2.言ってみるものですね。

 在来線ざいらいせんで都内に入り、山手線に乗り換える。


 撫子なでしこの実家は近郊きんこうで、高校生の頃から、遊びに行くとなれば都内だった。慎一郎しんいちろうのマンションも、最寄駅もよりえきから都内まで、それほどかからない。


 撫子なでしことしては、勝手知ったる何とやら、だ。


「そ、そんなにくっつかなくても、大丈夫だよ! パスーモの使い方も路線図も、なんでだか知らないけど、ちゃんとわかってるよ!」


「意識の問題でしょうか、女性としてはすきだらけですよ。撫子なでしこは世界で一番可愛いのですから、私が守らなければ」


「大きなお世話だよ! 子供じゃないんだから……近い! 顔が近いって!」


「なんの問題もありません。恋人同士です」


「ちが……っ!」


「違うのですか?」


「ちが……わない、けど……っ!」


 撫子なでしこの背が高い方なので、ヒールのあるブーツをくと、顔の位置がほとんど慎一郎しんいちろうと同じになる。


 だが、これも意識の問題なのか、少し混雑こんざつし始めた電車内で、堂々と撫子なでしこの肩を抱いて立つ慎一郎しんいちろうは、ずいぶん大きく見えた。


「どうして、こんなことになっちゃったかな……。お、おまえが悪いんだぞ! 最後の最後で、なに言ってくれてんだよ! 男だぞ、俺は! 少なくとも、あの時までは!」


「ですから、自重じちょうしていたでしょう。最後の最後だから、ですよ……いやあ、言ってみるものですね。今、ちょっと言葉にならないほど幸せです。キスしても良いですか?」


「だ、だだ、駄目に決まってるだろっ!」


 撫子なでしこほおが、林檎りんごのように赤くなる。


 日常生活ばかりではない。昨夜のキスも、ベッドの中で感じた熱さも、火照ほてった肌のにおいも、撫子なでしこはすべて覚えていた。


 奈々美ななみ撫子なでしこが、別のなにかに変わったわけではないのだ。


 だから、お互いの呼び方は、撫子なでしこ慎一郎しんいちろうで合わせていた。


 撫子なでしこはネイビーのスキッパー・ワンピースに、アイボリーの春物アウター、ライトブラウンのブーツとバッグ、慎一郎しんいちろうえりとボタンラインが黒いグレーのツートンシャツに、ダークグレーのコットンスラックスとカジュアルジャケットを着ていた。


 お互い、少しがんばった格好だ。撫子なでしこ間近まぢかで見て、慎一郎しんいちろう微笑ほほえんでいた。臆面おくめんもなく言った通り、幸せそうだ。


 撫子なでしこは、つい視線をそらして、窓の外を見た。


 流れる景色は良く晴れて、ビルも、街路樹がいろじゅの緑も明るかった。日曜日のお昼前、出歩く人も、思い思いに楽しそうだった。


「……平和、なんだな」


「どうでしょう。確かにこの国を含めて、秩序と豊かさが両立している範囲が、存在はしています」


 慎一郎しんいちろうが、撫子なでしこと同じものを見た。少しためらうように、撫子なでしこの言葉に補足した。


「ですが……無秩序や争いが、なくなっているわけではありません。今この瞬間に、世界のどこかで、泣いている人も、殺されている人もいるでしょう」


「そんな大きさで定義しても仕方ないだろう。説教くさいところは、変わってないな」


 撫子なでしこは、遠くを見続けながら、笑った。


「平和を感じられる空間が、平和を望んで努力する人たちが……少しでも広がって、変わり続けている世界なら、それだけで俺は嬉しいんだよ」


 慎一郎しんいちろうの言葉ではないが、最後の瞬間に望んだものが、目に映っている。暖かいおもいが、そのまま撫子なでしこの顔に浮かんでいた。


「すいません。我慢できなくなりました」


「なっ、な、なにをだっ? おい、こら……っ!」


 慎一郎しんいちろうに背中から抱きしめられて、撫子なでしこはまた、林檎飴りんごあめのような顔になった。


 もがいて、声を上げようとして、くすくすと笑っている年配ねんぱいの御婦人や制服姿の高校生カップルに気がついて、撫子なでしこはとにかくいろいろ飲み込んだ。


 窓に写った、おもしろい表情の自分は、しっかりと化粧けしょうをして口紅くちべにも塗っていた。


 奈々美ななみ撫子なでしこは今日、サイズ調整の終わった婚約指輪こんやくゆびわを、宝石店に受け取りに行くのだ。



********************



 先に食事をしてから、二人で、昼下がりの街を少し歩いた。


 撫子なでしこと違って、慎一郎しんいちろうはあまり、都内の散策を楽しむということがなかったようだ。


 目的地の点を結んだ、効率最優先の線上を移動する、どこの世界でも男の行動は、おおむねそういうものだった。


「そう言えば、姫さまの脱走につき合わされた時も、こんな感じだったよな。いちいちかしたり、次に行く場所を確認したり、今思えば悪いことしたなあ」


「後ろで見ていて、胃が痛くなりましたよ。姫の機嫌がどんどん悪くなるのに、まったく気がつかなかったでしょう?」


「田舎育ちで、食料の買い出しくらいしかしてなかったんだから、しょうがないじゃないか。早く満足してもらって、城に返すことばかり考えてたよ」


「あなたの望むところにお供します、とまで言われて、鍛冶屋かじやで予備のナイフを探し始めた時は、国を追われる覚悟を決めましたよ」


「いや、その……そういう経験だって、なかったし……」


「ですから、有事ゆうじそなえる意味で、娼館しょうかんにも何度か誘ったでしょうに」


「おまえみたいなのが隣にいたから、清く正しい愛に夢を見てたんだよ!」


今生こんじょうは、私がその夢をかなえて差し上げますよ」


 慎一郎しんいちろうが、すずしい顔で手をつなぐ。撫子なでしこも、もう苦笑するしかなかった。


 目的地はあるけれど、適当に目についた店ものぞき込む。昼食を済ませたばかりでも、テイクアウトの新作スイーツなんかは、無視できなかった。ちょっと強引な、黒蜜抹茶梅くろみつまっちゃうめしそ味のソフトクリームを、二人で食べ歩きした。


「あはははは! 不味まずくはないけどさ、うめしそはらなかったよな、これ!」


「ですがそれでは、他と差別化ができませんよ。あなたなら、なにを加えますか?」


「んー、そう言われると、きなこも小豆あずきも普通だな……いっそマンゴーとか、南国系のフルーツ味で攻めてみるか?」


「冒険ですね。ではもう一歩進めて、ブランデー漬けの風味なんかいかがでしょう。芳醇ほうじゅんな香りと、奥深い甘さが……」


黒蜜くろみつとも抹茶まっちゃとも大ゲンカだろ、それ!」


 歩きながら、二人で大笑いした。同じように、楽しそうに歩く大勢の人たちの中に、二人も混じり合っていた。


 宝石店のある建物は、伝統的なおもむきのある外観と、時計台が目印だ。街のシンボルとして全国的に有名で、歩行者天国も、大勢の人でにぎわっていた。


 婚約指輪は、ちょっと典型的すぎるのでは、という形を選んでいた。奈々美ななみ撫子なでしこは、幸せに個性を求めていなかった。


 反面、今日のもう一つの目的だった、慎一郎しんいちろうおく結納返ゆいのうがえしの腕時計にはこだわらざるを得なかった。慎一郎しんいちろうが、とにかく一番安い物を選ぼうとするので、ブランドショップをはしごした。


 帰りにもう一度、時計台を見た。

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