19.安心しました!

 会席料理かいせきりょうりも後半に入る辺りで、かえではお手洗いの中座ちゅうざがてら、日本料理店を出た。


 ホテルの廊下を、右、左、と軽く見る。絨毯じゅうたんも、壁にかかった絵も立派なもので、見渡す限りすきがない。


「自動販売機の一つくらい、ないもんかね」


 ロビーまで行って、レセプションで聞けば、どこかのすみにある肩身の狭そうな庶民向けコーナーを教えてくれるだろう。かえでは肩をすくめて、だいぶ歩くことになる覚悟を決めた。


「どうかなさいましたか?」


 声に振り向くと、日本料理店の暖簾のれんを、そでを押さえた手でくぐりながら、潤子じゅんこが現れた。それこそ、他愛のない悪戯いたずら見咎みとがめた母親のように、含み笑いをしていた。


「いや、まあ……たまには、缶コーヒーでも飲もうかと」


 かえでの答えに、潤子じゅんこが小首をかしげる。


 確かに、理由になっていない。コーヒーだろうと紅茶だろうと、今時、日本料理店でも頼めば出て来る。かえでは観念して、もう一度、肩をすくめた。


「先日、あなたにお話ししたことを、慎一郎しんいちろうくんと撫子なでしこにも話してまして。二人とも気をつかってくれるのが、申しわけなくてね」


 撫子なでしこは怒っているだろうが、祝いの席で取りつくろうだけの分別はあるようだ。慎一郎しんいちろうにしても、警察沙汰けいさつざたに巻き込まれて、内心穏やかではないだろう。


 かえでは、言うほど自分で気にする性質たちではないが、いない方が二人が楽なのは確実だ。


「まあ……。こちらこそ、申しわけありません。かえでさんはお仕事で、それこそ特別に、気をつかっていただいてますのに」


「警察をありがたがるのは、不幸な善人だけです。幸せな善人と、幸せでも不幸でも悪人には、けむたがられるものでして。二人が悪人でないのははっきりしてますし、喜ばしいことですよ」


 恐縮きょうしゅくする潤子じゅんこに、かえでが苦笑した。


「ですが、そう言ってくださるということは……安心しました! あなたの浮かない顔は、俺のせいじゃないと思って、良いですかね」


「え……?」


 潤子じゅんこかえでの目を見て、少し考えてから微笑ほほえんだ。


「お恥ずかしいですわ。先日の私は、そんなにはしゃいで見えましたか?」


「いいえ。先日と比べて、ではなく、今日のお気持ちが晴れていないように見えます」


 見咎みとがめられたからには、悪戯いたずらをしてやろうと、悪い気になっていた。無実の罪ではつまらない。かえでも、潤子じゅんこの目を見つめ返した。


「マリッジブルーですか」


「あら。撫子なでしこちゃんではなくて、私が、というのは、なんだか可笑おかしい気がします」


「そんなことはないでしょう。一所懸命に育てられた息子さんを、他の女に取られる女親……同じように、大切な娘を他の男に取られる男親も、まあ、一番の座を自分から他人へ明け渡す瞬間です。ブルーにくらいなりますよ」


 かえでの言葉に、潤子じゅんこは何度か、まばたきをした。


「一番、ですか」


「心理学者じゃありませんので、細かいことは言いっこなしですよ。まともな親なら、子供を愛してます。女親にとっての息子、男親にとっての娘、これも理屈じゃないでしょう」


「そう……ですね……」


 まっすぐかえでを見る目が、子供のように丸かった。


「そんなふうに考えると……ええ、可笑おかしくても、しっくり来ます」


 潤子じゅんこが、はにかんでくちびるを隠した。


 祝いの席だからだろう、仕事帰りの先日よりも鮮やかな口紅が、隠れた瞬間、強い印象を残した。


「もうずいぶんと長い間、あの子たちを見ていたものですから……私が一番、あの子たちを……ふふ。本当、可笑おかしいですね。こんなこと、他の方に言わないでくださいね」


撫子なでしこのことも、以前から御存知ごぞんじだったのですか?」


「息子より先に、息子の嫁にと、願っておりましたよ」


「それは、まあ……うちの両親と同じで、先走ったものですね。なんだかんだでこうなってみると、運命のようにも感じられますか」


 かえでの大げさな言い回しに、潤子じゅんこも大真面目にうなずいた。


「ええ、運命です。お笑いになりますか?」


「笑いませんよ。最後は、二人の意思が選んだハッピーエンドです。それを手伝ってくれたのなら、運命でもなんでも信じます」


 えん、と言い換えても良い。遠くても近くても、それを手繰たぐり寄せて、結び合うのは人の意思だろう。


 撫子なでしこの結婚が、そこに至るすべてが運命だったと信じられるほど、幸せであって欲しい。そういう意味でかえでは、心から、潤子じゅんこに賛同していた。


「信じますよ。だから……俺は今、あなたを笑いませんが、あなたには後で、二人と一緒に笑ってもらいたいです。心からの祝福で、一緒にです」


「私が笑うのを、あなたも願ってくださる、ということですか」


「はい。ちゃんと約束してくれるなら、そうですね。そんな憂鬱顔ゆううつがおにも、我慢してつき合いますよ」


 かえでは前と同じように、両掌りょうてのひらを、顔の横に上げて見せた。目上めうえの相手にだいぶ好き勝手を言わせてもらった、悪戯いたずらへの謝罪しゃざいを示したつもりだった。


 潤子じゅんこが、色留袖いろとめそでえりすそを整え、おび両掌りょうてのひらを重ねた。


 そして深く、一礼した。


かえでさん……先日の捜査協力の御依頼、引き受けさせていただきます。その代わりと言ってはなんですが、私からも日を改めて、真剣に聞いていただきたいお話があります」


「はあ。それはもう、喜んでおうかがいしますが」


 さすがに、かえでが面食らう。


 初めて会った時もそうだが、この清楚せいそな年齢不詳の美人には、妙な押しの強さと迫力がある。思い出してみれば、息子の慎一郎しんいちろうにも、ほんの少しだけ似たような雰囲気の変化を感じたことがあった。


 多分、長く無言で向き合っていた。先に動いたのは潤子じゅんこだった。


「私のこと、慎一郎しんいちろうと、撫子なでしこちゃんのこと……あなたには、知っておいてもらいたいと思いました。これも運命ということに、してしまいましょう」


 かえでに背を見せて、日本料理店の中に戻る。暖簾のれんをくぐる時の、肩越しの流し目に、もう憂鬱ゆううつの影はなかった。


「なんでも信じるとおっしゃっていただけて、そして、私が笑うのを願ってくださって、嬉しかったです。せめてもの心づくしに、逸品いっぴんのアールグレイを用意して、お待ち申し上げますね」


 含み笑いが、大輪の牡丹ぼたんのようだった。


 潤子じゅんこを見送ったかえでは、そのままの姿勢で、知らず、大きな息をついていた。


 浮かれたため息ではない。どちらかと言うと、なにかやらかしたっぽい、動揺を飲み込んだ一息だった。

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