16.君は良い奴だな。

 言わないでいるといつまでも引き止められそうなので、撫子なでしこが、夕食前に強引にお開きを宣言した。


「それじゃあ、車で送るよ。慎一郎しんいちろうくんも、撫子なでしこのマンションで良いかな?」


「はい、ありがとうございます」


 かえでが気さくに言って、慎一郎しんいちろうも応じる。


 おみやげに重箱を持ち出す勢いの撫子両親なでしこりょうしんを、丁重に振り切るようにして、かえで撫子なでしこ慎一郎しんいちろうが車に転がり込んだ。


 かえでの車はシルバーのスポーツタイプで、趣味性の高い感じだ。後部座席に慎一郎しんいちろうが、助手席に撫子なでしこが乗る。走り出すと、早速、撫子なでしこが大きな息をついた。


「ああ、もう。自分の家ながら、無駄に疲れたわ! お父さんもお母さんもはしゃいじゃって、シンイチローも大変だったでしょ?」


「そんなことないよ。緊張もしなかったし、歓迎してくれて楽しかったよ」


「俺がいるのに、そうだね、とは言えないよなあ。悪いね、慎一郎しんいちろうくん。気を抜くのが早い妹で」


 慣れた調子で運転しながら、かえでが苦笑する。撫子なでしこが、顔だけで猫のように威嚇いかくした。


「切り替えが早いのは長所よ! それよりさ、ほら! あれ出してよ、窓から屋根につけるサイレン! やってみたい!」


「パトライトだ。言うと思ったから、置いてきた。プライベートで使えるか」


「なによ、ケチー!」


 当然、赤信号にきっちり停車する。兄妹のやりとりに、慎一郎しんいちろうも後部座席で笑っていた。


 車内では、アシャスもヒカロアも、慎重に口をつぐんだ。


 捜査官そうさかん、いわゆる刑事なのだから、かえでの観察眼は鋭いだろう。フルーツタルトを切り分けた時、少し目つきが変わっていたが、今は気にする風でもない。それこそ、余計なことをしない一択だ。


慎一郎しんいちろうくんは、メーカー勤務だっけ?」


 青信号で、スムーズに加速しながら、かえで慎一郎しんいちろうに話しかけた。


「はい。キハラ電機技研で、ロボットアームなんかの開発にたずさわってます」


「技術屋さんかあ、優秀だね。お母さんは確か、日榁学院大学ひむろがくいんだいがくの理事長さんだったよね。君と、撫子なでしこの母校の」


「……お兄ちゃん?」


 先日と今日で、お互いの親に挨拶あいさつを済ませている。もちろん家族構成と、簡単な情報は話している。


 それでも、口調は変えずにはっきり確認を取るかえでに、撫子なでしこが不審な目を向けた。


慎一郎しんいちろうくん、君は良い奴だな。そんな気がする。撫子なでしこの男を見る目は、まったく、これっぽっちも当てにならないけど……」


「悪かったわね!」


「父さんも母さんも、君のことが好きみたいだ。ちょっと、別人みたいな雰囲気を感じる時もあるけど……まあ、直接会ってみて、俺も君が好きになれた。だから、つい、ひとごとをもらしてしまうんだが……」


 かえでは、やっぱり口調を変えなかった。


 挨拶あいさつした時と同じ、人懐ひとなつっこい笑顔も浮かべている。目は、フロントウィンドウの先に向いたままだ。


「最近、都内の大学生たちの間で、新しいドラッグもどきが流通してる。もとは、煙草たばこに毛が生えたような代物しろものだったんだが……どっかのバカが、原生植物げんせいしょくぶつの大量栽培と成分の精製に、成功したらしくてね」


 撫子なでしこがシートベルトの下で、身体を固くした。


「脱法ハーブって言うと、厳密には合成化学薬品を後から添加した乾燥植物で、自然物由来の場合はちょっと違うんだけど、まあ、そんな感じの物だと思ってくれ」


 どちらにしても、法律で禁止されていないが、身体に酩酊状態めいていじょうたいを起こす薬物ということだ。このたぐいの強いものは幻覚作用、依存性を持ち、毒に近い。


「成分の組成そせいが違うせいで、薬事法が追いついていないが、高い濃度に精製されたそいつは、効能だけで言えば立派なもんだ。サンプルが少なくてはっきりしないけど、判断力の低下と意識朦朧いしきもうろう、使いようによっては催眠術みたいな効果が出せる可能性もあるらしい」


 毒なら、アシャスも知っていた。転生前の旧世界で、敵に毒を持つ魔物もいたし、人間側も利用した。種類も効能も様々だ。


 そして根本的な事実として、どんな物質でも、大量に吸収すれば生体せいたいに影響する。限界量が低いものを、生体せいたいの側が、毒や薬に認識するだけだ。


「そのドラッグもどきが、性質たちの悪いパーティーをしていた出会い系サークルなんかと合流してね。大学生同士の売買で、大きな金が動くようになっちまった。元締もとじめっぽい連中は、複数の大学に拠点きょてんを点々と移して、実態をくらませているみたいでね」


 かえでが運転したまま、器用に肩をすくめた。車は高速道路に乗って、夕方から夜に変わる景色の中、流れる明かりの一つになる。


「薬事法は元より、詐欺さぎやねずみ講にも抵触ていしょくしない、行方不明者も被害届も出ていないから、摘発てきはつの準備に時間がかかってる。厚労こうろうと……まあ、麻薬Gメンってやつだな。一緒に進めてるんだけど、それなりの大事おおごとになりそうなんだ。大学側も、後から知らなかったじゃ済まないだろう」


「なによ、それ! あたしにもシンイチローにも、関係ないじゃない!」


ひとごとだ」


ひとごとよ!」


 撫子なでしこ憤慨ふんがいに、かえでがまた、肩をすくめた。


慎一郎しんいちろうくんも知っている、という前提で進めるけど……撫子なでしこは一度、同じような脱法ドラッグ騒ぎを起こした情けない奴に、近づかれていたことがあってね。そいつは君のお母さんの大学を、自主退学になってる」


 かえでの目が、バックミラーの慎一郎しんいちろうを見る。


「当時も今も、法律違反じゃない。だから警察沙汰けいさつざたになっていないのは当然なんだが、無責任な連中からは、かばったようにかんぐられるかも知れない。君のお母さんの大学、君と撫子なでしこの結婚、撫子なでしこの昔の関係が、今回の大学スキャンダルと一緒になってマスコミにぎつけられたら、どんなストーリーをでっち上げられるかわからない」


「……そう、ですね」


 ずっと黙って聞いていた慎一郎しんいちろうが、静かに答えた。撫子なでしこが、たまりかねて大声を出す。


「どうしろって言うのよ!」


「本題だ。ひとごとだけどね」


 かえでが笑う。目だけが、真剣だった。


枯井澤かれいざわ理事長りじちょうにも話す。協力して欲しいんだ。学内を調査して、巻き込まれてる子がいたら、親御おやごさんから被害届を出させたい。早めに動けば、スキャンダルだって回避できる。依怙贔屓えこひいきなんて言われると、返す言葉もないけれど……くだらないバカ騒ぎから、撫子なでしこと君を守ってやりたい。一緒に、守って欲しいんだ」


 車内に沈黙が降りた。


 肯定とか、否定とかではない。突然に表面化した、思いもかけなかった事態を受け止めるまでの空白、そういう沈黙だった。


 車は、いつの間にか首都高速環状線から出て、撫子なでしこのマンションに近づいていた。

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