第四幕 How Do U Like A Go, Nn?

22.いっそ楽だわ。

 週末、オフィスウェアから私服に着替えると、気分も開放的になる。女子更衣室を出た瞬間、撫子なでしこの頭の中には、今季こんきしアニメのアップテンポなエンディングテーマが流れていた。


「それにしてもさ、先週食べたコース料理の試食、美味おいしかったわよね! 披露宴ひろうえんの当日も楽しみだわ!」


「いや、当日は食べてる余裕ないから、前もって試食したんだぞ。高砂たかさごで新婦が食いまくってたらおかしいだろ」


 すかさず、アシャスが突っ込んだ。脳みその記憶、特に最近勉強した記憶は一緒のはずなのに、取り出し方に差が出るのはなぜなのか。


 性格だろう。証明するように、撫子なでしこが口をとがらせた。


「なんでよ? あたしとシンイチローも数に入ってんのに、食べなきゃもったいないじゃない」


「そういうもんなんだよ。がれた酒も、いい気になって飲むんじゃないぞ? 足元にバケツがあるから、こっそり捨てる!」


「大丈夫、シャンパンくらいで酔わないって!」


「同じ台詞せりふが、エグゼクシィの失敗談にあっただろ!」


 フロアの自社スペースは、限界まで効率化されている。女子更衣室を出てから出口までは、オフィスの中を通過する。


「……最近、ハイテンションなひとごとが多いですよね、奈々美ななみセンパイ」


「そっとしておいてやれ。プライベートの責任は婚約者がっている。会社でそうが出ていれば、業務的には問題ない」


「だから、もうちょっとオブラートに包んでくださいってば、カチョー」


 上司と後輩のやりとりも、アシャスには聞こえていたが、撫子なでしこには聞こえていない。脳内エンディングテーマで、聞いていない。


「お先に失礼しまーす! 課長、みんな、良い週末をー!」


 自社スペースを出て、エレベーターに乗る。たまたま一人だけで、アシャスもおっつけ、気をゆるめた。


「浮かれてるなあ」


「そりゃあ、明日には新居が見られるってんだもの! 新築マンションの最上階フロア半分なんて、どんなセレブよ? 盛り上がるわー!」


「英語の意味はともかくとして、日用語ならセレブでおかしくないだろ。慎一郎しんいちろうくん、お金持ちだったんだから」


「お金持ちはシンイチローじゃなくて、理事長先生よ。あ、ええと……潤子じゅんこさん」


 撫子なでしこが言い直す。今までの理事長先生は他人行儀たにんぎょうぎだが、お義母かあさんもまだ早い。微妙な距離感だった。


「大学も、学生の側からはありがたーい良心経営だったし、立派なお金の使い方してるわ。あたしたちはあたしたち、全然別よ」


「しっかりしてるんだな」


「だからこそ、こんなタナボタラッキーは全力で喜ぶわ! プレゼントまで断ったら失礼だものー!」


「でも、フロアのもう半分は、女神さま本人の住まいだろ? オーナー特権って言ってたけど、ちゃっかり敷地内同居だよな、これ」


「なんかもう、先生とお得意さんとおしゅうとめさんが一緒くたで、いっそ楽だわ。これ以上、気のつかいようもないわよ」


 大雑把おおざっぱにまとめた撫子なでしこに、アシャスが苦笑する。この性格は、これはこれで立派だ。


 オフィスビルを出ると、まだ少し明るかった。日が長くなる季節の、昼と夜が混ざり合う黄昏時たそがれどきだ。


 目がれない、というほどではない。誰もが、自分ではそう思いながら、視認能力は格段に低下する。通りを歩く人、立ち止まっている人、撫子なでしこにはどの顔も曖昧あいまいで、そしてそれを気にしなかった。


「あ、撫子なでしこだ! 良かった、やっぱり見たら、すぐわかったよ!」


 最近の記憶にはない、なれなれしい声に、撫子なでしこがきょとんとする。周りを見渡すと、ガードレールに座っていた男が、片手を振りながら立ち上がった。


 男は、ブラックジーンズにダークグリーンのスプリングコートを着て、コートのフードを目深にかぶっていた。隙間すきまからこぼれる髪が、色あせたような赤茶色で、細いあごの辺りで方々にはねていた。


