26.もうすぐそこに着く。

 慎一郎しんいちろうの意識が、切れているわけではない。それはヒカロアにもわかる。いぶかしんで、少し待った。


 慎一郎しんいちろうが猫缶を餌皿えさざらにあけて、ミツヒデの前に置いた。ミツヒデも、なにか興味を引かれたように、慎一郎しんいちろうを見た。


「ヒカロアさんは……いえ、皆さんは、すごいですね。そんなふうに話し合えて、うらやましいです」


 慎一郎しんいちろうは、一つ一つ言葉を探しながら、つなげた。


「ぼくは、ずっと撫子なでしこちゃんが好きでした。高校生の時、部活……ええと、弓道部で、撫子なでしこちゃんは先輩で……。元気で、言いたいことを言って、それでもちゃんと優しくて。みんな、撫子なでしこちゃんが好きでした」


「わかるような気がします。彼女はとても個性的で、一緒にいると、きつけられますね」


あこがれていたんです。だから勝手に、自分を下に置いて……結局、長い時間を無駄にしました。自分の気持ちはわかっていたのに、自信がなくて……皆さんのように、全力をまっとうしてきたなんて、とても言えません」


 ミツヒデが、目を細めて笑った。


「おっと、ながだまを当ててしまったようだ。今生こんじょうの槍使いは繊細せんさいだな」


「黙っていなさい、駄猫だねこ


「良いんです、ヒカロアさん。ミツヒデの言う通り、ぼくが臆病だったんです」


 慎一郎しんいちろう自嘲じちょうした。声に、後悔がにじんだ。


「ぼくが、もっと早く気持ちを伝えられていたら……撫子なでしこちゃんが変な男と関わることも、なかったかも知れません。そういう話なんです。こんなことになって、かえでさんにも、撫子なでしこちゃんにも気をつかわせて、申しわけなくて……」


「なるほど。この前から気にしていたのは、そういうことですか」


 ヒカロアは慎一郎しんいちろうの心に向けて、微笑ほほえんで見せた。


「あなたらしい思考ですね。嫌いではありませんが……それは、傲慢ごうまんというものですよ」


「え……?」


撫子なでしこの過去を決めてきたのは、撫子なでしこです。他の誰でもありません。どんな人間と関わり、なにをするか、すべて撫子なでしこの意思が決めてきたことです」


 ヒカロアは、はっきりと言葉にした。


「あなた自身も、かも知れない、としか言えませんでしたね。仮にあなたが、始めからおもいを伝えていたとして、その時の撫子なでしこが今と同じように、あなたのおもいにこたえたとは限りません。これまでの時間と経験が、結果に与えた影響もあるはずです」


「それは……そう、ですけれど」


「あなたにあなたの限界があったように、撫子なでしこにも撫子なでしこの限界があった……それを後からどうこう言うのは、傲慢ごうまんでしょう。私たちも同じです。全力をまっとうした、と、常に最適解さいてきかいを出した、は違います」


 ヒカロアにもアシャスにも、後悔することはいくらでもある。ひょっとしたら、魔王ワスティスヴェントスにもあるのだろう。


 それでも、世界の過去そのものである自分たちが、なんだかえらそうに見えるとしたら、それはアシャスが、勇者が望んで創造してくれたこの新世界があるからだ。


 ここにいることが、それまでの過去を肯定してくれているからだ。


「過去を決めてきた撫子なでしこも、あなた自身も、ちゃんと理解して……その上で、今とこれからを決める撫子なでしこの隣を、誰にも譲らないことです。それができるのは、あなただけですよ。慎一郎しんいちろう


 ヒカロアの言葉が、慎一郎しんいちろうにゆっくりと浸透して、広がっているようだった。


 誰しも、言葉にしていることが、言葉にできることが、そのすべてではない。言葉はいつだって、心を表現するのに充分ではない。


 だからこそ、大切なのは、言葉を語り尽くしてその先に辿たどり着くことだ。そして心の形を、伝わるように、伝えられるように、少しだけ整えることだ。おもうことと、おもいを交感こうかんすることは、少しだけ違う。


 ヒカロアは、自分に向けても言っていた。自分自身で、気がついていた。


 女神は、アシャスとヒカロアを結びつけることに、何度も失敗したと言っていた。それで良いのだろう。現世では、現世で生きている人間のおもいが、意思が、もっとも確かな力となり、過去のえん外的がいてき運命干渉うんめいかんしょうが、あまり有効に働かないということだ。


 今この瞬間が、気の遠くなるような偶然と、わずかな変化の積み重ねの上に、互いの心がやっと整い合った結果なら、ここから先を決めるのも自分たちのおもいと意思、それを伝え合う言葉だ。


 ヒカロアは慎一郎しんいちろうに自分を重ねて、もう一度、微笑ほほえんだ。


「あなたと撫子なでしこの幸せを、心から願っていますよ……。そこに私とアシャスの隙間すきまも、ほんの少しあれば完璧です。まあ、そこの駄猫だねこと同じ、ちょっとしたおまけと考えていただければ嬉しいですね」


「……ありがとう、ございます……ヒカロアさん……」


 慎一郎しんいちろうが答えた。おもいが、交感こうかんしていた。


 ミツヒデが一声鳴いて、満足そうに餌皿えさざらに口をつけた。


 あけた猫缶を片づけながら、慎一郎しんいちろうが、ふと時計を見た。ヒカロアも意識を向ける。


「それにしても、時間がちすぎているような気がしますね」


「ええ。あ、ちょっと待ってください」


 慎一郎しんいちろうがスマートフォンを、ポケットから取り出した。着信で振動している。


「あれ? この番号は……? はい、冴木さえきですけれど」


慎一郎しんいちろうくんか、かえでです』


 通話に出たのは撫子なでしこの兄、奈々美ななみかえでだった。


 慎一郎しんいちろうが驚く間もなく、かえでが、かたい口調でたたみかける。


『この番号は潤子じゅんこさんから聞いた。今、どこにいる?』


「今ですか? 撫子なでしこちゃんのマンションにいます。ええと、今日と明日、約束をしていて……」


撫子なでしこは、いないな?』


 質問ではない。確認だった。


『もうすぐそこに着く。落ち着いて聞いて欲しい、通報があった』


「通報、ですか?」


撫子なでしこの職場の近くで、つぶれたような女性が、お祝いだなんだと騒がしい連中に車で連れ去られた。深夜なら誰も気にめないだろうが、まだ夕食時のファミレス前だ。他の捜査官そうさかんが店員に確認しているが……撫子なでしこと、もう一人』


 慎一郎しんいちろうは、言葉を理解するまでの一瞬、呼吸を忘れていた。


 吸い込んだ息に、のどが震えた。


『ファミレスで会っていたらしい。厚労こうろうも、新手の脱法ドラッグの件でマークしていたようだ。名前は菅野月かんのづきのぞむ。言いたくはないが……撫子なでしこの元、交際相手だ。悪い懸念けねんが、つながっちまったな』


 かえでの声が、低くなっていた。

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