にミツヒデが歩いていく。


「手伝おう。配下と下僕げぼくもてあそばれて、吾輩わがはいも愉快ではない」


 黒くつややかな毛並みが、真紅しんく脈動みゃくどうした。


 壇上だんじょうはし、ケージの中の二匹一羽一頭が、同じく脈動みゃくどうして分散、飛翔ひしょうした。一環十八珠いっかんじゅうはっしゅ六環ろっかんの軌道に百八珠ひゃくはっしゅ宝珠ほうじゅ旋回せんかいする。


 万象輪廻ばんしょうりんねの三神器の一柱いっちゅう、拡大と循環じゅんかん、永遠不変と万物変転ばんぶつへんてん両極りょうきょくを新生世界にもたらす調和のことわり、<流転の宝輪ケルルパイル>だ。


 宝珠ほうじゅ旋回軌道せんかいきどうの中心に、見上げるような巨躯きょくの幻像が浮かび上がった。四本の角に銀髪、黒檀こくたんの肌と黄金の両眼、真紅しんくの甲冑に翼状つばさじょうのマント、そして赫光しゃっこう碧青へきせい翠緑すいりょく白朧びゃくろう四天してんの竜をまとった魔物の王、魔王ワスティスヴェントスだ。


「お、おお、おまえまで……なんで、それ……っ?」


「四天王は吾輩わがはいたましいと、神器の力を分散させた存在と言っただろう。であれば、こういうことも可能な道理だ」


「神器はたましいと結びついています。慎一郎しんいちろうたましいが、私の意思にこたえてくれました……多少、強引でしたが、やってみるものですね」


 ヒカロアとワスティスヴェントスが、壇上だんじょうに並び立つ。


 睥睨へいげいする講堂の空間も低予算ゾンビの群れも、神器の輝きに、もう、まっしろのぺらぺらに漂白ひょうはくされているようだった。


 背中側のアシャスから二人の顔は見えないが、見えないことに、やっぱりあまり意味がない。


「え、ええええ……っ? じゃあ、それ、俺にもできるってこと……? まだ俺、勇者? さっきまでの会話、なんだったんだよ!」


「マウンティングです」


「ひどいこと言い切ったよっ?」


 アシャスの、ほとんど悲鳴に、二人の声は表面上はすずしいものだった。


「そうだな。この連中の生命いのちを、不変に固定しておこう。これでどんな状態になっても、死ぬことだけはあるまい」


「ついでに地球もお願いします。少し手が、すべりそうですので」


「おおおおおいッ! ななななに考えてんだッ! やめろって! そんなもの、迂闊うかつに振り回したら……っ!」


 なんと言っても、百三十八億年前に、旧世界を終わらせた<破界の魔槍ザカーティウス>だ。以前は旧世界を固定していた<流転の宝輪ケルルパイル>も、今や、膨大無偏ぼうだいむへんな力を自由に解放できる状態だ。


 ヒカロアが、少しだけ考えるふりをする。


「確かに、こんなゴミ掃除に使うものではありませんが……そこは、まあ、オーナー特権ということで」


「また世界が滅んだらどうする気だよっ! こいつらだって、変なクスリでおかしくなってるだけで……し、慎一郎しんいちろうくん! あの、ちょっと、聞こえてるかな? 君からも、ヒカロアを止めて……」


「ぼくが? どうしてです? 撫子なでしこちゃんの害になった連中に、同情する気なんてありませんよ」


 慎一郎しんいちろうの声は、ヒカロアよりわかりやすく冷厳れいげんだった。


「えええええっ? あ、あれ? 慎一郎しんいちろうくん、もしかして怒ってる? 初めて見たような……っ」


「おお……なんか、かっこいい。トゥンクってした」


撫子なでしこっ! のんきなこと言ってないで! 大変だからね、この状況ッ!」


「ええと、ヒカロアくん? ミツヒデ? 俺も、横にどいていた方が良いのかな……?」


 かえでが、答えも待たず、下着姿の芋虫いもむし米袋こめぶくろのように肩にかついだ。そそくさと退散の姿勢だ。のぞむ壇上だんじょうのすみっこで、低予算ゾンビどもと同じく、書き割りのように動けなくなっている。


「ですね」


「うむ」


「ちょっッ! 待てッ! バカぁぁぁああああああッッ!!!!」


 アシャスが絶叫した。


 絶叫をかき消して、世界の終末に匹敵する、かも知れない光が、週末の都内からこの惑星ほしのすべてに広がった。

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