29.大丈夫!

 身体の下敷きになった親指の皮膚が、結束バンドの締めつけで、り切れた。


 鋭い痛みで一瞬、呼吸が止まった。


 身体がもだえるように動いて、インナーがめくれ上がる。ほとんど下着姿を自分からさらしたのだから、世話はなかった。


「イイねえ! 俺もさ、撫子なでしこのそういうの、思い出してたんだよ。そうしたら、なんか、みんなより先に盛り上がっちゃってさ……ほら、これ」


 アシャスの近くに、のぞむが、吸っていた紙巻かみま煙草たばこのようなものを放り捨てた。ブルーシートが小さくげて、奇妙に甘い煙が、アシャスの鼻をつんと刺した。


「中の葉っぱは見えないかな。でも、まあ、懐かしいはずだよ? これさ、さっきも言ったけど、規制されてるようなものじゃないんだよ。どこだったかなあ、どっかの外国じゃ、普通に生えてる植物なんだよ、うん、多分」


 アシャスは口を開きかけて、やめた。


 会話は成り立っているように思えても、意思の疎通そつうが成り立っていない。のぞむは、自分の言いたいことを言っているだけで、こちらの意思を聞いていない。


「あの頃はこうやってさ、煙草たばこみたいに吸うくらいだったけど……いろいろな使い方を試してみたり、混ぜたり、薬学部や理学部のヤツを使って、実験なんかもしてさ」


 のぞむがコートのポケットから、透明な小瓶こびんを取り出した。医薬品飲料ほどの大きさで、なみなみと無色の液体が入っている。


「見てよ! ここまで綺麗に精製できたんだよ! 俺のオリジナル! 原材料の大量栽培には、そこのマヌケな連中を利用したけどね。すごいだろ、俺!」


 陽気に笑う目の焦点しょうてんが、合っていない。


 アシャスは、指の痛みと怪しい煙で、にじみそうになる涙をやっとこらえて、ずり下がる。ひっくり返った尺取しゃくとむしが、せいぜいだ。


 それでも、すぐに動けなくなる。


 壇上だんじょうに上がってきた数人の海藻かいそうお化けどもが、アシャスを半円に囲んだ。


 のぞむの視線が、今さらのようにアシャスを茫洋ぼうようと捕らえる。周りを囲まれて、手足を拘束されたアシャスの、いや、撫子なでしこの肌を、胸を、腹を、腰を見る。


 アシャスの背中に怖気おぞけが走った。


「ち、近づくな……バカ……っ!」


「そういう反抗的なのもイイよ……! 強がって、がんばって、嫌がってさ。それでも、どうしようもなくなってポッキリ折れる時、きっと、すごく気持ちイイからさ!」


「……撫子なでしこにも……」


「ん? なに?」


撫子なでしこにも……そんなふうに接してたのか? 勝手に決めつけて、思い込んで、都合の良いように押しつけて……」


 悔しい、と思った。


 撫子なでしこのぞむとの破局の後、傷ついていた。それだけ真剣に、好きだったはずだ。のぞむだって、全然わからなかったわけでもないだろう。


 それがどうして、こんなに違ってくるのか。アシャスは悔しくて、情けなかった。


 かえでは車の中のひとごとで、のぞむを、情けない奴と言っていた。本当にそうだ。


 アシャスは、のぞむをにらんだ。それしかできないアシャスが、いや、撫子なでしこが、のぞむは嬉しそうだった。


「大丈夫! 人間の身体ってね、くすりに逆らえるようには、できてないんだよ。飲まされた分だけ、ちゃんと効くから! 変われるから! 俺、たくさん実験したから、わかってるんだよ」


 のぞむが、海藻かいそうお化けたちを見渡した。


「みんな、気持ちイイって喜んでたよ? 撫子なでしこにも教えてあげるからさ! ちゃんとわかるように、たっぷり使ってあげる。撫子なでしこは特別だよ……うん、特別……!」


「な……なにを……」


「飲んだり注射して、ゆっくりおかしくなるのもイイんだけどさ。がんばって嫌がってる撫子なでしこが、すぐダメになれるように……ね!」


 のぞむが無造作に歩いて、プランターの隙間すきまに落ちていたものを拾い上げた。見たくなくても、やっぱり、見ないことに意味がない。


 冗談みたいに大きい、注射器のような形で、針の代わりにゴムの管が伸びている。のぞむの足元には、また別の、ぬるぬるしてるっぽい液体の入ったペットボトルが転がっていた。


「安心して! 腸内洗浄ちょうないせんじょう、最近、慣れてるから」


 ほがらかな笑顔と、各種の情報が頭で結びついて、アシャスが声にならない声で叫んだ。


「ーーーーーーーーッッッッ!!!!!!」


「なっ? なによ、もう! びっくりした! 頭の中で、そんな大声……」


 アシャスの絶叫で、撫子なでしこの意識が起きた。


 アシャスが起きた時の行動を一通りなぞって、記憶を回収する。効率良く、ほんの少しの空白で、同じ認識に辿たどり着いた。


「っぎゃーーーーーーッ!! なななな、なによ、なによこれっ! ちょっと! 考えられる限り、最悪の状況になってんじゃないの! なにしてくれてんのよーーーーーーッ!!」


「ごめんごめんごめんごめんごめんっ!!」


 絶叫し直す撫子なでしこに、アシャスが絶叫であやまり倒す。全力腹話術の、とんでもないカオスだが、のぞむもとっくに振りきっていた。


「あれ? なんか急に、撫子なでしこも盛り上がったね! すごくイイ感じだよ!」


「あああああああッ!! ふざけんなッ! 寄るなッ! さわるなッ! なんとかしなさいよ、ヘナチョコーーーーッ!!」


「ごめん! 本気でごめん! ごめん撫子なでしこ! ごめんごめんごめんごめん!」


「そうやってさ! 強がってた女が泣いてあやまるの、ギャップがグッとくるって言うか、すっごくイイよ! 可愛いよ!」


「こんっっっっのクズ野郎ーーーーッ!! あたしが泣こうがわめこうが、あたしの勝手だッ! ゴミクズなんかにどう思われようが、知ったことかーーーーッ!!」


「ご、ごめん! ホントごめん! 撫子なでしこごめんっ!」


「興奮するなあ! やっぱりさ、撫子なでしこ、俺たち相性バッチリだよ! 撫子なでしこもきっと、すぐにわかるよ!」


 右に左に、無駄に転がる撫子なでしこに、笑いの張りついたようなのぞむがにじり寄る。周囲の海藻かいそうお化けどもも、空中にただようようだった手を、撫子なでしこの下着に伸ばしてくる。


「ドチクショーーーッ!! どんな生き恥さらしても、そのツラ、ぜっったい地獄に落としてやるから、覚悟してろよーーーーッ!!」


「ごめん撫子なでしこっ! ごめん慎一郎しんいちろうくんっ! ごめん……っ!」


 アシャスは、混乱の極致きょくちで叫んでいた。


 こんなハメにおちいって、撫子なでしこにはもちろん、慎一郎しんいちろうにも申しわけがなさすぎた。そしてもう一人、名前と顔が最後に浮かんだ。


「……ごめん、ヒカロア……っ!!」


 小さく、かすれた声だった。

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