3.ちょっと待って!

 夕暮れの街は、あちこちの店の明かりが色づいて、淡い星空のような美しさだった。その星空に包まれた時計台は、満月をいただく銀色のみねのようだ。


「宝石店は他にいくつもあるけど、この建物なら、きっとしばらく残ってくれるだろう? いつか、その……子供なんかが、生まれてさ」


 撫子なでしこは、慎一郎しんいちろうと組んだ腕に、身体をあずけた。


「親ののろけ話なんて聞きたくないかも知れないけど、指輪を見せびらかして……ほら、ここで買ってもらったんだよ、なんて、テレビに映った時計台を自慢なんかしてさ」


 二人の腕の間には、撫子なでしこのライトブラウンのバッグに入って、婚約指輪と結納返ゆいのうがえしの腕時計がある。上品な化粧箱とラッピングに包まれた、撫子なでしこ慎一郎しんいちろうの、約束の形だ。


 慎一郎しんいちろうも、優しく微笑ほほえんでいた。


「良いですね。かなり、完成形に近い幸せです」


「だから……こんなのは、もう駄目だ」


 撫子なでしこが、腕をほどいた。慎一郎しんいちろうから少し離れて、まっすぐに向かい合う。


「このねがいも、幸せも……奈々美ななみ撫子なでしこ冴木さえき慎一郎しんいちろうのものだ。俺たちが、つまみ食いして良いものじゃない」


 撫子なでしこの目から、涙が落ちた。


「おまえを愛してる。これが撫子なでしことしての気持ちなのか、俺の気持ちなのかなんて、どっちでも良い……愛してる。幸せだ。結婚して、家族になって……こんなに嬉しいこと、ないよ」


 撫子なでしこは、泣きながら笑った。笑いながら泣いた。


「おまえには、どうあやまれば良いのかわからない。これからどうすれば良いのかも、わからない……けれど、きっと方法があるはずだ。撫子なでしこのためにも、慎一郎しんいちろうのためにも、必ず方法を見つけ出す。だから……」


 こぶしを握りしめる。怖くても、つらくても、握りしめる。


「俺と一緒に、もう一度死んでくれ。ヒカロア」


 慎一郎しんいちろうが、最高の笑顔でうなずいた。


「それでこそ勇者です。もちろんですよ、私のアシャス」


 慎一郎しんいちろう撫子なでしこを抱き寄せて、くちびるを重ねた。


 撫子なでしこも、慎一郎しんいちろうの背中に腕を回した。


 時計台も、淡い星空の街も人波ひとなみも見えなくなって、ずいぶん長い時間、二人きりだった。くちびるが離れて、間近まぢかに目を見て、二人そろって苦笑した。


「私の、とかつけるなよ。恥ずかしい奴だな」


「言わないとわかってくれないでしょう、あなたは」


 そのまま、身体も離そうとした。離れなかった。


「え……?」


 撫子なでしこの手が、慎一郎しんいちろうのジャケットを、がっしりとつかんで離さなかった。


「ちょ……ちょおっっと待ったああああッ!」


 撫子なでしこが、いや、奈々美ななみ撫子なでしこ雄叫おたけびを上げた。通行人が、さっきまでのラブシーン以上に、立ち止まって凝視ぎょうしした。


「な、なに? なんで? え? 撫子なでしこなのか?」


 撫子なでしこが、いや、アシャスがうろたえる。百面相ひゃくめんそうと言うか、自分腹話術じぶんふくわじゅつの状態だ。


「おとなしく尊死とおとししてれば、なに勝手にルートもエンディングも決めちゃってんのよ! 冗談じゃないわ! こんな美味おいしいシチュエーション、簡単に手放てばなしてなるものですかッ!」


「い、いい、いや、あのね? お、俺たちは、もともと、こんな感じじゃなくて……」


「みなまで言うな! 不詳ふしょう、この奈々美ななみ撫子なでしこ、お兄ちゃんの少年漫画を借りパクしてた小学生時代から、男同士の行きすぎた友情はウェルカムよっ!」


「か、借りたものは返そうっ?」


「あたしの本棚ほんだなを使わせてあげただけよ!」


「パク、って自分でつけたよねっ? そ、それから、友情は友情だよ? よこしまな目で見るの、良くないよっ?」


「あんな描写、作者だって、ねらって描いてるに決まってるわよ! 直球勝負ちょっきゅうしょうぶなんだからこうから受け止めるのが、心意気こころいきってものでしょ!」


 果てしなく脱線だっせんして行くハイテンション一人芝居ひとりしばいに、慎一郎しんいちろうが、申しわけなさそうに頭を下げる。


「すいません。撫子なでしこちゃん、こういう人なんです」


「えええっ? あれ? き、きみ慎一郎しんいちろうくん? どうして? 普通に出て来れるのっ?」


 当の撫子なでしこが、いや、アシャスが仰天ぎょうてんする。慎一郎しんいちろうは当の慎一郎しんいちろうで、天然じみた、のんきな顔だ。


「それは、まあ……自分の身体ですから。でも、撫子なでしこちゃんがおとなしくしてたので、空気を読みました」


「グッジョブよ、シンイチロー!」


「さすがに、驚きましたね……われながら、どういう状態なんでしょうか、これは。とても興味深いですね」


 慎一郎しんいちろうが、いや、今度はヒカロアが、神妙しんみょうぶった顔をする。


 参加者が増えて、合計四人分の二人芝居ふたりしばいになった。とんでもないカオスだ。


「ええと、ぼくからすると昨日の夜、起きたまま夢を見始めたような感じですね。時間も遅かったですし、お皿の片づけもちょうど終わったので、そのまま寝ちゃいました」


「ええええっ? き、昨日の夜から、そんな状態だったの? 慎一郎しんいちろうくん、きみもだいぶ変わってるよ、そういうところ!」


「ますますグッジョブよ! とにかく、相手がシンイチローなら、なんの問題もないわ! あたしが許す! あらがえない甘々あまあま背徳感はいとくかん快楽かいらくにおぼれて、思う存分、身悶みもだえてッ! こころ観葉植物かんようしょくぶつになって、ガンしてるからッ!」


「か、観葉植物かんようしょくぶつは見られる方だよっ? それに、記憶はともかく、人格的にはいろいろ困るよっ? 親への正式な挨拶あいさつだって、両家りょうけの顔合わせだって、もう計画しちゃってるんだよっ?」


「そんなメンドくさいことは任せたわ!」


「ひどいこと言い切ったよっ?」


「彼女はああいう人物として……私が言うのもなんですが、慎一郎しんいちろうは、それで良いのですか?」


撫子なでしこちゃんが幸せなら、ぼくも幸せです」


「よく言ったシンイチロー! 愛のおすそ分けってやつよね! なんでこうなってるのか全然わからないけど、あんたたち、あたし的にはすごくせるし、メリーBADは好みじゃないの! いっちょ、みんなで幸せになるわよー!」


「ちょ、ちょっと待って! 愛とか幸せとか、それ以前におかしいからね、この状況っ?」


 撫子なでしこは叫んだ。


 誰が誰に向かって叫んでいるのか、わからなくなりかけていた。大体、自分という認識からおかしくなっているのだから、しようもない。


 順応力の高い都会の通行人は、もう、こういうものとして二人と、近くに撮影機材がないかを見渡していた。


 騒がしい二人四役の言葉が尽きて、撫子なでしこ慎一郎しんいちろう茫然自失ぼうぜんじしつに見つめ合った時、時計台のウエストミンスター式チャイムが、正時の四十五秒前を告げてひびいていた。

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