17.今さらよ!

 窓の外、マンションの下に、かすかなエンジン音とブレーキ音を聞いた。


 一人、いや一匹静かな、よいくちだ。通常よりも鋭敏えいびんになっていた聴覚ちょうかくと、結界けっかいというほどではないが気配を感受かんじゅする識覚しきかくで、ミツヒデは撫子なでしこ慎一郎しんいちろうを認識した。


 読書を終了して、タブレットから目を離す。


 なんの気がねもなく趣味に没頭できる時間は、とおとい。今は中原中也なかはらちゅうやからアルチュール=ランボーに飛んで、一回ひねって、アレクサンドル=デュマのモンテ=クリスト伯を精読していたところだ。


「貴族、富豪、法律家か……それほど大層な話でも、あるまいが」


 猫としての五感ではなく、たましいを分化した存在の共振きょうしんで、なにやら遠くでごちゃごちゃしている二匹一羽一頭を認識する。


 ふと、あくびがもれた。


「この不始末、どう使うのがおもしろいかな」


 つややかな黒い身体を毛繕けづくろいしながら、ミツヒデはタブレットを、元のリビングテーブルに戻した。


 この程度の質量を空中移動させるのは、魔王と呼ばれたたましいにとって、魔法の範疇はんちゅうにも入らなかった。



********************



 撫子なでしこのマンションの前で、撫子なでしこ慎一郎しんいちろうが、一緒に車を降りた。慎一郎しんいちろうが礼を言い、かえでも気さくに笑って走り去った。


 あそこまで言ったのだから、警察として、慎一郎しんいちろうの住所も把握はあくしているはずだ。かえでかえでなりに、気をつかっているのだろう。


 撫子なでしこが、大きく伸びをした。


「今日は、ホントにお疲れさま! うちの親のせいで、段取りは滅茶苦茶だったけど……しっかり挨拶あいさつしてくれて、格好良かったよ。今っぽく言うと、トゥンクってした!」


「ありがとう。みんな喜んでくれて、僕も嬉しかったよ」


「どうする、お茶でも飲んでく?」


撫子なでしこちゃんも疲れたって言ってたし……今日はこれで帰るよ。次は、顔合わせの食事会だね。撫子なでしこちゃんの、楽しみにしてる」


「あはは! まあ、それこそ今日みたいな滅茶苦茶にならないよう、親にくぎを刺しておくわ」


 平日なら、まだ退勤の時間帯だ。慎一郎しんいちろうのマンションは、地下鉄を乗り継げば遠くない。


 慎一郎しんいちろうはいつもと同じ優しい顔で、撫子なでしこもいつものように見送った。


「なあ、撫子なでしこ……もっと話さなくて、良かったのか?」


 アシャスが、つい、口を出した。


 撫子なでしこまゆを寄せた。


「なにを話せってのよ?」


「いや、ほら……さっきの、黒歴史の最後だろ。慎一郎しんいちろうくん、心配してるんじゃないか?」


「だとしても、あたしにどうこう言われても困るわよ。昔の話を持ち出されて、お兄ちゃんにも、ホントいい迷惑だわ」


「そうかも知れないけど……前の恋人だろ? 男ってそういうの、理屈じゃなくて、どうしても気になるって言うか……」


「シンイチローが、そんなこと気にするわけないじゃない」


 撫子なでしこがむきになった。


 同じたましいだ。同時に出ていれば、感情の動きは自分のことも同然だった。アシャスにわかるのだから、撫子なでしこもわかっている。


 それでも、口調が強くなっていた。


「思い出したくもないけど、シンイチローが大学に来た時、あの男とまだつき合ってたもの。同棲どうせいしてるのも、みんな知ってたし……まあ、それだけに、ハーブと学生証の写真も、学生課まで入れて知り合い全員に誤送信してやったけどさ」


「それは、やりすぎだったと思うよ」


「うっさい! とにかくシンイチローだって、あたしのそういうの知っててここまで来たんだから、今さらよ! 現在進行形で! 恋人で! 婚約者! これ以上、なにを話させようってのよっ?」


