30.王子さまをおとどけだ。

 ほんの少しの瞬間、静かだった。アシャスの身体を、ふわりと、なにかが包んだ。


「まったくです」


 アシャスの真上、すぐ近くから、呼んだヒカロアの声がした。


「何度、あやまってもらっても足りませんよ。本当に……あなたは」


「ヒ、ヒカ……っ?」


 アシャスは、自分でも気がつかないうちに固くつむっていた目を、開いた。開いた目の真上に、猫っ毛の黒髪を少し乱した、優しい眼差しがあった。


「遅くなってごめんね、撫子なでしこちゃん」


「シ……シンイチロぉぉぉおおおぉぉぉっ!」


 慎一郎しんいちろうの声に、撫子なでしこが泣きべそをかいた。そんな場合では、まだないはずだけど、全身の力が抜けた。


 呆然とする視界のはしに、するりと黒猫も現れた。


「なかなか良い格好だな、下僕げぼく


「ミ、ミツヒデ……? おまえまで、どうして……」


「説明するのは三回目だぞ。此奴こやつらは吾輩わがはいたましいと、神器の力を分散させた存在でな。視覚しかく聴覚ちょうかくから、状況を監視していたのだ。それなりにおもしろかったが」


 ミツヒデの、黄金色の目が、ケージにぐったりと動けない四天王をにらみ据えた。


「おまえたち、後でお仕置きだな」


「は……はいぃぃぃ……! すみません、魔王さまぁぁあああ……っ!」


 三毛猫、サバトラ猫、ハト、ハスキー犬が、安堵あんど恐縮きょうしゅく羞恥しゅうち混乱こんらん歓喜かんき恐怖きょうふ、と、もうありとあらゆる感情をまとめて平伏する。


 アシャスもようやく、なにが起きたのか、周りを見渡した。


 薄暗い講堂の壇上だんじょう、たくさんのプランターに青々としげった、大ぶりで先端のとがった葉っぱの植物、土臭つちくさいブルーシート、そしてわけのわからないことを絶妙なうるささで唱え続けている講堂中の海藻かいそうお化けども、空間の構成要素はあまり変わっていなかった。


 だが壇上だんじょう、下着姿で仰向けの芋虫いもむしのように転がったアシャスを、ヒカロアが抱き起こしていた。


 足元の方にミツヒデと、大柄おおがらな背中が見えた。少しくたびれたネイビーの、上着はどこかで脱いだのか、スリーピースのベスト姿だ。


「間一髪だが、王子さまをおとどけだ。騎士ナイトってのは、現代なら役職的に、警察で良いんだよな?」


「お、お兄ちゃ……っ! 公務員、グッジョブ……ッ! えらい! ほめてつかわすぅぅううう!」


「だったら昔パクった漫画、新品で買い直して返せ」


 泣きべそついでに、いつもの調子を戻す撫子なでしこに、かえでが苦笑した。


 苦笑しながら、右手を軽く振る。壇上だんじょうにいた海藻かいそうお化けどもの、最後の一人が吹っ飛んで倒れた。


 よく見れば他も全員、変な姿勢で転がっていた。


 かえでは両手にそれぞれ、一本ずつ金属の棒を持っていた。前腕と同じくらいの長さで、途中の片側に、短い取手がついている。海外の警察でも採用されている、特殊警棒だ。


 一見して使いにくそうな形状だが、取手を持って外腕にわせたり、振り回したりすると、空手やボクシングの手の動きが、そのまま武器の動きになる。


 借りパクした学園バトル漫画の、しキャラの風紀委員長が使っていたから、撫子なでしこがくわしかった。無駄な知識だ。


「……無粋ぶすいだなあ。一応聞くけど、捜査令状とか、逮捕状とか、ちゃんと持ってるのかなあ? 公僕こうぼく


 のぞむが、半笑いで口を引きつらせる。かえではこともなげに、鼻を鳴らした。


かたいこと言うなよ、ド畜生。おまえを地獄とやらに突っ込んでから、ゆっくり準備するさ。可愛い妹の、おねだりだからな」


「つまり、現行犯逮捕しかできないってことだろ? 仕方がないなあ……ッ! 撫子なでしこをモノにできなかったのは残念だけど、まあ、後のお楽しみってことにするよ! 俺、大魔王だし! 身代わりの兵隊は、たくさんいるしさあ!」


 のぞむあおると、講堂中の海藻かいそうお化けどもが、一斉に無言になった。


 そして薄暗がりの、それこそ海の底からい出してくるように、続々と壇上だんじょうに上がってくる。イケメン海賊のハリウッド映画を通り越して、もうサブカルの低予算ゾンビ映画だ。


「そんな警棒だけで来るなんて、かっこイイなあ! がんばってよ! 俺、逃げるから! 俺には関係ないからさあッ!」


「いい悲鳴だ。クズの最後は、そうこなくちゃな」


 声がどんどん甲高かんだかくなるのぞむと対照的に、かえでは悠々と構えていた。


 海藻かいそうお化け改め、低予算ゾンビの群れを一瞥いちべつする。


「拳銃で死傷者を出すと、後の処理が面倒くさくてな。ドラッグで痛みを感じないような連中は、こいつで手足を叩き折ってやる方が、結局は楽で良いんだよ。なんてな」


 かえでが、場違いに人懐ひとなつっこい笑顔を見せた。


 少なくともアシャスには冗談に聞こえなかったが、冗談だったようだ。


「逃げるなら、さっさと尻を見せたらどうだ? それとも口先だけで、やっぱり悔しいか? やることなすことクズのド畜生のくせに、プライドだけはブヨブヨにふくらんでるのか、犯罪者」


 笑顔のまま、かえでの目が、しっかりとのぞむを捕らえていた。



********************



 低予算ゾンビが視界のはしでうごめく中、アシャスは、相変わらず下着姿の芋虫いもむしだった。


 結束バンドでくくられた指の痛みは麻痺まひしていたが、脱ぎかけのブラウスとボトムスで、後ろ手と両足が雑に縛られている。なんとかして欲しいんだけどな、と少しだけ思いながら、まあ、されるがままに抱きしめられていた。


 ヘーゼルナッツブラウンの髪に顔を半分うずめながら、ヒカロアが怒ったような声を出した。


「アシャス。あなたはいつまで、男性のつもりでいるんですか」


「え……?」


「女性としてはすきだらけだと、言ったでしょう。男性が十人いれば、七人は、女性なら誰でも良いという連中なのですよ?」


「お、多くない?」


 アシャスの男性代表的な抗議を、ヒカロアが黙殺もくさつする。


「女性であれば成長過程で、そういう不特定多数を遠ざける意識を、否応いやおうなく身につけているものです。自分に向けられる意識に鈍感、無用心は、およそ女性の感覚ではあり得ません」


 アシャスのほおに、ヒカロアのてのひらえられる。間近まぢかで、まっすぐに、両目が向き合った。


「誰からも愛される勇者でいては、もういけないのですよ?」


「……!」


 アシャスは、ヒカロアの目から逃げられなかった。


 逃げてはいけない現実を、ヒカロアの目が、うっすらと浮かんだ涙が、アシャスに突きつけていた。

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