 フードの奥の顔が、撫子なでしこを見て笑っていた。


「……げっ! あんた……ッ!」


「久しぶりだね。ええと、もう七年ぶりになるのかな。過ぎてみると早いよね」


「そうね……まさか今さら、そのツラ、見るとは思ってなかったわ……」


 男とは正反対に、撫子なでしこが顔を強張こわばらせる。


 男の名前は菅野月かんのづきのぞむ、大学生の頃の撫子なでしこの恋人で、同棲どうせいしている部屋に怪しげなハーブもどきを持ち帰るようになって破局した、黒歴史の一人だ。


 背が高く芸能人みたいなハンサムで、一年生の時から、何人か彼女を変えていた。学内と学外を問わず、同じような派手な男子たちと、良く遊んでいた。どの男子が心の本命なのかと、よこしまな目でこっそり楽しんでいたのは秘密だ。


 二年生になって、ふとしたはずみにつき合いを申し込まれた。妄想ゆめを壊しやがってこの野郎、と憤慨ふんがいしながらも、間近まぢかで見るわかりやすいイケメンっぷりに乙女心がくす玉を割った。


 思い出してみるとディテールはしょうもないな、と、アシャスは内心でため息をついたが、撫子なでしこはそれどころではなかった。


 慎一郎しんいちろうは二つ年下で、入学した時に撫子なでしこのぞむは三年生、破局したのは夏だ。その頃に比べて、のぞむは、だいぶ雰囲気が変わっていた。


 顔だちは整っているのに、目つきが茫洋ぼうようとして、暗い。赤茶色の髪は毛先の質が悪く、背の高さもせぎすの印象になっていた。


「少し話せるかな? 大丈夫。あんなことになって……そうだね、今さらだけど、あやまりたいだけだよ。それから、お祝いも。結婚するんだってね、おめでとう」


「……いいわ。そこのファミレスで、少しだけね。指一本でもさわったら、大声出すわよ」


 撫子なでしこの返答に、今度はアシャスが驚いた。


 さっさと歩き出す撫子なでしこを、小声でただす。


「おい撫子なでしこ、大丈夫なのか? こいつ、なんだか怪しいぞ」


「そうね。せっかく盛り上がってたのに……気分、最悪だわ」


 吐き捨ててから、撫子なでしこが、アシャスにもわかる無理をして笑った。


「あんたに言われたからじゃないけどさ。こんなヤツに、金輪際こんりんざいつきまとわれたら、大切なシンイチローに申しわけが立たないわ。悪いは、きっちり踏みつぶしておかないとね」


「そうか……いや、そうだな。見直した! かっこいいぞ、撫子なでしこ!」


「ありがとう! そんなわけで、後、お願いね!」


 撫子なでしこの顔が、ぱっと輝いた。一呼吸置いて、アシャスが仰天ぎょうてんする。


「ええっ? な、なんで?」


「やっぱり、もう生理反応的にムリだった! こんなこと考えたのも、あんたに言われたせいなんだから! 責任取って、かっこいいところ見せてよ! 勇者でしょ?」


「言ってることが秒で違うぞ! 身体の反応なら俺も同じだよ! おまえ、こんな時だけ……っ!」


「じゃ、四時間ほど寝てるから! 話つけて、部屋に帰って、お風呂上がった辺りで起きるから! よろしくね!」


「お、おい……っ!」


 デートの夜のアシャスよろしく、撫子なでしこが意識を切った。さすが身体の本人、素早く流れるような、完璧なシャットダウンだった。


「おい! 撫子なでしこ、おい……! 本気で他人任せにするつもりか? いや、他人じゃないかも知れないけど……おいっ! おまえ、ここまでしておいて……!」


 アシャスは叫んだ。なんとか、小声だった。


 これほど無意味な努力も、あまりない。状況は、如何いかんともしがたかった。

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