「そうだけどさ……」


 アシャスが口ごもる。


 こんな考え方が偏狭へんきょうなのは、わかっていた。ヒカロアにも散々からかわれ、たしなめられたりもした。


 清く正しい、生涯一度の愛のすえに結ばれるというのは、旧世界でも古い信仰に近かった。アシャス自身、姫のおもいと最後まですれ違い続けたのだから、なにをか言わんや、だ。


 それでもこんな形で、大切な相手の過去がちらつくのは、つらいだろう。


「……あんた、そういう奴だもんね。意地張っても無駄だから白状するけど、言いたいことはわかってるわよ。乙女心ってのも、簡単に捨てられるもんじゃないしね」


 撫子なでしこ自嘲じちょうした。


「でも、しょうがないじゃない……あんたはともかく、世の中、女にばっかり一発必中で生涯のパートナーを見極めろって押しつけてきても、正直キツいわよ。小娘がイケメンにれて、なにが悪いのよ」


「いや、それは……」


 撫子なでしこが傷ついていた。正確に言えば、忘れた傷を思い出していた。


 いいかげんな恋愛をしたつもりはないけれど、痛い結果と事実を、蒸し返された。それがアシャスにも伝わった。


「不思議よね。おためしの機会は多い方が、男にも都合が良いはずじゃない。そりゃ、まあ、失敗続きだったあたしが言っても、負け惜しみかも知れないけどさ」


「そうじゃない。ごめん……違うよ」


 アシャスは撫子なでしこの身体で、強引に頭を下げた。


 後悔していた。今日一番の、余計なことをしたのは、間違いなくこの場のアシャスだった。


 なんの落ち度もないことで、撫子なでしこをいじめた。そして多分、慎一郎しんいちろうのことも侮辱ぶじょくした。


 心の底から恥ずかしかった。それが、今度は逆に、撫子なでしこにも伝わった。


 頭を下げた姿勢のまま、撫子なでしこが苦笑した。


「自分同士で責めて、あやまって、変な感じ。でも、そうよね……あんたの言う通り、シンイチローとも、もっと話せば良いのよね。素直な気持ちを、何度でも……言わなくてもわかってるはず、じゃ、確かに上から目線の甘えだわ」


撫子なでしこ……」


「いろいろあったけど、そんなあたしに辛抱強しんぼうづよれてくれたんだから……それこそ今さらだけど、シンイチローのことは、もっと大切に考えるわ。運命はあんたたちのおかげでも、あたしなりの気持ちってやつでね」


 撫子なでしこが胸を張った。アシャスにも、胸を張れ、ということだ。


 アシャスにしてみれば、それどころではない。背筋を正し、気を引きしめ、剣を眼前にささげ持つ勢いだ。少なくとも内心では、そのレベルだった。


「悪かった。いつの間にか甘えていたのは、俺の方だ。そもそも、二人のことに立ち入れた義理じゃない、正真正銘の厄介者だった。今からでも、この状態をしかるべき形に戻す方法を……」


「まだそんなこと言うの? とっくに終わってた話じゃない」


 撫子なでしこが吹き出した。


 腰に手を当てて、笑って、すっかりいつもの調子だった。笑うついでに、右手の人差し指を、びしりと目の前の空間に突きつける。


「あんたはあたし! シンイチローもヒカっちも、みんなまとめて幸せになるの! 大目標だいもくひょうがしっかりしてれば、シヨーマッセツ? なんて気にならないわよ!」


 撫子なでしこの宣言に、アシャスも、もう笑うしかなかった。


「百三十八億年も転生も、枝葉末節しようまっせつか……かなわないよな、本当に」


 考えてみれば、一人の人間の知覚なんて、限られたものだ。


 どんな世界や時間の広がりも、人生の部分集合に過ぎない。幸せの追求に比べれば、些末事さまつごとだ。


 撫子なでしこは正しい。現在の問題も、過去の問題も、幸せになるために必要な処理をして片づける。それだけの話だった。

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