24.これくらいさせてよ。

 うつむいたアシャスに向かって、のぞむは、笑ったようだった。


「ちょっとびっくりした。撫子なでしこが自分からそんなこと言うなんて、本当に変わったんだね」


「当たり前だろ。もう、おまえの知ってる俺……あたしじゃない」


 アシャスは顔を上げて、のぞむをまっすぐに見た。背中を伸ばす。


「これだけは、あやまりたかった。本当だ」


「そんなに気にしなくて良かったのに。なんだか恥ずかしいな」


 のぞむが、グラスを置いた。氷だけになったグラスは、無色透明に見えた。


撫子なでしこのことは、今でも大切に思ってるよ。俺なりに、だけどさ。今日は話ができて嬉しかった。もう、会いにきたりしないよ」


「そうか。俺……いや、あたしは」


「なにか食べる?」


 アシャスの言葉を、のぞむが、明後日あさっての方向にさえぎった。アシャスが、間の抜けた顔になる。


「は? ええと、それは……さすがに……」


「じゃあ、出よう。混んできたみたいだし、言いたいことは全部、言わせてもらえたしさ。ありがとう、撫子なでしこ


「あ、ああ」


「実を言うと、俺もこれから予定があってさ。サークルの後輩たちと、お祝いのパーティーをやるんだよ。たくさん集まってくれて、すごく楽しみなんだ!」


 のぞむが、あっさりと席を立つ。


 もちろん、アシャスとしても長話する気はさらさらなかったが、展開に頭が追いつかない。そして言われてみれば、店内の客が増えていた。


「お祝い……? へえ……」


 なんとか、返事らしいものをしぼり出す。立ち上がっていたのぞむが、アシャスを見下ろして、目を細めた。


撫子なでしこのだよ。俺からの、結婚のお祝い」


「え?」


「……びっくりした? 冗談、ただの飲み会だよ! ここは払っておくから、先に出てて」


「いや、それは悪い……」


「イイから、イイから! これくらいさせてよ。今の俺、けっこう、お金持ちなんだよ?」


 そう言って、のぞむはさっさとレジに行ってしまった。ドリンクバーを二つだけなんて、会計に手間はないだろうに、対応した女子店員になんやかやと話しかけて困らせている。


 アシャスはその後ろ、壁際を伝うようにして、ファミレスの外に出た。


 街灯と並んだ店の明かり、車道を走るヘッドライトで、ちゃんと夜になった今の方が、さっきより視界がはっきりしていた。


 アシャスは、ほっと息をついた。


 会話の内容は、それなりに常識的な範囲で、これからは会いにきたりしない、とも言っていた。拍子抜ひょうしぬけ、というのが正直なところだった。


「あいつ……更生して、ちゃんと働いているのかな。最近の話と無関係なら、まあ……良かったか」


 のぞむは、まだ出てこない。


 ファミレスの扉も外壁も、ガラス窓が大きくて、店内の客席、レジにいるのぞむの背中、困った女子店員の顔も見える。向こうからも、気の抜けたアシャスの顔が見えているだろう。


「センパイ! 奈々美ななみセンパイ!」


 のぞむの時と同じように、唐突とうとつに声をかけられた。


 はしゃいだ、若い女子の声だ。一瞬、会社の後輩かと思ったが、声の感じはさらに若い。アシャスが通りを振り返る。


「おめでとうございます!」


「おめでとうございます、センパイ!」


「おめでとうございます!」


 一人ではなかった。まだお洒落しゃれ化粧けしょうも初々しい、大学生らしい女の子が十人以上、笑顔で集まっていた。


「え? ええと……?」


 アシャスは、意味のない声をもらした。二、三人の顔を見ても、撫子なでしこの記憶にはなかった。


奈々美ななみセンパイ、御結婚、おめでとうございます!」


「馬鹿ね! まだ婚約だって!」


「いいじゃないの! もう同じようなもんですよね、センパイ!」


「これ、受け取ってください! みんなからの気持ちです!」


「え、ええ? ごめん。誰、だっけ……?」


 戸惑とまどうアシャスを、女の子たちが取り囲む。豪華な花束が三つ、目の前に押しつけられた。


「あたしたちも、本当に嬉しいです! 奈々美ななみセンパイ、幸せになってくださいね!」


「おめでとうございます!」


「おめでとうございます! あの、彼氏さん……じゃない、旦那さんの写真とか、見せてくださいよ! のろけ話も、もうガッツリ聞きますんで!」


「あ! あたしもあたしも! ベンキョーさせてください、センパイ!」


「いや、その、君たちも……あれ? 知らない……」


 アシャスは、一人一人、顔を見て記憶を探った。誰一人、知らない。


 花束に埋もれた視界を、目が二往復、三往復する。やっぱり知らない。


 花束からは、不思議となんの匂いもしなかった。流行はやりの香水なのか、女の子たちの身体からただよってくる、みつを溶かしたような甘い匂いだけが、鼻を刺激してくらくらした。


「おめでとうございます! ほらみんな、バンザイ三唱ー!」


「バンザーイ! バンザーイ!」


「センパイ! あたしたち、結婚祝いのパーティー、準備したんです!」


「来てくれますよね! ね!」


 中心のアシャスを置き去りに、女の子たちの輪が、どんどん盛り上がる。声も大きい。周りの通行人が、迷惑半分、ついでの祝福半分で、苦笑しながら通り過ぎる。


 アシャスは、なんだか気が遠くなってきた。のぞむは、まだ出てこない。


「いや、その……君たち、みんな……誰……だ……っけ……?」


 声を出すのも苦労した。ろれつが回らない。


 アシャスは、ひどく酔っぱらった時のように、頭も足もふらついた。意識が朦朧もうろうとして、考えがまとまらなかった。


 女の子たちが、ふらついたアシャスの両腕を、がっしりとつかんで支えた。車道に、三台のミニバンが停車した。


 扉が開いて、中から、やっぱりはしゃいだ祝福の声が聞こえてきた。



********************



 電波のとどかないところにあるか、電源が入っていない。応答を聞いて、慎一郎しんいちろうは通話を切った。


 地下鉄を使っていれば、現象そのものは珍しくない。それでも、退勤時に送ったメッセージにも、既読きどくがついていないことを確認する。


撫子なでしこちゃん、仕事でなにかあったのかな……?」


 今日は、撫子なでしこのマンションで会う約束だった。


 慎一郎しんいちろうは、明るい色のオフィスカジュアルだ。定時で退勤して、まっすぐ撫子なでしこのマンションの、最寄もよえきに来ていた。


 仮に、時間ぎりぎりに問題が起きて、取引先に出向く必要があり、地下鉄で移動する。撫子なでしこがそういう状況なら、と考える。


 おかしなタイミングでもない。慎一郎しんいちろうは、スマートフォンをポケットにしまった。

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