第十三話
しばらくそうしていただろう。落ち着きを取り戻した伊織はハッと思い至る。
「真さんは」
「ああ、二階で腰を抜かしてるよ」
直弘がくすくすと笑う。伊織は胸をなでおろす。だが――。
「来るなああああああああ!」
けたたましい叫び声に、伊織達は顔を上げる。二階からだ。直弘が階段に足を掛ける。
「真、どうしたの?」
問いかけに返ってくるのは意味を為さない悲鳴のみ。二階に登りかけた直弘が伊織に言う。
「伊織ちゃん、今すぐ蔵から出て」
伊織は言われた通りに外に出た。そして、息を呑む。
蔵全体が歪んでいる。赤土だった壁の色が黒さを帯び、鼻を衝く嗅いだことのあるにおいが漂い始める。
直弘とカイナが真を引きずって出てくる。真の顔の周りには黒い泥が纏わりつき、もう叫ぶこともままならない。
腐った怪異、化物だ。
伊織の血の気が引いた。
直弘が蔵から緑の鞄を蹴りだし、伊織に顔を向けにっこりと笑う。
「伊織ちゃん、その鞄の中身を母屋から出来るだけ遠くに投げて欲しい」
直弘に緊張感はない。だが、今がどれほど切迫した状況か、腐ったしらうさぎを見た伊織には分かる。
蔵全体が黒い泥に変わっていく。沸き上がる死臭に身を震わせながら伊織は緑の鞄を開け、かつて直弘だった腕を握り、急な斜面に投げ込んだ。
大きな泥の塊がそれに飛びついていく。真の顔に張り付いていたモノも一緒に。
唖然とする伊織の手をカイナが引く。
『伊織ちゃん、喰われるよ』
伊織は慌ててそれから目を逸らし、直弘とカイナの後に続く。
直弘が扉の前で止まり、背を払う。
「おひまではありません」
カイナに促されて、伊織も同じように背を払い、口にする。真の背は直弘が乱雑に払った。
母屋の裏口の傍にしゃがみ込み、息を殺す。
「どうして……なんでだ……」
ぶつぶつと呟く真の顔からはヘルメットがなくなっていた。直弘が首をかしげる。
「どうしてヘルメットを外したの?」
「隙間から、化物が……」
息も切れ切れ真が言う。
「あはは。真はすごいなぁ」
直弘の声がやけに楽しそうで、伊織はぞっとした。そして、ぼそりと一言。
「このままじゃ僕とカイナも腐るかな」
なんて物騒な言葉。伊織は上げそうになった悲鳴を喉元で抑える。
直弘は辺りを見渡したかと思うと、ビニール袋を手に取り、真の頭にかぶせた。
「真、それ被って黙っといて」
扱いが雑すぎる。伊織は唖然とする。窒息死しないだろうか。少し心配だが、今は声を上げるのさえ怖い。
伊織はちらちらと真の様子を見るが、彼は項垂れたまま何も言わない。
どれくらいそうしていたのだろうか。死臭が薄らいでいく。
『そろそろ大丈夫ですかね』
カイナの言葉に直弘が頷いた。そして、裏戸を開けて外へ出ていく。伊織はそれを扉の隙間から覗く。
そこには蔵がなかった。
もともと何もなかったかのように、更地になっている。
「蔵自体が怪異になっていたんだね」
直弘がカイナに向かって言葉をかける。カイナが何を答えたかは分からない。
何もない土地に日を反射して輝くものがあった。直弘がそれを拾い、こちらに戻ってくる。
「真、ヘルメット」
「……」
真は無言でそれを受け取り、被った。だが、刹那、真はヘルメットの中で咳込み、投げるようにそれを外した。
真は土間に這いつくばり、えずいている。直弘は少し距離を取りながらも、それを優しい目で見下ろし、笑う。
「死臭がするかい? 仕方ないね」
直弘は転がったヘルメットをひょいと持ち上げた。
「伊織ちゃん」
直弘の声に伊織は真から顔を上げる。
「真を表まで送ってあげて」
伊織はぎこちなく頷いた。
お家から真の荷物を持ち出し、その肩を支え、何とか玄関の扉を出た。真の足はふらついている。外にあるのはバイク。
「あの、乗れますか?」
「……。ああ」
ヘルメットを取った真は日に焼けた、いかにも健康そうな浅黒い肌をしている。きっと、その顔は精悍で逞しいのだろう。だが、今、青い顔をし、汗まみれの真は酷く老けて見える。顔には化物に喰われかけた傷が刻まれていた。
真がバイクに向かい、そして、振り返る。
「なあ、伊織ちゃん。怖くないのか?」
「え」
「あの二人が怖くないのか?」
問われて伊織は返した。
「怖くありません」
真の顔が引きつった。そのまま当たり障りのない会話をして、真と別れた。
そういえば、直弘が言っていた真が怪異を腐らせるもう一つの理由は何だろう。
真が去った方を伊織はぼんやりと見つめた。
「真、帰った?」
直弘の声に振り返る。カイナがスマホに文字を打ち込む。
『そういえばあのおっさん、ヘルメットかぶってないじゃん。捕まるんじゃないですか』
「大丈夫じゃないかな」
目の前にいるのは怪異。怪異は恐ろしい。先程見た、過去のカイナは勿論怖い。だが、今ここにいるのは、ただの仲のいい夫婦。たとえ、二十年間で五人を消した化物だとしても。
真の表情を思い出す。父が伊織を見るのと同じ目をしていた。異様なものを見る、普通の人の目。
伊織は立ち止まり、真が去っていった方をもう一度、見つめた。
「伊織ちゃん、お茶にしない?」
『アップルジュースが飲みたい』
二人の言葉に伊織は小さく笑う。そして、母屋に足を踏み入れた。
その夜、伊織は布団の中で唸った。真のことが頭をよぎって仕方なかった。
篠原真。既婚者子持ちの四十五歳の郵便配達員。怪異を正しく恐れ、人の死を悼んでいる。
羨ましいのだ。妬ましいのだ。
だって、彼はどこまでも普通なのだから。
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